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どうして自分はよりにもよってこの男に連絡をしてしまったのだろうと優希は思うが、恐らく、優希から電話を受けた相手のほうがよほど驚いたに違いない。
最寄り駅近くの居酒屋で、優希と卓を囲んでいるのは、肥満体に小さな目をした中年の刑事だった。
「おしゃれな店を知らなくてすみませんね。北條先生がお酒を嗜まれないことを知っていたら、若いモンに店を聞いてきたのですが」
「あ、いえ、いきなり誘ったのは私の方ですから……どうぞ遠慮なく飲んでください」
では、と刑事――保坂は、生ビールを、優希はウーロン茶を口にする。
「仕事終わりの一杯は格別ですね」
「そうでしょう。今日はまた暑かったですし」
「おや、先生は、飲めないのですか、飲まないのですか?」
保坂が泡のついた口でにこやかに笑う。
優希は不思議と穏やかな気持ちで彼の顔を眺めていた。数か月前、この男のことをあんなにも嫌っていたのが嘘のようだ。
「昔、医者に禁酒を申しつけられて、気づけば治療が終わっても飲めないままです」
「ほう、それは残念。一度酒の味を覚えたあとに、それはおつらいでしょう」
「もう慣れましたよ。四半世紀ほどは昔の話ですから」
保坂が指折り数え、優希の年齢から年数をさかのぼって苦笑している。
未成年の頃に酒を覚えたなど、別に珍しい話でもあるまい。
「そうそう、私は大学の仕事を辞めたので、先生呼びはもうよしてください」
「ああ、確かそうでしたね。ついつい。もう復職なさらないのですか」
店員がテーブルにししゃもと枝豆、軟骨のから揚げを置いていく。
優希はあまりこの手の居酒屋に来ないが、お通しのポテトサラダを含めて味が濃い。絵に描いたような酒飲みの店だな、と漠然と思う。
保坂はその味の濃い料理を取り皿にわけ、さらに七味をかけて食べている。だからこんなに太るのだろうか。
「あれはもともと、前任者が体調不良で辞めてしまって、突然空いたポストだったのですよ。知人がそこのOBとかで、推薦してくれましてね……一般公募では、私のような経歴の者では、とても潜り込めなかったでしょう」
「しかし先生……北條さんは、O大学のご出身でしょう? 優秀でいらっしゃるではありませんか」
「とんでもない。結局、院には進学しませんでしたから。非常勤講師には、優秀な院卒ばかりですよ。その彼らでさえ、狭き門です」
「しかし、非常勤講師といえば、ワーキングプアの代名詞のようなところがありませんでしたか」
保坂の言葉に、優希は軽く頷く。
ポスドクの低収入問題は、一時期、日本の病理としてテレビなどでよく取り上げられていた。景気が多少良くなった今も彼らの処遇は変わらないのに、すっかり忘れ去られている。保坂はよく覚えていたものだ。
「保坂さん、私は週に1コマだけ、非常勤講師の仕事をしていました。さて、大学からお給料をいくらもらえるでしょう?」
突然、優希に投げかけられたクイズに、保坂が小さな目を丸くした。彼は考えるそぶりを見せながら、シシャモの頭を齧る。
「想像もつきませんが、仮にも大学の先生というお仕事ですよね。しかし、そういう問題を出されるということは、きっとそれだけでは暮らしていけない金額なのでしょうな」
「正解です。私の場合、だいたい1コマに8千円を切る程度です」
優希の答えに、保坂の箸からシシャモの胴体がぽろりと落ちた。
「1コマというと90分ですよね。7千いくらという話ですか」
「ええ、それでも年齢を考慮して、厚遇してくれている方なのですよ。半期でだいたい10万円少々ですかね。若ければもっと安くなる」
「はあ……それは、すさまじいですね」
単純に時給換算すれば5000円超なので、そのへんのアルバイトよりはよほど稼げると思われることもある。しかしながら、研究費用他は当然手弁当だ。大学によっては交通費さえ出ないこともある。
「だから、通常はいくつも大学を掛け持ちして、毎日休みなく複数の講義をこなすようになるわけです」
「それで、年収200から300万円とは、シビアな世界ですなぁ」
ため息をつく保坂に、優希は軽く微笑んで、ウーロン茶で唇を湿らせた。
「それでも、教授だなんだという将来を考えれば魅力的なのでしょうね。私には違いましたが」
「はあ……そんなものですか」
「私が、1コマだけをもらっていたのも、ああいうことがあってあっさり退職したのも、結局はそれが理由ですよ。たった90分のためとはいえ、その準備には膨大な手間暇がかかりますから。とても、割に合わない。経歴に箔をつけるためにと受けましたし、事実楽しくもありましたが、そこまで執着するほどではありませんでした」
「それは、よくわかりました。実はね、うちには息子がいるのですが」
保坂が店員を呼び止めて、ビールのお代わりを頼んだ。いつの間にジョッキを空にしていたのだろう。
「それが、今年大学に入りましてね」
「それはおめでとうございます」
「ありがとうございます。高卒で警官になった私に似ない出来のよい息子で、C大学の法学部に進学したのですが、どうも就職よりも研究に興味があるようなそぶりを見せておりまして」
優希は保坂の言いたいことを察した。親よりも学歴のよい息子に期待をかけて果ては学者か大臣か、と舞い上がっていたところに、優希が図らずも現実を突きつけてしまったといったところか。
「法学の研究家とは、格好いいですね」
「しかし、それだけで食べていけないのでは、親としては心配で困ります。古い考えなのでしょうけど……」
優希は悩んで、ウーロン茶のお代わりを頼んだのち、保坂の顔をそっと伺った。ビール2杯ではまだ酔いの気配も見えてこない。
最寄り駅近くの居酒屋で、優希と卓を囲んでいるのは、肥満体に小さな目をした中年の刑事だった。
「おしゃれな店を知らなくてすみませんね。北條先生がお酒を嗜まれないことを知っていたら、若いモンに店を聞いてきたのですが」
「あ、いえ、いきなり誘ったのは私の方ですから……どうぞ遠慮なく飲んでください」
では、と刑事――保坂は、生ビールを、優希はウーロン茶を口にする。
「仕事終わりの一杯は格別ですね」
「そうでしょう。今日はまた暑かったですし」
「おや、先生は、飲めないのですか、飲まないのですか?」
保坂が泡のついた口でにこやかに笑う。
優希は不思議と穏やかな気持ちで彼の顔を眺めていた。数か月前、この男のことをあんなにも嫌っていたのが嘘のようだ。
「昔、医者に禁酒を申しつけられて、気づけば治療が終わっても飲めないままです」
「ほう、それは残念。一度酒の味を覚えたあとに、それはおつらいでしょう」
「もう慣れましたよ。四半世紀ほどは昔の話ですから」
保坂が指折り数え、優希の年齢から年数をさかのぼって苦笑している。
未成年の頃に酒を覚えたなど、別に珍しい話でもあるまい。
「そうそう、私は大学の仕事を辞めたので、先生呼びはもうよしてください」
「ああ、確かそうでしたね。ついつい。もう復職なさらないのですか」
店員がテーブルにししゃもと枝豆、軟骨のから揚げを置いていく。
優希はあまりこの手の居酒屋に来ないが、お通しのポテトサラダを含めて味が濃い。絵に描いたような酒飲みの店だな、と漠然と思う。
保坂はその味の濃い料理を取り皿にわけ、さらに七味をかけて食べている。だからこんなに太るのだろうか。
「あれはもともと、前任者が体調不良で辞めてしまって、突然空いたポストだったのですよ。知人がそこのOBとかで、推薦してくれましてね……一般公募では、私のような経歴の者では、とても潜り込めなかったでしょう」
「しかし先生……北條さんは、O大学のご出身でしょう? 優秀でいらっしゃるではありませんか」
「とんでもない。結局、院には進学しませんでしたから。非常勤講師には、優秀な院卒ばかりですよ。その彼らでさえ、狭き門です」
「しかし、非常勤講師といえば、ワーキングプアの代名詞のようなところがありませんでしたか」
保坂の言葉に、優希は軽く頷く。
ポスドクの低収入問題は、一時期、日本の病理としてテレビなどでよく取り上げられていた。景気が多少良くなった今も彼らの処遇は変わらないのに、すっかり忘れ去られている。保坂はよく覚えていたものだ。
「保坂さん、私は週に1コマだけ、非常勤講師の仕事をしていました。さて、大学からお給料をいくらもらえるでしょう?」
突然、優希に投げかけられたクイズに、保坂が小さな目を丸くした。彼は考えるそぶりを見せながら、シシャモの頭を齧る。
「想像もつきませんが、仮にも大学の先生というお仕事ですよね。しかし、そういう問題を出されるということは、きっとそれだけでは暮らしていけない金額なのでしょうな」
「正解です。私の場合、だいたい1コマに8千円を切る程度です」
優希の答えに、保坂の箸からシシャモの胴体がぽろりと落ちた。
「1コマというと90分ですよね。7千いくらという話ですか」
「ええ、それでも年齢を考慮して、厚遇してくれている方なのですよ。半期でだいたい10万円少々ですかね。若ければもっと安くなる」
「はあ……それは、すさまじいですね」
単純に時給換算すれば5000円超なので、そのへんのアルバイトよりはよほど稼げると思われることもある。しかしながら、研究費用他は当然手弁当だ。大学によっては交通費さえ出ないこともある。
「だから、通常はいくつも大学を掛け持ちして、毎日休みなく複数の講義をこなすようになるわけです」
「それで、年収200から300万円とは、シビアな世界ですなぁ」
ため息をつく保坂に、優希は軽く微笑んで、ウーロン茶で唇を湿らせた。
「それでも、教授だなんだという将来を考えれば魅力的なのでしょうね。私には違いましたが」
「はあ……そんなものですか」
「私が、1コマだけをもらっていたのも、ああいうことがあってあっさり退職したのも、結局はそれが理由ですよ。たった90分のためとはいえ、その準備には膨大な手間暇がかかりますから。とても、割に合わない。経歴に箔をつけるためにと受けましたし、事実楽しくもありましたが、そこまで執着するほどではありませんでした」
「それは、よくわかりました。実はね、うちには息子がいるのですが」
保坂が店員を呼び止めて、ビールのお代わりを頼んだ。いつの間にジョッキを空にしていたのだろう。
「それが、今年大学に入りましてね」
「それはおめでとうございます」
「ありがとうございます。高卒で警官になった私に似ない出来のよい息子で、C大学の法学部に進学したのですが、どうも就職よりも研究に興味があるようなそぶりを見せておりまして」
優希は保坂の言いたいことを察した。親よりも学歴のよい息子に期待をかけて果ては学者か大臣か、と舞い上がっていたところに、優希が図らずも現実を突きつけてしまったといったところか。
「法学の研究家とは、格好いいですね」
「しかし、それだけで食べていけないのでは、親としては心配で困ります。古い考えなのでしょうけど……」
優希は悩んで、ウーロン茶のお代わりを頼んだのち、保坂の顔をそっと伺った。ビール2杯ではまだ酔いの気配も見えてこない。
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