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優希はもともとあまりテレビを見ない。
現在リビングに置いているテレビも、以前この家に入り浸っていた友人が、買い替えるからと勝手に置いて行ったものだ。
優希がテレビをつけるのは、仕事でDVDを見なければならないときを除けば、たまに少し大きな地震があったときや、台風情報を見るときくらいのものである。
ところが康太郎がこの家にやってきてからというもの、常にテレビがついている状態になってしまった。
康太郎には自室を与えたものの、基本的に彼はリビングにいることを好んだ。
そんなにこたつが好きなら部屋用に買おうかと提案したが、別にこたつのためにいるわけではなく、単に部屋にこもる習慣がないだけらしく、丁寧に断られてしまった。
(……常に音が聞こえてるって、結構、きつい)
そもそも優希には、共同生活の経験が、実家を出てからほとんどない。
他人への気遣いはできても、自分への気遣いを求めることは苦手だ。
それに、康太郎も非常識なわけではないから、テレビのボリュームもあくまで常識の範疇におさまっている。
まさかリビングのテレビを見るときはイヤホンをつけろというわけにもいかず、優希は悶々と自室で頭を抱えた。
最近優希が部屋にこもって作業するようになった理由の一つが、あのテレビである。
同居人がいるのにリビングに仕事を持ち込むのは悪いという気持ちもあるが、それ以上に、テレビを見たくない。
昼時のワイドショーなどでは、たまに、高崎瑛理が死んだ殺人事件の話題を流すことがある。
一般住宅に設置された防犯カメラに犯人らしき人物の姿が映っていて、そこから一気に捜査が進んだとか進んでいないとか。
春休みを前に、駅前でビラを配り始めた瑛理の両親の姿とか。
「これ、優希さんの大学じゃない?」
先日、さすがに康太郎にも気づかれてしまったようだ。
優希は端的に、瑛理が自分の講義の受講生で、遺体の第一発見者だと話した。
あの白い顔を思い出すと左側頭部がちくちくと痛む気がする。
康太郎の表情から察する限りでは、恐らく色々なことを聞きたかったのだろうが、優希が無表情になるとそれ以上問いかけてくることはなかった。
(……まあ、それくらいの気遣いはしてもらってもばちは当たるまい)
優希は椅子に腰かけたまま、思いきり背中を伸ばす。腰の骨がぼきぼきと音を立てた。
学生のレポートの添削はとうに終わり、成績もつけ終わった。
今、優希が手掛けているのは、海外に支社を置く会社の技術マニュアルの翻訳である。
パソコンの隣に置いたタブレットで資料を見ながら、専門用語を丁寧に日本語訳していく。
優希は、日本にはあまり存在しないロシア語の実務翻訳者である。
あまり存在しないということは、それだけ需要も少ないわけだが、それだけに一度仕事で信頼を掴めば、ほとんど専属のような状態になる。
ふと、机に置いたスマートフォンがちかちかと光っていることに気づく。
「……もしもし、北條です」
『優希さん、どうもご無沙汰です』
スピーカーから漏れる男の声に、優希はおやと目を丸くした。
「日野くん、久しぶり」
電話の相手は、優希が会社勤めしていた時期に携わったクライアントである。
彼は海外小説をメインに扱う出版社の社員であり、以前優希は彼からソ連時代の絵本の翻訳を依頼されたことがあった。
『最近どうですか』
「特に変わりは――ああ、親戚の子が一緒に暮らすようになったよ。それくらいかな」
『東京で受験でもするんですか、その子?』
「そういうわけじゃないけどね。わけありで、預かってる」
『なるほど。お仕事のほうは?』
「特に増えもせず、減りもせず」
『いいことじゃないですか』
電話の向こうで日野が笑った気配がする。
『ところで、映像翻訳やりません? 邦画を向こうでも上映することになって、吹替と字幕の翻訳者さん探してるんですよ』
「映画の仕事にも手を出してるの?」
『いえいえ、あっちの配給会社に僕の知り合いがいて』
映像翻訳と聞いて、優希は小さくうなる。
文字の翻訳よりも難易度の高い仕事だが、その分単価は跳ね上がる。
そのため通常はベテラン翻訳者にしか回らない仕事だが、今回はありがたいことに優希にお声がかかったらしい。
「字幕なら、多少はやったことがあるけど、その程度だよ」
『優希さんの翻訳のセンス、僕好きなんですよね。日露のできる翻訳者さんの中じゃ、一番いいと思う』
「それは嬉しいけど……ソンツァを通さなくていいの?」
『ソンツァ』とは、以前優希が勤務していた翻訳会社であり、日本国内におけるロシア語翻訳の分野においては寡占状態に近い。
本来であれば、この手の案件は、まずソンツァに話が持ち込まれるはずだ。
そこを飛ばしてフリーランスの優希と契約してしまうと、優希はともかく、日野の会社とソンツァの関係が微妙になるかもしれない。
優希の現在手掛けている案件も、もともとはソンツァの抱えていたものだ。優希が退職すると聞いて、客はソンツァとの契約を打ち切り、優希と個人的に契約をしてくれた。
つまるところ、ソンツァから見れば、優希に客を奪われた形になってしまったわけだ。
その件も含めて決して円満な退社ではなかったために、現在、優希とソンツァは絶縁状態にある。
『そこはお気遣いなく。むしろ、ソンツァさんから優希さんを口説いてこいって言われたもんで。この前社長が変わったの知ってます?』
「噂では、なんとなく」
『前の社長の弟さんが、今の社長なんですよ』
「弟なんていたんだ」
『異業種にいらしたそうですよ。優希さん、お時間あるようなら一度打合せしません? 新社長さんもお会いしたいようですし』
「そうだねぇ……コブ付きでもいいなら」
『コブ? ああ、親戚のお子さんのことですか』
「うん」
優希は椅子を軋ませて、康太郎がいるはずのリビングへ、襖越しに視線を送った。
「私が外に出ないから、あの子にも黴が生えちゃいそうでね。たまには連れ出してやらないと」
『個人的に出かける理由を仕事に求めないでくださいよ』
快活な日野の笑いにつられて優希も少しだけ口元を緩め、スケジュールを確認するために手帳を開いた。
現在リビングに置いているテレビも、以前この家に入り浸っていた友人が、買い替えるからと勝手に置いて行ったものだ。
優希がテレビをつけるのは、仕事でDVDを見なければならないときを除けば、たまに少し大きな地震があったときや、台風情報を見るときくらいのものである。
ところが康太郎がこの家にやってきてからというもの、常にテレビがついている状態になってしまった。
康太郎には自室を与えたものの、基本的に彼はリビングにいることを好んだ。
そんなにこたつが好きなら部屋用に買おうかと提案したが、別にこたつのためにいるわけではなく、単に部屋にこもる習慣がないだけらしく、丁寧に断られてしまった。
(……常に音が聞こえてるって、結構、きつい)
そもそも優希には、共同生活の経験が、実家を出てからほとんどない。
他人への気遣いはできても、自分への気遣いを求めることは苦手だ。
それに、康太郎も非常識なわけではないから、テレビのボリュームもあくまで常識の範疇におさまっている。
まさかリビングのテレビを見るときはイヤホンをつけろというわけにもいかず、優希は悶々と自室で頭を抱えた。
最近優希が部屋にこもって作業するようになった理由の一つが、あのテレビである。
同居人がいるのにリビングに仕事を持ち込むのは悪いという気持ちもあるが、それ以上に、テレビを見たくない。
昼時のワイドショーなどでは、たまに、高崎瑛理が死んだ殺人事件の話題を流すことがある。
一般住宅に設置された防犯カメラに犯人らしき人物の姿が映っていて、そこから一気に捜査が進んだとか進んでいないとか。
春休みを前に、駅前でビラを配り始めた瑛理の両親の姿とか。
「これ、優希さんの大学じゃない?」
先日、さすがに康太郎にも気づかれてしまったようだ。
優希は端的に、瑛理が自分の講義の受講生で、遺体の第一発見者だと話した。
あの白い顔を思い出すと左側頭部がちくちくと痛む気がする。
康太郎の表情から察する限りでは、恐らく色々なことを聞きたかったのだろうが、優希が無表情になるとそれ以上問いかけてくることはなかった。
(……まあ、それくらいの気遣いはしてもらってもばちは当たるまい)
優希は椅子に腰かけたまま、思いきり背中を伸ばす。腰の骨がぼきぼきと音を立てた。
学生のレポートの添削はとうに終わり、成績もつけ終わった。
今、優希が手掛けているのは、海外に支社を置く会社の技術マニュアルの翻訳である。
パソコンの隣に置いたタブレットで資料を見ながら、専門用語を丁寧に日本語訳していく。
優希は、日本にはあまり存在しないロシア語の実務翻訳者である。
あまり存在しないということは、それだけ需要も少ないわけだが、それだけに一度仕事で信頼を掴めば、ほとんど専属のような状態になる。
ふと、机に置いたスマートフォンがちかちかと光っていることに気づく。
「……もしもし、北條です」
『優希さん、どうもご無沙汰です』
スピーカーから漏れる男の声に、優希はおやと目を丸くした。
「日野くん、久しぶり」
電話の相手は、優希が会社勤めしていた時期に携わったクライアントである。
彼は海外小説をメインに扱う出版社の社員であり、以前優希は彼からソ連時代の絵本の翻訳を依頼されたことがあった。
『最近どうですか』
「特に変わりは――ああ、親戚の子が一緒に暮らすようになったよ。それくらいかな」
『東京で受験でもするんですか、その子?』
「そういうわけじゃないけどね。わけありで、預かってる」
『なるほど。お仕事のほうは?』
「特に増えもせず、減りもせず」
『いいことじゃないですか』
電話の向こうで日野が笑った気配がする。
『ところで、映像翻訳やりません? 邦画を向こうでも上映することになって、吹替と字幕の翻訳者さん探してるんですよ』
「映画の仕事にも手を出してるの?」
『いえいえ、あっちの配給会社に僕の知り合いがいて』
映像翻訳と聞いて、優希は小さくうなる。
文字の翻訳よりも難易度の高い仕事だが、その分単価は跳ね上がる。
そのため通常はベテラン翻訳者にしか回らない仕事だが、今回はありがたいことに優希にお声がかかったらしい。
「字幕なら、多少はやったことがあるけど、その程度だよ」
『優希さんの翻訳のセンス、僕好きなんですよね。日露のできる翻訳者さんの中じゃ、一番いいと思う』
「それは嬉しいけど……ソンツァを通さなくていいの?」
『ソンツァ』とは、以前優希が勤務していた翻訳会社であり、日本国内におけるロシア語翻訳の分野においては寡占状態に近い。
本来であれば、この手の案件は、まずソンツァに話が持ち込まれるはずだ。
そこを飛ばしてフリーランスの優希と契約してしまうと、優希はともかく、日野の会社とソンツァの関係が微妙になるかもしれない。
優希の現在手掛けている案件も、もともとはソンツァの抱えていたものだ。優希が退職すると聞いて、客はソンツァとの契約を打ち切り、優希と個人的に契約をしてくれた。
つまるところ、ソンツァから見れば、優希に客を奪われた形になってしまったわけだ。
その件も含めて決して円満な退社ではなかったために、現在、優希とソンツァは絶縁状態にある。
『そこはお気遣いなく。むしろ、ソンツァさんから優希さんを口説いてこいって言われたもんで。この前社長が変わったの知ってます?』
「噂では、なんとなく」
『前の社長の弟さんが、今の社長なんですよ』
「弟なんていたんだ」
『異業種にいらしたそうですよ。優希さん、お時間あるようなら一度打合せしません? 新社長さんもお会いしたいようですし』
「そうだねぇ……コブ付きでもいいなら」
『コブ? ああ、親戚のお子さんのことですか』
「うん」
優希は椅子を軋ませて、康太郎がいるはずのリビングへ、襖越しに視線を送った。
「私が外に出ないから、あの子にも黴が生えちゃいそうでね。たまには連れ出してやらないと」
『個人的に出かける理由を仕事に求めないでくださいよ』
快活な日野の笑いにつられて優希も少しだけ口元を緩め、スケジュールを確認するために手帳を開いた。
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