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1 アホの子を拾う
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「ねえねえ、これ作れる? 今度これ食べたい」
恋人の美弥子がそう言いながら料理上手の律に示した漫画の単行本。家庭的なレシピが紹介されたその書籍のジャンルは、いわゆるBLと呼ばれるものだった。
とはいえ件のそれはほとんど露骨な表現はほとんど無く、大した抵抗もなく料理漫画として律は完読した。その結果「読むなら読めばー」と軽い調子で部屋のローテーブルにその方面のコミックスを積み上げられ、なんとなく読まねばならぬかと手にし続ければ悪循環に陥るというもので、結果的にずるずると布教され続けた。
今思えば美弥子の好む趣向がサラリーマンモノだったのもいけなかったのかもしれない。
腐男子になったワケでも、ゲイになったワケでもないが律は一つだけ気になる事があった。
うしろって、そんなにいいのか……?
幼少の頃は好奇心旺盛と通知表に書かれ、その後長じるにつれて研究熱心だと評価され、そのまま研究に通じる職種についた律が、その疑問を不確かなまま放置するはずもなく━━
「というワケで。美弥子さん。」
「何がというワケ?」
美弥子は嫌な予感がして緊張した笑顔を浮かべ、来たるべき衝撃に備えた。
「後ろを試してみてもいいだろうか」
「何考えてんの。馬鹿じゃない」
理解があるだろう美弥子に軽い気持ちで協力を請うたところ、侮蔑と嫌悪感をあらわに告げられたのだった。
普段から言い出す事が突飛な彼であるが、基本は常識をわきまえたまじめな男である。彼女が拒否するその気持ちも分からないでもない。
「だよな」
そこで律はあっさりと引き下がり、うなずいて続ける。
「人のいじるなんて抵抗あるよな。すまなかった。自分でするから忘れてくれ」
美弥子は男の真意に気付いて愕然とし、次の瞬間思わず吠えていた。
「てめぇにやれって言ってたのかよ!」
※ ※ ※
少し大きなプロジェクト終えた建築デザイナーの雅文は雑居ビルの3階でひっそりと営まれているバーを久々に訪れた。
そこはいわゆる「そういうバー」で、客の半数は同性同士のカップル。残りは純粋に酒を楽しむ者もいるだろうがたいていは出会いに期待している。
もっと若い頃は割と頻繁に通っていたが、最近では仕事が充実するあまりひと段落着いた時などに思い付いたように顔を出すにとどまっている。
それとなくざっと見渡したそこでカウンターに座る男に目が引きつけられた。
三十になるか否かであろうにこなれたスーツ姿に短髪、細くもなくがっしりともしていない、なんともしなやかな体。
落ち着いた態度でグラスを傾け、時にバーテンダーをまっすぐ見つめて短く会話する横顔を伺い見る。
意志の強さの象徴するような直線に引いたような濃い眉に三白眼。そして知性を感じさせる黒い目で人の目をまっすぐ見詰める様子は真面目な人間に思えた。
「というワケでパートナーがいなくなりまして。セルフで実施してみたものの、どうも違う気がしてこちらにお邪魔した次第です」
割と好みのタイプの男の横にまんまと座る事に成功し、こちらもこちらで年上の余裕を持った態度で臨もうとしたのもつかの間、そんな彼に実に淡々とそれを打ち明けられた時、雅文は思った。
第一印象ってのはアテになんねぇもんだな、賢そうな顔してんのに。
「そっちの風俗行けばいい話なんじゃないの?」
あーあ、ノンケかよ。
三白眼のこの男がノーマルなのはすぐに分かった。ノンケに手を出すような愚行は侵さない。
相手と駆け引きする気など完全に消え失せ、思い付いた事を投げやりにも近い感覚で口にした。
雅文の提案を噛み砕いているのか、律はしばらく眉間に皺を寄せたがやがて切れ長の目を徐々に瞠って行く。
BL本がきっかけだった律は、「後孔を使う手段は男性同士のもの」という大変偏った知識になっており━━
「そのテがあったか……ッ!」
無念ッとでも言うかのように律は呻き、対して雅文は思った。
あ、アホの子だ。
「風俗。風俗か……」
解決したのだからさっさと帰ればいいのに、律は相変わらず難しい顔をして腕を組んで唸っている。
「行った事ない?」
「ないですね。そこから調べ直しか……風俗か……」
ぶつぶつ言った後、隣にいる男の存在を思い出したのかふと顔を上げた律は寄せていた眉を今度は八の字にして少し照れたように笑う。
「行った事ないんでちょっと緊張します」
ノンケがゲイバーに来るよりよっぽど敷居は低いわ!
心中で強くツッコんだ雅文に、律はおずおずと切りだした。
「すみません、もし可能でしたらこれぞという方をご紹介いただけないでしょうか」
「……ナニ言ってんのキミ」
真剣な表情に、雅文は天を仰ぎたくなった。
「知らない事は知らないままがいいって事もあるし。面白半分に首突っ込む事じゃないぞ?」
「ああ━━すみません、こんな事言われたら不愉快ですよね。でも興味本位でここまで来てこんな事言うと思いますか?」
強い意志を孕む眼差しを真っ向から向けられた雅文は、不覚にも動揺した。
あまりの馬鹿さ加減に。
万事が万事、丁寧で思慮深い態度ではあると思う。
もともと好みのタイプなので好ましいと思わないでもない。
が!
言っている事が無茶苦茶すぎるのだ。
いるよな、頭はいいのに馬鹿だなーって思うやつ。
「長々とすみませんでした。もう少し研究してみます。とても参考になりました。ありがとうございました」
コイツ諦めてないのかよ!
あーもう。
職場なら頭をガシガシと掻き倒していた所だ。
スツールから降り立つ男の手首をつかんで確認する。
「後悔しても知らねぇぞ?」
これまでとは低く、艶を含んだ声を発する雅文を、律は射抜くようにまっすぐに見つめ返した。
「後悔もまた人生には必要です。やらずに後悔するよりやって後悔する方がマシだと思っているので」
なにカッコいい感じで言っちゃってんだ、このアホの子め。
「ケースバイケースってもんがあるだろ」
脱力は禁じ得なかった。
どうして俺はここまでコイツを思いとどまらせようとしているのか。
ペロッといただいちゃえばいいのに、と思わないでもない。
若い頃なら間違いなく瞬殺で連れ出している。
だが三十代も半ばを過ぎると、こんなに真っ直ぐな男に軽い気持ちで手を出すのも何とも大人げない気がして躊躇われる。
律は雅文の言葉に一瞬驚いたように目を見張り、その後ふわりと表情を緩めた。
「正論です」
そうは言いながら黒い目には揺るぎない意志がまだくすぶっている。
「ただ、こんな事言ったら気を悪くされるかもしれませんが、自分が面白いと思った事は結果が出なくても時間を費やす価値があると、恩師に教えられまして」
こいつ、真面目で優秀な教え子だったんだろうなぁ。
こういう奴って教師とかにも好かれるだろうし、恩師とやらも目をかけてたりするんだよな。
でも。
その恩師は今のお前を見たら泣くと思う。
雅文はひどく残念な物を見る目つきで律を見やった。
ホント馬鹿だよコイツ。
※ ※ ※
そして、二人はホテルの一室に移動していた。
部屋に入ると律はまっすぐにクローゼットに向かい、中からハンガーを一本取りだして雅文に差し出す。
……気が利くな。
思わず受け取った雅文を尻目に律は次々脱いでいく。
実に男らしい堂々とした脱ぎっぷりだった。スーツのジャケットとワイシャツをハンガーに掛け、上半身裸のスラックス姿になった律は雅文を振り返ると、緊張した様子もなく口を開いた。
「一応準備はしていますが念のためシャワーついでに確認しときます」
雅文は再度頭を抱えたくなった。
いやいやいや!
なに仕事のチェック報告みたいに簡単に言ってんだよ!?
初心者だろうが!
あぁ、そういやセルフで試したって言ってたか……
「あのなぁ、風俗でも準備は不要って言うくらいなんだぞ。入れないんだから軽く準備してんならそれでいいよ」
「せっかくしてくださるというのに不快な思いをさせたくはないですし、こちらも気にして気が散るのも不本意なので。まぁ主にこっちの問題というワケです」
そう言ってなぜかかるく会釈し、つづら折りの状態のスキンをベッドヘッドにびらりと広げる。
ラブホのゴムは使わない主義か、と思ったものの、それにしては数が多い。
……超ヤル気?
思わず怪訝そうに眉をひそめてしまった雅文に、律は少し戸惑った様子を見せた。
「足りませんか?」
言ってから何かに気付いたように「あ」と小さく口を開く。
「医療用の手袋を用意した方が良かったですよね」
しまったと言わんばかりの険しい顔で言って、自動販売機が収納されているだろう部屋の作りつけのキャビネットを見やるが━━
……そんなマニアックなモン売ってねえだろ。
本当に、意味が分からない。
今度こそ雅文は軽く天を仰いだ。
恋人の美弥子がそう言いながら料理上手の律に示した漫画の単行本。家庭的なレシピが紹介されたその書籍のジャンルは、いわゆるBLと呼ばれるものだった。
とはいえ件のそれはほとんど露骨な表現はほとんど無く、大した抵抗もなく料理漫画として律は完読した。その結果「読むなら読めばー」と軽い調子で部屋のローテーブルにその方面のコミックスを積み上げられ、なんとなく読まねばならぬかと手にし続ければ悪循環に陥るというもので、結果的にずるずると布教され続けた。
今思えば美弥子の好む趣向がサラリーマンモノだったのもいけなかったのかもしれない。
腐男子になったワケでも、ゲイになったワケでもないが律は一つだけ気になる事があった。
うしろって、そんなにいいのか……?
幼少の頃は好奇心旺盛と通知表に書かれ、その後長じるにつれて研究熱心だと評価され、そのまま研究に通じる職種についた律が、その疑問を不確かなまま放置するはずもなく━━
「というワケで。美弥子さん。」
「何がというワケ?」
美弥子は嫌な予感がして緊張した笑顔を浮かべ、来たるべき衝撃に備えた。
「後ろを試してみてもいいだろうか」
「何考えてんの。馬鹿じゃない」
理解があるだろう美弥子に軽い気持ちで協力を請うたところ、侮蔑と嫌悪感をあらわに告げられたのだった。
普段から言い出す事が突飛な彼であるが、基本は常識をわきまえたまじめな男である。彼女が拒否するその気持ちも分からないでもない。
「だよな」
そこで律はあっさりと引き下がり、うなずいて続ける。
「人のいじるなんて抵抗あるよな。すまなかった。自分でするから忘れてくれ」
美弥子は男の真意に気付いて愕然とし、次の瞬間思わず吠えていた。
「てめぇにやれって言ってたのかよ!」
※ ※ ※
少し大きなプロジェクト終えた建築デザイナーの雅文は雑居ビルの3階でひっそりと営まれているバーを久々に訪れた。
そこはいわゆる「そういうバー」で、客の半数は同性同士のカップル。残りは純粋に酒を楽しむ者もいるだろうがたいていは出会いに期待している。
もっと若い頃は割と頻繁に通っていたが、最近では仕事が充実するあまりひと段落着いた時などに思い付いたように顔を出すにとどまっている。
それとなくざっと見渡したそこでカウンターに座る男に目が引きつけられた。
三十になるか否かであろうにこなれたスーツ姿に短髪、細くもなくがっしりともしていない、なんともしなやかな体。
落ち着いた態度でグラスを傾け、時にバーテンダーをまっすぐ見つめて短く会話する横顔を伺い見る。
意志の強さの象徴するような直線に引いたような濃い眉に三白眼。そして知性を感じさせる黒い目で人の目をまっすぐ見詰める様子は真面目な人間に思えた。
「というワケでパートナーがいなくなりまして。セルフで実施してみたものの、どうも違う気がしてこちらにお邪魔した次第です」
割と好みのタイプの男の横にまんまと座る事に成功し、こちらもこちらで年上の余裕を持った態度で臨もうとしたのもつかの間、そんな彼に実に淡々とそれを打ち明けられた時、雅文は思った。
第一印象ってのはアテになんねぇもんだな、賢そうな顔してんのに。
「そっちの風俗行けばいい話なんじゃないの?」
あーあ、ノンケかよ。
三白眼のこの男がノーマルなのはすぐに分かった。ノンケに手を出すような愚行は侵さない。
相手と駆け引きする気など完全に消え失せ、思い付いた事を投げやりにも近い感覚で口にした。
雅文の提案を噛み砕いているのか、律はしばらく眉間に皺を寄せたがやがて切れ長の目を徐々に瞠って行く。
BL本がきっかけだった律は、「後孔を使う手段は男性同士のもの」という大変偏った知識になっており━━
「そのテがあったか……ッ!」
無念ッとでも言うかのように律は呻き、対して雅文は思った。
あ、アホの子だ。
「風俗。風俗か……」
解決したのだからさっさと帰ればいいのに、律は相変わらず難しい顔をして腕を組んで唸っている。
「行った事ない?」
「ないですね。そこから調べ直しか……風俗か……」
ぶつぶつ言った後、隣にいる男の存在を思い出したのかふと顔を上げた律は寄せていた眉を今度は八の字にして少し照れたように笑う。
「行った事ないんでちょっと緊張します」
ノンケがゲイバーに来るよりよっぽど敷居は低いわ!
心中で強くツッコんだ雅文に、律はおずおずと切りだした。
「すみません、もし可能でしたらこれぞという方をご紹介いただけないでしょうか」
「……ナニ言ってんのキミ」
真剣な表情に、雅文は天を仰ぎたくなった。
「知らない事は知らないままがいいって事もあるし。面白半分に首突っ込む事じゃないぞ?」
「ああ━━すみません、こんな事言われたら不愉快ですよね。でも興味本位でここまで来てこんな事言うと思いますか?」
強い意志を孕む眼差しを真っ向から向けられた雅文は、不覚にも動揺した。
あまりの馬鹿さ加減に。
万事が万事、丁寧で思慮深い態度ではあると思う。
もともと好みのタイプなので好ましいと思わないでもない。
が!
言っている事が無茶苦茶すぎるのだ。
いるよな、頭はいいのに馬鹿だなーって思うやつ。
「長々とすみませんでした。もう少し研究してみます。とても参考になりました。ありがとうございました」
コイツ諦めてないのかよ!
あーもう。
職場なら頭をガシガシと掻き倒していた所だ。
スツールから降り立つ男の手首をつかんで確認する。
「後悔しても知らねぇぞ?」
これまでとは低く、艶を含んだ声を発する雅文を、律は射抜くようにまっすぐに見つめ返した。
「後悔もまた人生には必要です。やらずに後悔するよりやって後悔する方がマシだと思っているので」
なにカッコいい感じで言っちゃってんだ、このアホの子め。
「ケースバイケースってもんがあるだろ」
脱力は禁じ得なかった。
どうして俺はここまでコイツを思いとどまらせようとしているのか。
ペロッといただいちゃえばいいのに、と思わないでもない。
若い頃なら間違いなく瞬殺で連れ出している。
だが三十代も半ばを過ぎると、こんなに真っ直ぐな男に軽い気持ちで手を出すのも何とも大人げない気がして躊躇われる。
律は雅文の言葉に一瞬驚いたように目を見張り、その後ふわりと表情を緩めた。
「正論です」
そうは言いながら黒い目には揺るぎない意志がまだくすぶっている。
「ただ、こんな事言ったら気を悪くされるかもしれませんが、自分が面白いと思った事は結果が出なくても時間を費やす価値があると、恩師に教えられまして」
こいつ、真面目で優秀な教え子だったんだろうなぁ。
こういう奴って教師とかにも好かれるだろうし、恩師とやらも目をかけてたりするんだよな。
でも。
その恩師は今のお前を見たら泣くと思う。
雅文はひどく残念な物を見る目つきで律を見やった。
ホント馬鹿だよコイツ。
※ ※ ※
そして、二人はホテルの一室に移動していた。
部屋に入ると律はまっすぐにクローゼットに向かい、中からハンガーを一本取りだして雅文に差し出す。
……気が利くな。
思わず受け取った雅文を尻目に律は次々脱いでいく。
実に男らしい堂々とした脱ぎっぷりだった。スーツのジャケットとワイシャツをハンガーに掛け、上半身裸のスラックス姿になった律は雅文を振り返ると、緊張した様子もなく口を開いた。
「一応準備はしていますが念のためシャワーついでに確認しときます」
雅文は再度頭を抱えたくなった。
いやいやいや!
なに仕事のチェック報告みたいに簡単に言ってんだよ!?
初心者だろうが!
あぁ、そういやセルフで試したって言ってたか……
「あのなぁ、風俗でも準備は不要って言うくらいなんだぞ。入れないんだから軽く準備してんならそれでいいよ」
「せっかくしてくださるというのに不快な思いをさせたくはないですし、こちらも気にして気が散るのも不本意なので。まぁ主にこっちの問題というワケです」
そう言ってなぜかかるく会釈し、つづら折りの状態のスキンをベッドヘッドにびらりと広げる。
ラブホのゴムは使わない主義か、と思ったものの、それにしては数が多い。
……超ヤル気?
思わず怪訝そうに眉をひそめてしまった雅文に、律は少し戸惑った様子を見せた。
「足りませんか?」
言ってから何かに気付いたように「あ」と小さく口を開く。
「医療用の手袋を用意した方が良かったですよね」
しまったと言わんばかりの険しい顔で言って、自動販売機が収納されているだろう部屋の作りつけのキャビネットを見やるが━━
……そんなマニアックなモン売ってねえだろ。
本当に、意味が分からない。
今度こそ雅文は軽く天を仰いだ。
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