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思い出 1

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 新宿駅には、秒刻みのダイヤ通りに次々と電車が入ってくる。だから、ホームに長時間立ち止まる人はほとんどいないし、端にいた私たちに注意を払う人もいない。とはいえ公共の場なので、今さら恥ずかしくなり、少し体を離してから八木沢さんを見上げて謝った。

「ごめんなさい、こんな場所で泣いたりして。あの、お仕事は大丈夫ですか?」
「大丈夫、と言いたいところですが、これから戻らないと……いえ……槙木から連絡が」
「あ、多分私にも、同じメッセージが来てます」

 私たちはお互いの端末を見せ合った。槙木さんからの短いメッセージ。

『八木沢課長の半休ゲットだぜ』

 槙木課長の尽力により、八木沢課長は無事、午後半休を手に入れたらしい。二人で同時に「おかげさまで仲直りしました」と報告してお礼を伝えた。
 とりあえず改札を出るために階段を降りようとしたら、八木沢さんがごく自然に手を差し出してくれたので、ちょっと照れながらぎゅっと握った。

「帰りましょうか? それとも、どこかでお昼を食べますか?」
「そういえば、昨日から全然ごはん食べてなかったです!」
「じゃあ……こんなおじさんでよければ、ご一緒させてもらえませんか?」

 ああ、あの日も、私は急に空腹を覚えたんだった。
 昨日の事みたいに記憶が蘇って、何も言えなくなって、優しく笑っている八木沢さんの顔をじっと見てしまった。
 初めて会ったとき、「整ってるけど地味」などと失礼なことを思っていた。いつの間にか、「最高に格好いい彼氏!」と思うようになった。色々思い出したら恥ずかしくなってくる。なんだか耳が熱いから、顔が見えないようにうつむいた。

「お腹、空きました」
「どこかで食べてから帰りましょう」

 さらに下を向くように頷いて返事をして、思わずふふっと笑ったら、釣られたように彼も声を出して笑っていた。
 あの日と違うのは、繋いだ手と重ねてきた時間。八木沢さんのおかげでとても幸せ。
 東南口の割烹料理屋は、昼の時間帯は手頃な値段のランチを提供しているので、いつも長蛇の列が出来ている。相談して、東口にある老舗洋食屋へ行くことにした。提供が早いので、客の回転も早い。そんなに待たずに入れるだろうと行ってみたら、ちょうど開店前だった。
 レトロな外観、内装やテーブルなどにも年季が入っているが、丁寧に手入れされているのがよくわかる。看板メニューはロールキャベツ。甘いキャベツに、たっぷりのお肉が包まれている。八木沢さんは定番メニューを選び、私はカレーと迷って、まだ食べたことのないクリームコロッケにしてみた。私がサクサクの衣を楽しんでいると、八木沢さんが呟くように言った。

「和咲さんにはそうやって、楽しそうに笑っていて欲しいです。あなたがこんなに思い詰めたのも雅姫のせいですよね。僕は彼女を許さないので、和咲さんは心配しないでください」
「は? ……い、いえ、真に受けて思い込んだ私も悪いので……あの、お手柔らかに……」

 微笑みながら、有無を言わせない低い声で「和咲さんの素直さにつけ込むような真似を……許しません」と返されたので、反論するのをやめておいた。
 雅姫さんはそう簡単に諦めるタイプには見えないけど、同じくらい八木沢さんも頑固だと思う。ただ、私は彼女を憎みきれない。好きにもなれないけど。
 食後のコーヒーを飲み終わる頃には店内も混み合ってきた。そろそろお会計かなと伝票に手を伸ばしたら、気づいた彼に先に取られてしまった。私が払います、と言いたかったが、話題をそらすように彼から質問が飛んできた。

「必要なのでおたずねしますが、和咲さんの本籍地はどこですか?」
「江東区です。祖父母宅はもうありませんが、本籍はそのままにしてあります」
「なるほど。僕は鎌倉市です」
「そうなんですね」

 おそらく、おじい様が住んでいたという「鎌倉の本宅」のことだろう。相槌を打ったが、彼がなぜこんな話を始めたのか、私には全くわからない。

「どうします?」
「何がですか?」
「婚姻届を出す際の本籍です。どこにしましょう?」
「婚姻届……?」

 さっきプロポーズされて承諾したのだから、婚姻届に記載する内容についての相談は別に変じゃない。変じゃないのに現実味がない。現実味がなさすぎて、聞き返してしまった。
 婚姻届を出すことで、新戸籍が作られる。新しい本籍は二人で決めたいらしい。
 ちなみに結婚することを今でも「入籍」と言ったりするが、民法改正前、女性が結婚すると、相手の家の戸籍に入っていた家制度の名残だ。言葉の意味は時代によって変化するものだし、意味が通じるので使う人は多い。

「新宿でもいいですよね。でも、急に言われても決められないです、ごめんなさい」
「そうですね、すみません。気が急いて……あ!」
「なんですか?」
「近いうちに僕の家族に会ってもらえますか? 父親はもう鬼籍に入っていて、母親と兄姉だけですが。嫌なら別にいいです」
「嫌じゃないですよ」

 私が笑うと、彼が安心したように微笑みながら立ち上がった。
 これまで八木沢さんは、あまり自分の家族の話をしなかった。私に親族がいないからだと思う。私は一人ぼっちで気楽だが、八木沢家にとっては姻戚が増えるわけだから、当然ご挨拶は必要だろう。
 具体的に考え始めたら、不安になってきた。真臣の両親のように歓迎してくれない可能性もある。そうなると八木沢さんに申し訳ない。
 会計をすませて店の外に出ると、空は澄み切って風が冷たかった。歩いて帰るのかなと見上げたら、どうやらさっきの話が続いている。

「あとは……」
「まだなにか?」

 やっぱり結婚って大変だ。やることがたくさんある。結婚を面倒に思う人の気持ちはよくわかる。

「結婚式をしたいです」
「えっ!?」

 なぜか八木沢さんと結婚式のイメージが結びつかなかった。私自身、一度諦めたから、自分がまた結婚式の準備をするなんて想像しておらず、婚姻届を出すだけだと勝手に思い込んでいた。
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