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あなたにずっと言えなかったこと 1
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表面上はいつも通り、これまでと変わらない毎日を過ごしていた。
でも私は派遣の仕事を辞めて、お世話になっている工房のお手伝いとして働くことを決めていた。
以前から、工房の先生に「もし、もっと学ぶ気があるのなら、工房のスタッフとして雇っていい」と言われていた。
先生は四十代の女性作家。旦那さんは大手のデザイン事務所に勤めていて、お子さん二人はまだ小学生。昼間に開催している一般向けの陶芸教室は、段々受講者数が増えていたから、人手が欲しかったらしい。
いつも「今は絵付けも印刷が主流だから、手描きでやりたいって、興味を持ってくれるだけで嬉しい!」と言っている。若い人が減っているから、なおさらそう思うそうだ。
提示されたお給料は今と比べるとかなり減るので、アルバイトを掛け持ちしないと生活できそうにないが、将来への不安よりも解放感のほうが大きかった。
私も好きなことをしていいんだ。時間を忘れるほど夢中になることをしていいんだ、と。
もっと思い通りの線が描けるようになりたい。
更新時期が来るよりも早く会社を辞めることは、直属の上司と永遠子にだけ伝えた。
◆
骨董品の売却が終わり、荷物の運び出しがすむと部屋がとても広くなった。
掃除を終えて、休憩にお茶を淹れる。いつも通り。
「広くなりましたが、家賃はこれまでと同じでいいですから……」
「いいえ。私が出て行って、相場通りの家賃で、誰かに貸したほうがいいと思います。私、お引越ししようと思っています」
ダイニングテーブルにお茶を置きながら、何気ない口調でそう答えた。
私にできることは、笑って嘘をつくこと。八木沢さんを困らせないように。
空になった棚を見ていた八木沢さんは、私のほうへ振り返ったが、一言も発しなかった。怖くて、彼の顔を見ることが出来ない。物がなくなったリビングは、以前よりも寒い気がする。
「もう、この部屋にいる理由もないですし、そろそろ別れたほうがいいと思うんです」
沈黙が痛い。息が苦しい。自分がきちんと笑えているのか自信がない。
毎日、とても楽しかった。知らなかったことをたくさん教えてもらった。あのままだったら出会えなかった、たくさんの人に出会った。やりたいことも見つけられた。全部、八木沢さんと一緒にいたから。
こんなこと考えていたら泣きそうになるから、思考を遮断する。
「今までありがとうございました」
八木沢さんが腕を伸ばして、私の頬に触れる。見上げると、彼があまりにも冷たい目をしていたから、心臓が凍り付いて止まってしまうんじゃないかと思った。
「僕と別れたいんですか?」
「はい……」
冷ややかな声に、喉が詰まりそう。こんな顔をさせてよかったんだろうか。
悲しみとは少し違う、失望に近いような、こんな表情を。
「わかりました。あなたが言うなら、そうしましょう」
「は、はい……あの、十五階の鍵も、お返しします」
大切にしていた合鍵。すぐ渡せるように準備していた。
テーブルに置くと、八木沢さんはそれを受け取り、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。
ほら、やっぱり、引きとめないでしょ?
これで収まるところに、収まるから、大丈夫。
自分にそう言い聞かせる。これで大丈夫。
胸が痛くて、涙がいっぱい出てきて、このまま消えてしまいたいと思った。
何もしたくなくて、息をするのも嫌で、ただぼんやりしていた。
ふと気づくと夕刻で、なぜか夕飯を作ろうと思った。でも、冷蔵庫を開いても、なにも思い浮かばない。頭に入っているはずのレシピが出てこないから、お料理の本を取り出した。でも、工程が理解できない。
料理するのは諦めて、お風呂に入る。湯に浸かっていると少しずつ、現実が見えてきた。
終わった。
私はもう、あの優しい手に触れてもらうことはできない。
優しい声で名前を呼んでもらうこともできない。
また涙がいっぱい出てきて、息ができなくなる。
引越しは月末の予定だ。それまではここにいてもいいのだけど、とりあえず、明日はどこかへ行こうかな。
陶器を作る土と、絵付けに使用する絵の具は、同じ土地の物でないと綺麗に焼けないそうだ。焼成したときに、割れてしまうことがある。だから、焼き物はその土地に根付いて発展してきた。
色鮮やかな絵付けが人気の九谷、有田、それに波佐見、瀬戸……行きたい場所はたくさんある。見たいものもたくさんある。飛行機は乗ったことなくて怖いから、新幹線かな。
翌日、しばらく帰らないつもりで部屋の片付けをすませて、二階の馬木さんへ挨拶に行った。月末には引っ越すと告げると驚いて、「どうして、どうして?」と繰り返し、泣きそうな顔をしていたから、申し訳ないと思った。また遊びに来ます、とは言ったけれど、きっと難しいだろう。
まだ月曜日のお昼前。これから出発して、たどり着けるのはどのあたりだろう?
一日かけたら、九州の有田も行けるかもしれない。駅に行って思いつきで決めよう。そう思ってコートを羽織ったら、バッグの中にしまい込んでいたスマホが振動した。
八木沢さんからかもしれない。そんな期待をしなかったと言えば嘘になる。
電話を掛けてきたのは槙木さんだった。
でも私は派遣の仕事を辞めて、お世話になっている工房のお手伝いとして働くことを決めていた。
以前から、工房の先生に「もし、もっと学ぶ気があるのなら、工房のスタッフとして雇っていい」と言われていた。
先生は四十代の女性作家。旦那さんは大手のデザイン事務所に勤めていて、お子さん二人はまだ小学生。昼間に開催している一般向けの陶芸教室は、段々受講者数が増えていたから、人手が欲しかったらしい。
いつも「今は絵付けも印刷が主流だから、手描きでやりたいって、興味を持ってくれるだけで嬉しい!」と言っている。若い人が減っているから、なおさらそう思うそうだ。
提示されたお給料は今と比べるとかなり減るので、アルバイトを掛け持ちしないと生活できそうにないが、将来への不安よりも解放感のほうが大きかった。
私も好きなことをしていいんだ。時間を忘れるほど夢中になることをしていいんだ、と。
もっと思い通りの線が描けるようになりたい。
更新時期が来るよりも早く会社を辞めることは、直属の上司と永遠子にだけ伝えた。
◆
骨董品の売却が終わり、荷物の運び出しがすむと部屋がとても広くなった。
掃除を終えて、休憩にお茶を淹れる。いつも通り。
「広くなりましたが、家賃はこれまでと同じでいいですから……」
「いいえ。私が出て行って、相場通りの家賃で、誰かに貸したほうがいいと思います。私、お引越ししようと思っています」
ダイニングテーブルにお茶を置きながら、何気ない口調でそう答えた。
私にできることは、笑って嘘をつくこと。八木沢さんを困らせないように。
空になった棚を見ていた八木沢さんは、私のほうへ振り返ったが、一言も発しなかった。怖くて、彼の顔を見ることが出来ない。物がなくなったリビングは、以前よりも寒い気がする。
「もう、この部屋にいる理由もないですし、そろそろ別れたほうがいいと思うんです」
沈黙が痛い。息が苦しい。自分がきちんと笑えているのか自信がない。
毎日、とても楽しかった。知らなかったことをたくさん教えてもらった。あのままだったら出会えなかった、たくさんの人に出会った。やりたいことも見つけられた。全部、八木沢さんと一緒にいたから。
こんなこと考えていたら泣きそうになるから、思考を遮断する。
「今までありがとうございました」
八木沢さんが腕を伸ばして、私の頬に触れる。見上げると、彼があまりにも冷たい目をしていたから、心臓が凍り付いて止まってしまうんじゃないかと思った。
「僕と別れたいんですか?」
「はい……」
冷ややかな声に、喉が詰まりそう。こんな顔をさせてよかったんだろうか。
悲しみとは少し違う、失望に近いような、こんな表情を。
「わかりました。あなたが言うなら、そうしましょう」
「は、はい……あの、十五階の鍵も、お返しします」
大切にしていた合鍵。すぐ渡せるように準備していた。
テーブルに置くと、八木沢さんはそれを受け取り、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。
ほら、やっぱり、引きとめないでしょ?
これで収まるところに、収まるから、大丈夫。
自分にそう言い聞かせる。これで大丈夫。
胸が痛くて、涙がいっぱい出てきて、このまま消えてしまいたいと思った。
何もしたくなくて、息をするのも嫌で、ただぼんやりしていた。
ふと気づくと夕刻で、なぜか夕飯を作ろうと思った。でも、冷蔵庫を開いても、なにも思い浮かばない。頭に入っているはずのレシピが出てこないから、お料理の本を取り出した。でも、工程が理解できない。
料理するのは諦めて、お風呂に入る。湯に浸かっていると少しずつ、現実が見えてきた。
終わった。
私はもう、あの優しい手に触れてもらうことはできない。
優しい声で名前を呼んでもらうこともできない。
また涙がいっぱい出てきて、息ができなくなる。
引越しは月末の予定だ。それまではここにいてもいいのだけど、とりあえず、明日はどこかへ行こうかな。
陶器を作る土と、絵付けに使用する絵の具は、同じ土地の物でないと綺麗に焼けないそうだ。焼成したときに、割れてしまうことがある。だから、焼き物はその土地に根付いて発展してきた。
色鮮やかな絵付けが人気の九谷、有田、それに波佐見、瀬戸……行きたい場所はたくさんある。見たいものもたくさんある。飛行機は乗ったことなくて怖いから、新幹線かな。
翌日、しばらく帰らないつもりで部屋の片付けをすませて、二階の馬木さんへ挨拶に行った。月末には引っ越すと告げると驚いて、「どうして、どうして?」と繰り返し、泣きそうな顔をしていたから、申し訳ないと思った。また遊びに来ます、とは言ったけれど、きっと難しいだろう。
まだ月曜日のお昼前。これから出発して、たどり着けるのはどのあたりだろう?
一日かけたら、九州の有田も行けるかもしれない。駅に行って思いつきで決めよう。そう思ってコートを羽織ったら、バッグの中にしまい込んでいたスマホが振動した。
八木沢さんからかもしれない。そんな期待をしなかったと言えば嘘になる。
電話を掛けてきたのは槙木さんだった。
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