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過去と未来 3

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 熱海の梅園では、紅梅にはまだ早かったけれど、黄色の蝋梅ロウバイが咲き始めていた。艶々とした綺麗なこの花は、遠くからでもわかる程の強い芳香を放つ。

「甘くて優しい、いい匂いですね」
「新宿御苑にも蝋梅の木がありますから、帰ったら散歩に行きましょう」
「行きたいです」

 笑って返事をしたが、本当は東京に帰りたくないと思っていた。
 年末年始は家で過ごすものだと思っていた私にとって、上げ膳据え膳の高級旅館で過ごした三日間は、完全に非日常の世界だった。帰りたくないのは、この旅行がとても楽しかったから、という理由もあるが、東京に帰って現実に戻るのが嫌だったからだ。
 桂先生に言われた「つなぎの彼女かな?」という言葉が、棘のように刺さったままで、ふとした折に思い出してしまう。

 世間の広告がバレンタイン一色になった頃、残りの骨董品を売却する日が決まり、私は本格的に引越し先を探し始めた。
 通勤に便利な場所ではなく、工房に近い郊外に引っ越すつもりだ。都心部へ通勤通学する人たちのベッドタウンでもあるので、物件数は思っていたよりも多かった。
 あの日、桂先生から強引に渡された紙片には、彼女の住所と電話番号が記されている。私はそれを捨てていない。引越しを決める前に、確かめないといけないことがある。
 手頃な物件を見つけた日、私は勇気を出して連絡をとった。呼び出しのコールが鳴ると怖くて切りたくなった。出ないで欲しいと思っていたけれど、数コールで彼女の楽しそうな声が聞こえた。

『連絡くれると思ってた! ありがとう!』
「……聞きたいことがあるんです」
『なんだろ。私もあるから、良かったら直接話さない?』

 正直会いたくはない。電話で聞くつもりだったから、しばらく悩んだが、逃げてばかりなのもいやだなと思い、承知することにした。
 桂先生は、土曜日のランチタイムなら時間があるらしい。診察はお休みなのかと問うと、彼女は『アルバイトだから、毎日入ってるわけじゃないの』と答えた。
 六本木にあるホテルのロビーを指示されて、こちらが萎縮しそうな場所をわざと選んでいる気がした。彼女の目論見通り、そんな場所には近づいたこともないから、行く前から怖じ気づきそう。
 約束の日。初めて行く場所だから、早めに家を出たけれど、ホテルが商業施設と繋がっているようで、広くてよくわからなかった。天井も高くて、ここがロビー階で合っているのかも不安になってくる。誰かに聞こうかとあたりを見回して、ラウンジにいる桂先生を見つけた。
 美人過ぎてやっぱり目立っていた。
 しばらく見とれていたら、私に気づいた彼女が笑って手を振り立ち上がる。まるで待ち合わせしていた友人を見つけたかのような屈託のない笑顔だった。約束の時間よりも前だったが、会計を済ませてこちらへ来ると、彼女が言った。

「もう着いてたのなら、声かけてくれてよかったのに。上のステーキハウスを予約してるから。肉食べよ」

 ランチタイムならいいと言われたが、一緒にランチするなんて予想外だった。しかも彼女が全額払うと言う。

「え……食べませんよ」
「そう? いいよ、別に。ビュッフェだから好きにして」

 席に案内されたあと、好きにしてと言ったくせに「お料理取りに行こう」と連れて行かれて、「貧血予防なら、これとかこれ」と、取ろうとした料理に横から口を出してきた。

「桂先生って、変な人ですね」
「そうかな? ところで『先生』はやめにしない? 雅姫でいいよ」

 結局好きなものを少量取ってきたが、食事はさすがに美味しかった。桂先生――雅姫さんは、私のことなんか歯牙にも掛けない様子で、元気よくもりもり食べている。生命力が強い。

「質問って何?」
「雅姫さんは、ご結婚されてますよね? どうして日本に帰ってきたんですか?」
「結婚してるよ。でもいま、離婚裁判の途中なの。離婚しようとしたら、二年以上の別居っていう実績がいるんですって。原因は夫の浮気なのによ? 長いと思わない? どうせ別居するならと思って帰国した」
「別居……そうだったんですか……」
「私は子供を産みたくないの。それを承知で結婚したはずなのに、やっぱり子供が欲しいからって、若い女と浮気してたのよ、あの×××××野郎!」
 
 思い切り下品なスラングで罵っていた。美人が怒るとより怖い。
 帰国すると、知り合いがちょうど産休に入る医師の代わりを探していた。イギリスで婦人科だけは臨床の経験があったから、アルバイトとして採用されたらしい。

「裁判のことは手紙に書いたから、東梧は知ってると思うけど。聞いてないの?」
「……知りません」
「あら、そう。裁判で不利になりたくないし、しばらくは我慢する。この前もちゃんと帰ったでしょ?」

 我慢。八木沢さんも、我慢して……私と付き合っているのかな……?
 別居から二年経って、彼女が正式に離婚するまで。

「じゃあ、私も聞きたいことある。あなた、別れる気あるの?」
「どうして、そんなこと聞くんですか?」
「この前、理由言ったじゃない。忘れたの? 東梧は優しいから、自分からは言い出さない。だから、あなたから上手に別れたら、全て丸く収まると思わない? よく考えてね。どうしたら彼が幸せになれるのか」

 それは素敵なハッピーエンドだと思う。彼からは別れを切り出さないだろう、というのは私も同意だ。でも。

「でも、雅姫さんは帰って来なかったじゃないですか。何年も放っておいたじゃないですか!」
「そうよ。だから何? あなたこそ、彼氏に振られて誰でもよかったんじゃないの?」

 どうしてこの人が、私の事情を知っているんだろう。不思議に思って黙ったら、彼女が続けた。

「あなたについて、調べさせてもらった。生い立ちから言えるわよ。映画会社に勤めていた父親と、役者だった母親は、親に反対されて駆け落ち同然で結婚したが交通事故で他界。父親は施設育ちで身寄りがなく、母方の祖父母が渋々あなたを引き取った、とか」
「なんでそんなことまで……」
「あなたのこと知りたかったから。お金さえ払えば、身元調査って簡単なんだよね」

 八木沢さんにも言ってないことをこの人が知っているのが不快だった。
 お料理を作ってくれた方には申し訳ないけど、席を立った。
 私が帰ると察して、彼女が語気を強めた。

「あなた若いし、他にいくらでも男いるでしょ? 東梧は返して」
「八木沢さんは物じゃないです!」

 誰でもいいわけない! 八木沢さんだから一緒にいたい! 彼じゃないと意味がない!
 そう叫びたかった。
 走り出したいのを堪えて、歩いてお店を出た。自分がどっちから来たのかも分からなかった。どうでもいいからここから逃げたい。

 八木沢さんじゃないと意味が無い。この人生に意味が無い。
 でも、この想いを、八木沢さんも同じように抱いていたら?
 雅姫じゃないと意味が無い、と。
 
 私は八木沢さんの幸せを望んでいる。
 何かを諦めるのではなく、心から幸せそうにしている彼を見たい。
 でも、私じゃない誰かに笑いかけるのは見たくないんだ。
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