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遅い朝食のあと、明日からの旅行に備えて買い物へ出かけた。
年末年始は、八木沢さんが休みを取りやすいらしく、二人で旅行の計画を立てている。「沖縄や海外でもいいですよ」と言われたが、そうなると私が出すお金より彼の負担がかなり大きくなりそうだったので、近場の温泉地である熱海を選んだ。両親の新婚旅行先が熱海だったと聞いていたから、いつか行ってみたいと思っていた。
「梅にはまだ早いですが、少しでも咲いてるといいですね」
「本当に、二部屋じゃなくてよかったんですか?」
「一部屋でいい……です。やめてください、思い出したら恥ずかしい……」
スーパーマーケットのお菓子コーナーで突然そんなこと言わないで欲しい。私から部屋に押しかけた初めての夜を思い出すと、恥ずかしすぎて隠れたくなる。耳が熱いから、多分顔が赤い。
八木沢さんは「とても大胆でしたよね」と、からかって楽しんでいるので、仕返しにさっき彼が買い物かごに入れたガムをもっと辛口にしておいた。
飲み物やお菓子、今日の夕飯の食材も買い込んで、ゆっくり歩いてマンションに戻る途中、近所の歯科医院の扉に休診の張り紙があったので、つい立ち止まってしまった。かかりつけの病院も今日から休診だったはず。桂先生が八木沢さんに会いに来るんじゃないかと思うと不安になる。早く東京を離れたい。
帰宅して、冷蔵庫に食材を入れていたら、八木沢さんが「留守番してもらえますか?」と聞いてきた。
「なにか買い忘れました?」
「洗車するのを忘れてました。ワックスもかけていいですか? 混んでいたら時間かかるかもしれませんが……」
「じゃあ、私は夕飯の下拵えしてますね」
それに今朝、二度寝できなかったからお昼寝もしよう!
八木沢さんが朝からずっとご機嫌なので、「お休み嬉しいですね」と言ったら、コートを着ながら彼が答えた。
「最近、和咲さんは他のことに夢中で、僕は構ってもらえませんでしたから。一緒にいられて嬉しいんですよ。じゃあ、車を磨いてきます」
「いってらっしゃい! ピカピカにして来てください!」
玄関で見送るのは初めてで、「いってらっしゃい」という単純な挨拶になんだか胸がドキドキした。合鍵を使ってみてもいいのかな……。
下拵えも一段落して、デザートも作ろうと食材を確認していたらインターホンが鳴った。意外と早かったな、ガソリンスタンド空いていたのかなと思いつつ画面を見たら、そこに写っていたのは八木沢さんではなく長い黒髪の女性だった。カメラの位置が分かっているのか、少し斜めの角度で綺麗に上半身だけが写っている。
「桂先生……」
モニター越しでもわかる美人。かつて見た、上海での写真よりも艶っぽい。(やっぱり)という納得と、(すぐに実行したんだ、すごいな。私だったら決心するまで、きっと時間がかかる)というある種の尊敬と、(来て欲しくなかった)という正直な気持ちがない交ぜになって、呼吸がうまくできない。
(お願いだから帰ってください。八木沢さんが戻る前に帰って……!)
こんなこと願うなんて本当に自分勝手だ。会いたい人には会いに行ったほうがいい、と背中を押したのは自分のくせに。
エントランスからの呼び出しにこちらが応答しなければ、一定の時間が経つと切れてしまう。画面がふっと消えて、不在時の来客を示す青いランプが点灯した。動けないまま、その場に立ち尽くしていると、諦めなかった彼女がもう一度インターホンを鳴らした。その音にびくりと肩が震えた。向こうからは見えないはずなのに、動かない私が責められているみたいで怖い。
早く帰って、と祈るように画面を見つめていたら、時間が経って再度呼び出しは切れてしまった。
きっと彼女は諦めて帰っただろう。……これで、八木沢さんは会いたかった人に会えなくなる。
八木沢さんは、時折寂しそうな顔をする。彼はずっと何かを求めているのに、同時に諦めている。
だめ、やっぱり引きとめないと!
年末年始は、八木沢さんが休みを取りやすいらしく、二人で旅行の計画を立てている。「沖縄や海外でもいいですよ」と言われたが、そうなると私が出すお金より彼の負担がかなり大きくなりそうだったので、近場の温泉地である熱海を選んだ。両親の新婚旅行先が熱海だったと聞いていたから、いつか行ってみたいと思っていた。
「梅にはまだ早いですが、少しでも咲いてるといいですね」
「本当に、二部屋じゃなくてよかったんですか?」
「一部屋でいい……です。やめてください、思い出したら恥ずかしい……」
スーパーマーケットのお菓子コーナーで突然そんなこと言わないで欲しい。私から部屋に押しかけた初めての夜を思い出すと、恥ずかしすぎて隠れたくなる。耳が熱いから、多分顔が赤い。
八木沢さんは「とても大胆でしたよね」と、からかって楽しんでいるので、仕返しにさっき彼が買い物かごに入れたガムをもっと辛口にしておいた。
飲み物やお菓子、今日の夕飯の食材も買い込んで、ゆっくり歩いてマンションに戻る途中、近所の歯科医院の扉に休診の張り紙があったので、つい立ち止まってしまった。かかりつけの病院も今日から休診だったはず。桂先生が八木沢さんに会いに来るんじゃないかと思うと不安になる。早く東京を離れたい。
帰宅して、冷蔵庫に食材を入れていたら、八木沢さんが「留守番してもらえますか?」と聞いてきた。
「なにか買い忘れました?」
「洗車するのを忘れてました。ワックスもかけていいですか? 混んでいたら時間かかるかもしれませんが……」
「じゃあ、私は夕飯の下拵えしてますね」
それに今朝、二度寝できなかったからお昼寝もしよう!
八木沢さんが朝からずっとご機嫌なので、「お休み嬉しいですね」と言ったら、コートを着ながら彼が答えた。
「最近、和咲さんは他のことに夢中で、僕は構ってもらえませんでしたから。一緒にいられて嬉しいんですよ。じゃあ、車を磨いてきます」
「いってらっしゃい! ピカピカにして来てください!」
玄関で見送るのは初めてで、「いってらっしゃい」という単純な挨拶になんだか胸がドキドキした。合鍵を使ってみてもいいのかな……。
下拵えも一段落して、デザートも作ろうと食材を確認していたらインターホンが鳴った。意外と早かったな、ガソリンスタンド空いていたのかなと思いつつ画面を見たら、そこに写っていたのは八木沢さんではなく長い黒髪の女性だった。カメラの位置が分かっているのか、少し斜めの角度で綺麗に上半身だけが写っている。
「桂先生……」
モニター越しでもわかる美人。かつて見た、上海での写真よりも艶っぽい。(やっぱり)という納得と、(すぐに実行したんだ、すごいな。私だったら決心するまで、きっと時間がかかる)というある種の尊敬と、(来て欲しくなかった)という正直な気持ちがない交ぜになって、呼吸がうまくできない。
(お願いだから帰ってください。八木沢さんが戻る前に帰って……!)
こんなこと願うなんて本当に自分勝手だ。会いたい人には会いに行ったほうがいい、と背中を押したのは自分のくせに。
エントランスからの呼び出しにこちらが応答しなければ、一定の時間が経つと切れてしまう。画面がふっと消えて、不在時の来客を示す青いランプが点灯した。動けないまま、その場に立ち尽くしていると、諦めなかった彼女がもう一度インターホンを鳴らした。その音にびくりと肩が震えた。向こうからは見えないはずなのに、動かない私が責められているみたいで怖い。
早く帰って、と祈るように画面を見つめていたら、時間が経って再度呼び出しは切れてしまった。
きっと彼女は諦めて帰っただろう。……これで、八木沢さんは会いたかった人に会えなくなる。
八木沢さんは、時折寂しそうな顔をする。彼はずっと何かを求めているのに、同時に諦めている。
だめ、やっぱり引きとめないと!
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