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条件付き格安物件1
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新宿駅東南口は、商業施設やお笑い専門の劇場などがある。金曜の夜なので、普段よりもさらに人が多くて賑やかだった。
新宿御苑の方向へ歩きながら、私は八木沢さんに質問した。
「統計局って何をするんですか? 国勢調査?」
「国勢調査も仕事のひとつですが……僕の仕事は、おそらく戸樫さんが想像しているよりも技術系です」
政策の指針となるデータを取り扱うのが統計局で、八木沢さんはその統計を正確にするための基礎研究もしているらしい。国の行政制度の管理運営云々と簡単な説明を聞いたが、私にはよくわからなかった。わからないなりに、このおじさんは数字が好きなんだなというのは理解した。休日も論文を読んだりして過ごしているそうだ。頭良さそう(頭の悪い感想)。
お店は満席だったが、少し待てば席が空くとのことだったので外で待つことに。店員さんとのやりとりから、八木沢さんは常連客のようだ。九時の予約客が来るまでの短時間になるが特別に入れてもらえるそうで、あまり長居は出来ない。でも今夜はお酒を飲むつもりもないし、食事も少量でいいので、むしろ私には好都合だった。
案内されたのはカウンター席で、私は壁際に座らせてもらい、八木沢さんがその隣に座る。……さっきまで名前も知らない人だったのに。なんか不思議。
このお店は、ランチは手ごろだが夜のコースは高い。それは承知して支払いも覚悟していた。でも、「僕が誘ったからご馳走しますよ。お見舞いだと思ってください」と言われてしまい、お言葉に甘えることにした。
「食欲なんかないと思いますが、あなたが食べたいと思ったものを」
穏やかな口調でそう告げた八木沢さんは、このお店の落ち着いた雰囲気に馴染んでいる。きっとこういう大人のためにあるんだな、高級料理屋さんって。
清潔な店内に漂うお料理の良い匂い。さっきまで吐き気もして、なにも食べたいと思わなかったのに、お腹がすいていることに気づいた。結婚式の直前に破局したのに、我ながら薄情だなと思う。
このお店にはメニュー表がなく、旬のものを中心に、毎日違う献立になっているらしい。もずくのお吸い物がとても美味しくて温かい。
シンプルな器に品よく盛られた美味しいお料理に、確かに何度でも通いたくなるお店だと思った。お高いので、私には無理だけど。
八木沢さんのことは道すがら聞かせてもらったので、今度は私が自分のことを話した。
小学生の頃に両親が事故で他界し、一人残された私は祖父母に育てられた。祖父母の家は東京都江東区にあったが、祖父母の死後は老朽化を理由に取り壊され、親戚の手によってすでに土地も売却されている。
「私が相続人のはずだったんですが……ある日突然、売れたって聞かされました」
「その、売却したお金は?」
「育ててもらって、その分親戚に迷惑かけたから、という理由で……一円ももらってない、です……」
身内の揉め事は恥をさらしているようで嫌だったから、誰にも話したことはなかった。
美大に行きたかったけれど、準備の時間も学費も足りずに諦めた。
国立大学の教育学部で美術を専攻したので、美術の先生になりたいと思ったが、圧倒的に求人がなく、余裕のない私は生活のために派遣社員になった。
「じゃあ、本当はもっとやりたいことがあるのでは?」
「もしかしたら他の道があったのかもしれないですが、私にはこれが精一杯です」
笑って話したが、八木沢さんが考え込むような表情になったので、こんな話ばかりで申し訳ないと謝った。八木沢さんが何か言う前に、自分から話題を変えた。
「そういえば、楽しみにしていたブライダルエステは、せっかくだから行こうと思ってます! でも、式場にキャンセルの連絡をするのは気が重いです。担当のプランナーさんが一生懸命な良い方だったので……」
「……うん、辛いですね」
その一言に情感がこもっている気がして、この人は私と同じような体験をしたんじゃないかと思った。だから放っておけないのかと。……勝手な想像だけれど。
新宿御苑の方向へ歩きながら、私は八木沢さんに質問した。
「統計局って何をするんですか? 国勢調査?」
「国勢調査も仕事のひとつですが……僕の仕事は、おそらく戸樫さんが想像しているよりも技術系です」
政策の指針となるデータを取り扱うのが統計局で、八木沢さんはその統計を正確にするための基礎研究もしているらしい。国の行政制度の管理運営云々と簡単な説明を聞いたが、私にはよくわからなかった。わからないなりに、このおじさんは数字が好きなんだなというのは理解した。休日も論文を読んだりして過ごしているそうだ。頭良さそう(頭の悪い感想)。
お店は満席だったが、少し待てば席が空くとのことだったので外で待つことに。店員さんとのやりとりから、八木沢さんは常連客のようだ。九時の予約客が来るまでの短時間になるが特別に入れてもらえるそうで、あまり長居は出来ない。でも今夜はお酒を飲むつもりもないし、食事も少量でいいので、むしろ私には好都合だった。
案内されたのはカウンター席で、私は壁際に座らせてもらい、八木沢さんがその隣に座る。……さっきまで名前も知らない人だったのに。なんか不思議。
このお店は、ランチは手ごろだが夜のコースは高い。それは承知して支払いも覚悟していた。でも、「僕が誘ったからご馳走しますよ。お見舞いだと思ってください」と言われてしまい、お言葉に甘えることにした。
「食欲なんかないと思いますが、あなたが食べたいと思ったものを」
穏やかな口調でそう告げた八木沢さんは、このお店の落ち着いた雰囲気に馴染んでいる。きっとこういう大人のためにあるんだな、高級料理屋さんって。
清潔な店内に漂うお料理の良い匂い。さっきまで吐き気もして、なにも食べたいと思わなかったのに、お腹がすいていることに気づいた。結婚式の直前に破局したのに、我ながら薄情だなと思う。
このお店にはメニュー表がなく、旬のものを中心に、毎日違う献立になっているらしい。もずくのお吸い物がとても美味しくて温かい。
シンプルな器に品よく盛られた美味しいお料理に、確かに何度でも通いたくなるお店だと思った。お高いので、私には無理だけど。
八木沢さんのことは道すがら聞かせてもらったので、今度は私が自分のことを話した。
小学生の頃に両親が事故で他界し、一人残された私は祖父母に育てられた。祖父母の家は東京都江東区にあったが、祖父母の死後は老朽化を理由に取り壊され、親戚の手によってすでに土地も売却されている。
「私が相続人のはずだったんですが……ある日突然、売れたって聞かされました」
「その、売却したお金は?」
「育ててもらって、その分親戚に迷惑かけたから、という理由で……一円ももらってない、です……」
身内の揉め事は恥をさらしているようで嫌だったから、誰にも話したことはなかった。
美大に行きたかったけれど、準備の時間も学費も足りずに諦めた。
国立大学の教育学部で美術を専攻したので、美術の先生になりたいと思ったが、圧倒的に求人がなく、余裕のない私は生活のために派遣社員になった。
「じゃあ、本当はもっとやりたいことがあるのでは?」
「もしかしたら他の道があったのかもしれないですが、私にはこれが精一杯です」
笑って話したが、八木沢さんが考え込むような表情になったので、こんな話ばかりで申し訳ないと謝った。八木沢さんが何か言う前に、自分から話題を変えた。
「そういえば、楽しみにしていたブライダルエステは、せっかくだから行こうと思ってます! でも、式場にキャンセルの連絡をするのは気が重いです。担当のプランナーさんが一生懸命な良い方だったので……」
「……うん、辛いですね」
その一言に情感がこもっている気がして、この人は私と同じような体験をしたんじゃないかと思った。だから放っておけないのかと。……勝手な想像だけれど。
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