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新宿駅1

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 新宿駅には人工地盤がある。
 線路の上空に巨大な人工地盤を作り、そこにバスターミナルや駅コンコース等が建設されている。そのため新宿駅構内は、地上ホームであるにも関わらず空が見えない。したがって昼間でも地下のように暗い。
 一日の乗降客が約三百五十万人と言われている新宿駅。JR東日本だけでも一番線から十六番線まであり、八つのホームを有している。
 いま私が立っているのは、そのJR新宿駅でも一番端にある八番ホーム。反対側の一番線は遠すぎて見えないくらいに広い。そのホームの柱に設置された長方形の鏡は、定期的に清掃されているのか、私の疲れた姿を明確に映し出していた。

 駅構内には鏡が点在しており、これらは主に広告や安全確認のために設置してあることが多い。そしてもう一つ、線路への飛び込みを考えている人に、「自分の顔を見ることによって我に返り、思いとどまって欲しい」という、抑止の目的もあるらしい。
 これが本当に抑止になるのかな?
 自分の顔を見て、ますます落ち込んだりしないのだろうか?
 そう思って鏡を見ると、見つめ返してくるもう一人の私は、無感情で覇気のない顔をしていた。梅雨特有の湿気で、ひとつに束ねた長い髪の毛はいつもより重たく感じる。

 気が緩んだのか疲れたのか、中央快速の車内で気分が悪くなってしまったので、新宿駅で降車して休むことにした。ホームの柱にもたれたが、姿勢が悪いから余計に顔色も悪く見える。我ながら情けない。
 帰ると言ったのに。……まだ、帰る気になれない。今、住んでいる下北沢の家には真臣との思い出しかない。

 先ほどまで、帰宅ラッシュの満員電車の中にいたので、背中にもじっとりと汗をかいている。急になにもかもが不快に思えてきた。
 鏡を見つめながら、唐突に「髪を切りたい」と思った。失恋したから髪を切る人なんて今時いないと思うけれど、単純にこの重さから逃れたい。
 結婚式のために伸ばしていたけれど、その必要はなくなってしまった。
 
 鏡を見るのをやめて俯くと、全身に風を感じた。次の電車が入線し、大勢の人たちが降りていき、待機していた大勢の人が乗り込んでいく。家路を急ぐのか、これから出勤なのか、新宿駅で乗り換える人も多いが、ホームでぼうと佇んでいる私に目を向ける人は一人もいなかった。

 もしかして、真臣から連絡が来るのではないか、と握りしめていた携帯電話が振動した。しかし、届いたメッセージは近隣のお天気情報だけ。もうすぐ雨雲が来るらしい。
 雨女の私は、雨が降るたびに真臣から「和咲のせいだよ」とからかわれていたことを思い出す。
 念願かなって一緒に暮らし始めて、とても楽しかったのに。
 とにかく、まずは家探し。現在、二人で暮らしているマンションは、当然出て行かなくてはならない。

「やっぱり新宿駅の近くがいいかなあ……通勤に便利だから」

 私の独り言は中央特快の発車する音にかき消されて、自分の耳にも届かなかった。
 過密なダイヤグラムで動く新宿駅の風景の中で、私は独りぼっちなのだなと再認識した。こんなにたくさんの人がいるのに。
 でも大丈夫。前に進める。生きていける。もともと私は一人だもの。
 しばらく休んだから、吐き気と頭痛もおさまってきた。

 とりあえず、どこかで少し時間を潰そうかと一歩踏み出した瞬間、私の真横に人の気配を感じた。邪魔にならないよう避けようと線路側へ移動したら、その人から急に腕を引かれたので振り返った。

「だめです」

 私に向かって真剣な表情で制止の言葉を放ったのは、さっき東京駅で倒れそうな私を支えてくれたおじさんだった。低い声に強い意思を感じる。私の右腕は痛くないけど容易には振り払えない力で掴まれていた。彼は私の腕を掴んだまま、言い聞かせるように説明を始めた。

「新宿駅は、ほとんどの電車が停車するので減速して入線してきます。だから飛びこんでも怪我ですむかもしれない」

 特急電車も必ず停車するのが新宿駅だ。新宿始発の電車も多い。止まらずに通過するのは、貨物列車か回送列車くらいだと思う。それは私も承知していたので、素直にうなずいた。

「ええ、そうですね」
「それに、ここはターミナルなので、人身事故があった場合、ダイヤがかなり乱れてしまい、損害賠償額は相当な金額になります」
「……それを言われると躊躇いますよね」

 なぜ、このおじさんは、こんな怖い話をしているのだろうかと疑問に思いつつも賛同した。私の返事を聞いて、彼は少し安心したような口調になった。

「振られても自暴自棄になってはだめですよ。君はまだ若い」

 おじさんは、私の腕を掴んだまま、熱情を込めて私の瞳を見つめて真剣に語りかけてくる。気おされそうになったが、誤解を解くために提案した。

「……おじさん、ちょっと……あっちへ移動しましょう」
「考え直してくれてよかったです」

 背の高いおじさんが女である私の腕をずっと掴んでいるから、私たちは周囲の耳目を集めていた。私が先導してあまり人の通らない階段下へと移動した。
 歩いている間、彼はしっかりと私の腕を掴んだままだったし、なんなら線路が視界に入らないように立つので、さっきよりも距離が近い。身長差があるから歩幅も違うけど、私の歩調に合わせてくれている。きっと、東京駅での第一印象通り、優しい人なんだろうなと思う。
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