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1巻

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   プロローグ 聖女候補失格らしいです、やったね!


 消灯時間の直前。
 私はフワフワした銀色の毛玉をこっそりと自分のベッドに招き入れた。銀色の毛玉――イザックはすんすんと鼻を鳴らし嬉しそうにしっを振って、私の脇の下にもぐりこんでくる。

「イザックは温かいね~」

 私はイザックのモフモフを堪能しつつ、鼻先に軽くキスをした。お返しのキスみたいにイザックが口の周りをぺろぺろとめてきて、くすぐったい。

「もうすぐアルマが来るから、じっとしていてね」

 私がそう言うと、イザックは脇の下から足の間に移動した。彼のおかげでベッドが温かくなって心地良い。イザックの毛は長いから足に当たるとふわふわとくすぐったくて、つい笑ってしまう。
 言った通りにイザックはじっとしていたけれど、私が笑ってしまったせいで部屋の灯りを消しに来た侍女のアルマには簡単に見つかってしまった。
 アルマが掛け布をめくってため息をつく。

「ジゼルお嬢様、またイザックを部屋に入れたのですか!? 司祭様に叱られますよ!」
「大きな声を出さないでよ、アルマ。ちゃんと体は拭いたし、ほら足も綺麗でしょう? お願い、内緒にして! 寒いんだもん!」

 この部屋には暖炉があるから暖かい。けれど、中型犬のイザックは体温が高めだから、一緒に寝るともっとぽかぽかになるのだ。

「お願い!」

 アルマは犬好きだ。そして、イザックが私にとても懐いていることも知っている。
 イザックも頭を下げるような姿勢で「くーん」と小さく鳴いた。
 結局、上目づかいの私たちを見遣ったアルマは、諦めたような表情で「明朝、ざんしてくださいよ。おやすみなさいませ、ジゼルお嬢様」と言って燭台の灯りを消して部屋から出ていった。

「やったね! イザックもおやすみ」

 私はモフモフと寝る権利を勝ち取った。ベッドの中が温かいと睡魔はすぐにやってくる。
 早朝からお祈りをして、孤児院の子どもたちと庭を駆け回って、畑仕事もしてクタクタだったから仕方ない。疲れたけれど、今日も楽しい一日だった。
 王都にいた頃は、こんな自由なんて味わえなかった。
 汚されて捨てられた可哀そうな元聖女候補だの、伯爵令嬢だの、なんだのかんだの言われていた頃に比べたら、今の暮らしのほうがずっと幸せだった。

「イザックがいるし、ここでの生活は楽しくて仕方ないよ」

 月明りだけが射し込む部屋の中で、私は少しだけ体を起こして毛布の中に手を伸ばし、足の間にいる毛玉を撫でた。そんな私の手をペロっとめてくれたイザックは、とても可愛かった。
 私がこの女子修道院に来たのは、約二か月前。
 聖女候補として失格である、という烙印を押されて王都から追放された。その後、伯爵家の領地にある女子修道院で、慎ましく暮らすことになったのだ。
 ――伯爵令嬢という身分を捨てて。


    ◆


 サン・ウアル王国には代々『聖女』が存在する。
 大地の女神にちょうあいされた聖女が『祝福』を捧げることで、豊穣をもたらし、国を加護する。伝承に基づいて聖女は魔力が強くかつ処女であることが求められる。そのため聖女候補になると王宮の大聖堂カテドラルに集められ選抜試験を受けるのだ。
 基本的に一人で試験を受ける必要はあるが、候補者が身分の高い子どもだった場合には、親や侍女がついてくることも許可されていた。
 女神の代行者である聖女は、全王国民の崇拝の対象であり、聖女に選ばれるのは最高の栄誉であるとされた。
 昔は独身を貫いて、生涯を国のための祈りに捧げた聖女もいたらしい。でも今は聖女とは名ばかりになっていた。魔力よりも政治力のある貴族の娘が聖女になり、数年務めたあとは王侯貴族の子息と結婚して引退するのが慣例化していた。
 なお、聖女候補になった者は、たとえ聖女に選ばれなかったとしても、身分を問わず縁談の数が急増するらしい。
 魔力は後天的に備わるものではない。ゆえに、強い魔力を持つ聖女候補は、貴族社会では理想的な結婚相手として優遇された。持つ魔力の強さが、その家の格式や評判にも関わってくるからだ。
 さらに、強い魔力を持つ女性は、強い魔力を持つ子どもを産むと言われている。だから一部の貴族は魔力が強ければ平民でも妻にして子どもを産ませた。
 そんな風潮がある中、私は貴族でありながら魔力が弱いことで有名なトルトゥリエ伯爵家の次女として生まれた。だから『現聖女の力が衰え始めたので、次代の聖女を選出する』と国からお触れが出て、それを聞いた年頃の娘たちが色めき立っていても、何の興味も持たなかった。
 どうせ私の魔力も弱いのだから選ばれるはずなどない。
 そもそも最高の栄誉とやらにも、結婚にも興味のない私には、何もかもが縁遠い話のはずだった。
 だから、もう寝支度をしていたある夜、帰宅した父が応接室サロンに来るよう私に命じ、「お前も聖女候補の一人だ」と告げた時、私はかなり間抜けな顔をしていたと思う。

「私が……聖女候補?」

 ただ言われたことを繰り返し口にしただけで、全く事態を呑み込めていない私に向かって、酒が入った状態であろう父は上機嫌に話を続けた。

「そうだ、十二人の候補者のうちの一人だ、嬉しいだろう! 侍女をやる余裕などうちにはないから、大聖堂カテドラルには一人で行くように」

 余裕がないのは目の前にいるこの父親が散財した挙句、使用人の数を減らしたからなのだ。その言い方には腹が立ったが、なるべく父を刺激しないよう控えめに反論した。

「待ってください、お父様。……私はもう十八歳です。候補者のほとんどは、十二歳から十六歳ですよね?」

 父は不摂生な生活をしているせいで、今日も顔色が悪い。凄むようににらまれると見慣れているはずでも少し怖い。
 私の言葉に父は不機嫌そうな顔をして、吐き捨てるように言った。

「ジゼル、お前が社交下手で引きこもってばかりだから、この歳になっても縁談の一つさえ来ないのだ。生まれつき魔力だけは多少あるのだから、それを使って少しは家の役に立て」

 愛人宅に入りびたりで、ろくに屋敷にいない父が帰ってきたかと思えば「家の役に立て」などと命令されて、うんざりした。
 家の財産を食い潰している張本人にそんなこと言われても……と思ったが、口に出す勇気は私にはなかった。母の助けを請おうにも、この父が帰宅すると母は絶対に自室から出てこないのだ。
 見合い結婚とはいえ、私が幼い頃の父と母はとても仲が良かった。だが先代当主である祖父リオネルが亡くなると、爵位を継いだ父は金使いがどんどんと荒くなっていき、それにつれ両親の言い争いが増えた。
 そのうち、父は外に愛人を作って滅多に家に帰って来なくなり、実質的にこの家を仕切るのは、女主人である母と、伯爵家長男のアルチュールお兄様になった。
 だが、そんなろくでもない父であったとしても家長なので、命じられたのであれば、娘の私は従うしかない。
 私は地味で内向的で別段美人でもない。貴族社会で名をせることなどできるはずもなく、せいぜい政略結婚の駒として父に使われるだけの存在だろうと覚悟していた。
 兄はすでに結婚しているし、男遊びばかりしていた一歳年上の伯爵家長女、エステルもやっと婚約した。しかも国王の第二妃の生家である、ラ・ヴァリエール伯爵家の若き当主を捕まえた、と父も姉もはしゃいでいた。
 父は厄介者である私を、せめて聖女候補にして箔を付けてから嫁がせたいのだろう。

「わかりました……精一杯努めて参ります」

 ふんぞり返る父を一瞥いちべつして、私はしぶしぶ返事をした。
 一転して満足そうに頷いた父を見て、人の多い所へ行くのは嫌だなあ、と内心思っていた。


    ◆


 大聖堂カテドラルに集められた聖女候補者たちは隣接する寄宿舎で共同生活を始めるのだが、初日から私の存在はかなり悪目立ちしていた。
 私以外は皆、少女と言っていい年齢。
 一番背が高いデルサール侯爵令嬢ミシェルに期待したが、彼女が十六歳と紹介された瞬間、私は早くもここに来たことを後悔していた。
 王宮の敷地内にある大聖堂カテドラルは、二つの尖塔を持ち、建設に百年かかったと言われるほど壮麗な建物だ。
 青と赤を中心に彩色されたステンドグラスは、内側から見ると光が複雑に溶け合い、とても美しい。正面の装飾ファサードには神話に登場する神々の彫刻があり、入口の女神像は特に優美な御姿で有名だった。
 大聖堂カテドラルは祈りの場であると同時に、聖堂学校として聖職者たちが学ぶ場でもある。正式な聖女は聖職者であるため、候補者たちも全員が聖堂学校で神学や天文学を学ぶことになっている。
 私たちも例にもれず、集められたその日から早速授業が始まった。
 私は王都の学校には通わず、家庭教師から勉強を教わっていた。だから、大人数で講義室にいること自体が落ち着かない。
 はじめは少しそわそわしていたが、数日も経てばその状況にも慣れてくる。他の候補者たちのように、別に積極的に周囲に話しかける必要はないのだ。聖典を思う存分学ぶことができる今は、むしろ贅沢で楽しい時間なのでは、とさえ思い始めていた。
 相変わらず友達はできなかったが、聖堂学校も悪くないなと思い始めたある日のこと。
 私は授業を受けるために、寄宿舎から聖堂内の講義室へと一人で移動していた。
 その日は快晴だったので、きっと聖堂の床にはステンドグラスが綺麗に光を落としているだろうなあと思いながら歩いていると、皆が噂話をしているのが耳に入った。

「今日はヴィクトール王太子殿下が大聖堂カテドラルに来られるそうよ」
「もしかして、お声がけ頂けるチャンスなんじゃない?」
「でも、殿下にはすでに婚約者がいるんじゃ……」
「相手が王太子殿下なら、私は第二妃でも全然構わないわ。聖女より、そっちがいいかも」
「ちょっと、大司教様に聞かれたら候補者から外されるわよ」

 聖女候補が王族と結婚するのはよくあること。彼女らがここに来たのは『聖女になるため』ではなく『結婚相手探し』なのだろう。
 かく言う私も父親のゴリ押しで候補になっただけで、聖女になるつもりなど全然なかった。とはいえ彼女たちとは異なり、結婚する気もさらさらない。とにもかくにも、早くこの選定が終わり、元聖女候補という肩書がもらえればそれでいい。
 盛り上がる彼女たちを横目に講義室に着くと、何となく昨日よりもざわざわしている気がする。

(王太子殿下の視察があるかもしれないから、皆浮かれているのかな?)

 私は他人事のように考えながら、ざわつく教室をぐるりと見渡し、席に向かった。
 聖堂自体は古くからあるけれど、講義室は改装してあるので新しくて綺麗。椅子はオークざいで作られていて、背板には花びらの彫刻が施されていて可愛く、とても気に入っていた。
 しかし私が座ろうとしたその可愛い椅子に、なぜか分厚い聖典がどっさりと積んである。しかも、ご丁寧なことに、机の上にも聖典が置かれていた。
 聖典は全部で三十三巻。見上げるほど積まれたこの量だと全巻どころか外典までありそうだ。

(これだけ運んで来て載せるのは大変だっただろうなー。しかし、これじゃあ座れない)

 一体、誰がわざわざこんなにめんどくさいことをやったのか。手分けしてやったのかな、それとも何往復もしたのかしら?
 そんなどうでもいいことを考えていると、背後から声を掛けられた。

「トルトゥリエ伯爵令嬢ジゼル様、お座りにならないのですか? ……ああ、違いましたわ、座れないのですね!」

 振り返ると、綺麗に整えられた金髪を豪奢に結い上げて、煌びやかな宝石の髪飾りまでつけた美少女が、笑いながら私を見下ろしていた。
 舞踏会でもないのに、コルセットも身に着けているのであろう腰のくびれ。それによって、より強調された大きな胸元に私の目は釘付けになった。
 この美少女――デルサール侯爵令嬢ミシェルは、私よりも年下のはずなのに、何を食べたらあんなに胸が大きくなるのだろうか。伯爵家とは名ばかりの貧乏な我が家とは異なり、毎日いいものを食べてきたに違いない。うらやましい。
 周囲の光が反射しているのか、彼女の姿が眩しく感じられて目を細めていると、彼女はまた笑った。

「もう授業が始まりましてよ? 本日はヴィクトール王太子も視察に来られる特別な日なのですから、真面目に受けないと……ねぇ、皆様?」

 今度は明らかにあざわらっている。周りの少女たちもクスクスと笑っているから、これは全員示し合わせてのことなのだろう。
 これは私の憶測なのだが、おそらく他の候補者たちは、なるべく座学で私を蹴落としておきたいのだと思う。まして今日は王族が視察に来るらしいので、ライバルは一人でも少ないほうがいい。
 なぜ彼女たちが私を座学で蹴落としたいのかと言うと、聖女候補の中で私の魔力が一番強いからだ。
 我が家は代々魔力の弱い家系でほとんどの者が文官になる道を選んでいる。
 私も一般的な教科しか学習してこなかったので、自分が強い魔力を持つことに気づいていなかった。
 聖堂学校に来て、古代ローデヴァニア語で詠唱する『祝福』の作法を教わって、そこではじめて人よりもはるかに魔力が強いことを知った。
 あの瞬間の皆の驚いた表情は忘れない。そして、あの場にいた者のうちの誰よりも、私が一番びっくりしていた。

「どうして……貧乏伯爵家のあなたが……?」

 そう言って悔しそうに顔をゆがめていたのはデルサール侯爵令嬢だった。
 少なくとも弱くはない魔力を持っていたから、こうして聖女候補になったわけだが、まさか自分が実技で一番になるなんて予想外だった。ただ、たしかに実技では群を抜いているかもしれないけれど、政治力のない伯爵家の人間である私が、聖女に選ばれることはないだろう。
 だから、こんな悪意に晒されてまで講義に出席しなくていいや、と私はそっとため息をついた。
 ニヤニヤと笑う彼女たちの、子どもじみたくだらない意地悪に対して返答するのも面倒になり、私は黙ったままミシェルの横をすり抜けて聖堂の外へ出た。
 理由も告げずに欠席したら、聖女候補の査定に響くのは承知の上でのこと。
 何ならこのまま家に帰りたかったが、家族がびっくりするだろうからそこは我慢した。
 ――この日をきっかけに、私は授業に出ずサボりがちになり、最終的に隙あらば昼寝している怠け者として、十二人の聖女候補者の中でも、自他ともに認める最下位に転落した。
 そんなふうに劣等生として、これはこれでいいかと安穏あんのんと昼寝と読書を楽しんでいたが、突然、私は大司教から呼び出された。
 大司教はこの王都を含めた周辺を教区として受け持ち、この国の聖女を選出する責任者でもある。
 大聖堂カテドラルの司教座に座る大司教は、普段身につけている黒の平服スータンではなく、正式な場で着用する緑の法衣だったので、それを見た私は緊張した。座学も実技も不真面目だったから、いよいよ怒られるのかな。ただ、何か通達があるにしても大司教の従者の一人も控えていないのは何か変だなと思っていたら、大司教は私の予想以上の言葉を告げた。

「トルトゥリエ伯爵令嬢、そなたは聖女候補から外れてもらう」

 訓告や注意などなく落第させるのかと少しだけ不満はあったけれど、別に聖女になりたかったわけではないから、聖女候補に未練はない。

「……承知しました」

 突然すぎて状況がよくわからなかったけれど、私は素直に承諾した。
 何の抵抗も質問もせずにそう返事をしたから、大司教がびっくりしていたくらいだった。
 落第を通告されてすぐに荷物をまとめながら、どうやって屋敷に帰ろうかと考えていると、大司教は王家が管理する馬車に乗るよう私に命じた。
 しかも馬車の行先は王都にある伯爵家所有の屋敷ではなく、馬車で一日かかるトルトゥリエ伯爵領にある領主館。
 そして、領主館で待っていた母から事の顛末てんまつを聞いた。
 どうやら私は王太子殿下のお手付きで、処女ではないから候補から外されたらしい。そして、王都から出て、二度と登城してはならぬとお達しがあったそう。つまり、王都からの追放である。
 わざわざ王家の馬車に乗せてくれるなんて親切だなあと思っていたけれど、これは連行だったのか!
 あまりにびっくりしすぎた私は感情を上手く整理できず、もはや抑揚がなさすぎて棒読みになってしまった。

「へー、私は王太子殿下には会ったこともありません。身に覚えはないのですけど」

 王太子殿下が視察に来られると聞いた日の授業にさえ出ていないから、顔すら知らないのに。
 成績が悪すぎて聖女候補失格と言われるのならまだわかるが、処女ではないから失格と言われるとは……。残念ながら処女です。

「身に覚えがない、そうでしょうね」
「え? そうでしょうねってお母様、どういうことですか?」
「私も寝耳に水なのよ。まさかジゼルの純潔が疑われるなんて思ってなかったわ」
「そもそも相手がいませんものね」

 私は呑気に笑ったが、その様子を見た母は、尖った声で説明を始めた。

「デルサール侯爵が自分の娘を聖女にしたいがために噂を捏造したようなの。その噂を鵜呑みにした国王陛下はあなたを候補から外すよう命じた、ということ」

 母はギリギリと歯ぎしりしている。嚙み合わせが悪くなるだろうから、やめたほうがいいのに。なまじ美人だから噛みしめている顔がとても怖い。

「……はあ、結構な不名誉ですねえ」
「はあ、じゃないわよ。これはとんでもないことなの! 殿下には婚約者がいるのよ? 婚約者のいる男性とホイホイ寝るような女だと言われたの、わかってる?」

 そういえば、御年十八歳のヴィクトール王太子殿下は、十六歳のミュレー公爵令嬢との結婚が正式に決まっている。
 興味がないし、私は社交が苦手で、公的な集まりでない限り舞踏会にも夜会にも出席しなかったから、二人のこともあまりよく知らない。
 数少ない公式行事の舞踏会は、参加者がたくさんいるから、王家の方々には一瞬しかご挨拶できないし、その時に対面しているのであろう王太子殿下の顔も記憶にない。
 しかもご挨拶したのは社交界デビューした年のみだから、もう四年は会っていない。いや、会っているかもしれないけれど、全然覚えていない。
 それに、舞踏会には姉妹で参加することがほとんどなのだが、外向的で華やかな姉のほうが男性陣の注目をいつも集めているから、私の存在はかなり薄い。王太子殿下も陰にいた私のことを覚えていないだろう。
 そもそも殿下に限らず、トルトゥリエ伯爵家には娘が二人いるって覚えている人は、王都でも少ないんじゃないかなと思う。お茶会も、社交界デビューした年に数回招かれた程度で、人と話すのが苦手な私はほとんど喋らず、友達もできないままに帰宅したものだ。それくらい、私は社交から遠ざかっていた。
 私はそんなことを思い出しながら、母がデルサール侯爵や国王陛下に向けてずっと文句を言っているのをぼけーっと聞いていた。そんな私を見て、母が呆れた表情で大きなため息をつく。

「深刻なのよ、本当にわかっているの?」
「ええ……事実じゃないにしても、こんな噂が立ってしまった以上、嫁ぎ先がなくなったってことですよね? 元々結婚願望もなかったですし、これを機に修道院で働かせてもらえたら嬉しいです。たぶん私は王都の生活が向いていないんです」

 私が肩をすくめると、「そうかもしれないわね」と母が諦めたように呟いた。
 たとえ頑張って否定したとしても、不名誉な噂は簡単には消えない。これ以上、肩身の狭い思いをしてまであの世界で生きていたいとは思わない。
 幼い頃は、それなりに『花嫁さん』に憧れていたはずなのに、いつから私は結婚願望そのものを失ったんだろうか。

「お父様には『お役に立てなくてごめんなさい』とお伝えください」

 私がそう言うと、さっきまで激昂していた母が「結婚もできないなんて……」としくしく泣きだした。そんな母を私は一生懸命に慰めた。
 役立たずの娘が悲しませてごめんね、お母様。



   第一章 修道院でのびのびアグリライフ


 修道院に入り志願期を終え、司教に認められたら、私は正式な修道女になる。
 約一年間の志願期には休暇がなく帰宅が認められないので、「しばらく会えないから」と、母は王都へは戻らず、私の修道院入りのための身支度を手伝ってくれた。
 でも、持っていく物は特にない。好きだった本を自由に読めなくなるのは悲しいが、修道院には図書室があるから、神学関係の本を色々と読めるのは楽しみだ。
 母は王都に住む兄たちや親戚への連絡に追われて忙しそうにしている。何かしていると気がまぎれるのか、あれ以来、母が私の処遇に対して文句を言うことはなくなった。
 ただ、屋敷の使用人たちが「王太子殿下と通じているなんて……うちのお嬢様に限って、そんなことあり得ないのにね」などと噂しているのが耳に入ってくるようになった。
 同情してくれているのだろうか……いや、たぶんけなされている。
 ちなみに母と兄の配慮で、私と同じ歳の侍女、アルマが女子修道院までついてきてくれることになった。アルマは伯爵家に仕える使用人で、彼女の両親と一緒に幼い頃からずっと下女として働いていた。
 厳格だった祖父が亡くなったあと、たがが外れたかのように遊び始めた父のせいで借金が増え、使用人の半数に暇を出さなければならなくなった時も、「給金が下がってもいいから」と、家族全員で伯爵家に残ってくれた。
 アルマは下女から侍女になり、以来ずっと私のそばにいる。
 志願期が終わればアルマは私のもとを去り王都へ戻る予定だけど、それまで彼女が一緒なのはとてもありがたかった。
 身の回りの整理であっという間に時間が過ぎていき、修道院入りの支度が整った頃、なぜか突然、姉が領主館へやってきた。


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