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9 美しい君が頬を染める日。
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盤石な日々に相応しい平和が戻った。
「閣下。ロドニー橋の修繕において村人たちから不満が上がっております。仕事を休み手当ては出ず、監督者の横暴さが目立つのは確かであります」
「なるほど。ヘレン」
夫が私に委ねた。
「シーウェル卿。軍人を当てるのは婦女子が恐がり男たちが嫌がると、最初に申し出ていらっしゃいましたね」
「はい」
「今もその方針ですか?」
「いえ……それで、こうして……」
「私は監督者を改め、その上で人夫に日当と食事を用意するべきと思います」
「仰る通りです」
城下町とそれに連なる町や村を繋ぐ橋は、貿易の要だ。
その修繕に軍から人員の派遣と職人の手配をするという再建計画に、ランシマン伯爵エドウィン・シーウェル卿は近隣の村人を動員するという案を返してきた。
人海作戦でも充分であると判断したのは、人夫を使い捨てよという意味ではなかった。郷土愛が力になるならば、それが好ましいに違いないからだ。
「監督者の選定と、作業に当たる村人の待遇を改善。次」
夫が采配を下す。
そして続けて顔を表したのは、土気色の顔に焦燥らしき汗をかいた痩せた老紳士。
「閣下、こっ、この度は、愚息がとんでもない御無礼を働きました事、まこっ、誠に……ッ」
ハドリー卿の父、リーバー伯爵だった。
謝罪という筋を通しに来ただけで、もう済んだ事ではある。
「よくよく監督するように。次」
夫がこうした暮らしに根差した案件に対していられるのも、世の中が平和だから。それを思えば、日々あれこれと髄所で問題が起きていようと、一種の感謝さえ覚えてしまう。
そして、
「……」
見慣れたとは言わないまでも、できればもう見たくなかった顔が……
「閣下。大公妃へレン様、本日はお詫びと御挨拶に参じましてございます」
私の義父になるはずだった、ブルフォード伯爵その人だった。
アルヴィンは妹を追い出したものの、私に人脈的な旨味を求めて謁見に臨み、私が返り討ちにした。しかしその後、父親であるブルフォード伯爵がブルーノ大公家の縁戚という立場にしがみついた事が原因で、離婚は引き延ばされていたのだ。
それも、エセルの幽閉で片付いた。
大公直々に罪人の烙印を捺した女が家にいては、それはそれでたまらないのだろう。離婚は成立した。浅ましい事この上ないとはいえ、賢明な判断だ。
「遅い」
私はこめかみに青筋が浮くのを感じながら、睨んでそう言ってやった。
それから長い陳謝を聞き流しつつ、息を整えた。
「若かりし日に妻が世話になり、近頃は義妹が苦労をかけた。達者で。次」
夫が些末な件として受け流し、公務を進めていった。
その日。
公務を終え席を立つと、夫がふいに笑みを零した。
「?」
「いや。つくづく思ったのだけど……ヘレンは怒った顔も美しい」
「……なに言ってるの?」
近くにいる臣下や役人たちは聞こえないふり。
私が凝然と見あげていると、夫は更に、屈託なく顔を寄せて来た。
「頬が赤いよ」
「夕陽のせいでしょ」
「照れているヘレンも、可愛い」
「……!」
思わず吹き出してしまった。
この人は、いったい、こんな場所でなにを言い出すんだか。
私はくすぐったい気持ちに肩を竦め、口角をあげつつ夫を叩いた。
これで『鉄のおしどり夫婦が第三子を作る気だ』と噂がたち、医者が飛んできたのだけれど、それも愛すべき日々の中の微笑ましくも些末な問題と言える。
日々は確実に、続いていくのだ。
(終)
「閣下。ロドニー橋の修繕において村人たちから不満が上がっております。仕事を休み手当ては出ず、監督者の横暴さが目立つのは確かであります」
「なるほど。ヘレン」
夫が私に委ねた。
「シーウェル卿。軍人を当てるのは婦女子が恐がり男たちが嫌がると、最初に申し出ていらっしゃいましたね」
「はい」
「今もその方針ですか?」
「いえ……それで、こうして……」
「私は監督者を改め、その上で人夫に日当と食事を用意するべきと思います」
「仰る通りです」
城下町とそれに連なる町や村を繋ぐ橋は、貿易の要だ。
その修繕に軍から人員の派遣と職人の手配をするという再建計画に、ランシマン伯爵エドウィン・シーウェル卿は近隣の村人を動員するという案を返してきた。
人海作戦でも充分であると判断したのは、人夫を使い捨てよという意味ではなかった。郷土愛が力になるならば、それが好ましいに違いないからだ。
「監督者の選定と、作業に当たる村人の待遇を改善。次」
夫が采配を下す。
そして続けて顔を表したのは、土気色の顔に焦燥らしき汗をかいた痩せた老紳士。
「閣下、こっ、この度は、愚息がとんでもない御無礼を働きました事、まこっ、誠に……ッ」
ハドリー卿の父、リーバー伯爵だった。
謝罪という筋を通しに来ただけで、もう済んだ事ではある。
「よくよく監督するように。次」
夫がこうした暮らしに根差した案件に対していられるのも、世の中が平和だから。それを思えば、日々あれこれと髄所で問題が起きていようと、一種の感謝さえ覚えてしまう。
そして、
「……」
見慣れたとは言わないまでも、できればもう見たくなかった顔が……
「閣下。大公妃へレン様、本日はお詫びと御挨拶に参じましてございます」
私の義父になるはずだった、ブルフォード伯爵その人だった。
アルヴィンは妹を追い出したものの、私に人脈的な旨味を求めて謁見に臨み、私が返り討ちにした。しかしその後、父親であるブルフォード伯爵がブルーノ大公家の縁戚という立場にしがみついた事が原因で、離婚は引き延ばされていたのだ。
それも、エセルの幽閉で片付いた。
大公直々に罪人の烙印を捺した女が家にいては、それはそれでたまらないのだろう。離婚は成立した。浅ましい事この上ないとはいえ、賢明な判断だ。
「遅い」
私はこめかみに青筋が浮くのを感じながら、睨んでそう言ってやった。
それから長い陳謝を聞き流しつつ、息を整えた。
「若かりし日に妻が世話になり、近頃は義妹が苦労をかけた。達者で。次」
夫が些末な件として受け流し、公務を進めていった。
その日。
公務を終え席を立つと、夫がふいに笑みを零した。
「?」
「いや。つくづく思ったのだけど……ヘレンは怒った顔も美しい」
「……なに言ってるの?」
近くにいる臣下や役人たちは聞こえないふり。
私が凝然と見あげていると、夫は更に、屈託なく顔を寄せて来た。
「頬が赤いよ」
「夕陽のせいでしょ」
「照れているヘレンも、可愛い」
「……!」
思わず吹き出してしまった。
この人は、いったい、こんな場所でなにを言い出すんだか。
私はくすぐったい気持ちに肩を竦め、口角をあげつつ夫を叩いた。
これで『鉄のおしどり夫婦が第三子を作る気だ』と噂がたち、医者が飛んできたのだけれど、それも愛すべき日々の中の微笑ましくも些末な問題と言える。
日々は確実に、続いていくのだ。
(終)
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