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2 走るフェロモン伯爵

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 もう頭に血が昇っていた。
 私は人目もはばからず屋敷の中を駆け抜け、玄関広間も駆け抜け、重い扉を押し開け、前庭も駆け抜け、森に突っ込んだ。

 モイラとレニーのいる場所から、少しでも早く、少しでも遠くへ。

 それだけだった。

 森に入るとさすがに息も切れてきて、少し頭もすっきりした。
 朝の森は、特別、美しかった。

 私はひととき、大切なふたつの愛を失った事を忘れた。
 それがじわりじわりと蘇ってきた時には、頭で理解できるようになっていた。

 私は、裏切られた。
 愛したふたりは、裏切り者。

 壊れてしまったものは、元には戻らない。


「……っ」


 泣けてきた。

 でも、世界は美しい。

 小鳥の囀りに泣きながら微笑んで、私は川を目指した。
 この森の中には少し大きな川が流れていて、カメロン侯爵が散歩コースにしているため素敵な橋がかけられたと聞いていたのだ。

 4本の柱に支えられた、白い橋だった。
 橋の中腹まで来て、欄干に手を掛け、川を覗く。

 清らかな風が、川の音が、私の痛みを洗い流していく。


「……」


 私は、幼馴染と婚約者を失った。
 その人生を生きていかなければいけないのだ。

 でも、世界はこんなに美しい。
 きっと私には、新しい出会いが──


「待て待て待てぇッ!!」

「!?」


 突如として浴びせられた美声。
 私は驚きのあまり跳ねた。

 見ると、橋の手前からひとりの男性が走って来る。


「……」


 舞踏会で見て、知っていた。
 恋多き貴公子と名高い、麗しいアスター伯爵……が髪を振り乱して走って来る。


「早まるな! オリヴィア・レンフィールド!!」

「!?」


 なぜ。

 私の名前を……?


「んおおおおおおおおっ!」

「!」


 恐い!

 美青年のアスター伯爵が少し長い髪を全て後ろへ流して、キリッと眉を絞って、ギロッと私を睨んで、そして私の名を叫んでいるのだ。

 これは、只事ではない。

 頭の片隅では、理解していた。
 あれだけ屋敷の中を泣いて駆け回ったのだから、私になにがあったか、その醜聞が広まってしまってもふしぎではない。
 私は愛を失った、傷心のデラクール伯爵令嬢。
 
 その私、オリヴィアが、橋の欄干に手をかけてたそがれているのだ。

 ああ、御親切なアスター伯爵。


「オォーリィーヴィアァァァァァッ!」

「!」


 やっぱり恐い!

 逃げます!
 ごめんなさい!


「えっ!? なぜだ!」

「!」


 麗しいアスター伯爵から、できるだけ、遠くへ。
 私は白い橋を駆け抜けた。
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