11 / 28
11 カジミール・デュモン(※ジェルマン視点)
しおりを挟む
「ドルイユへようこそ、ルベーグ伯爵」
「……!」
僕は、息を呑んだ。
ビーズが鏤められた漆黒のドレスを纏うバルバラは、息を呑むほど美しかった。レースの襟が慎ましさと誘惑を兼ね備え、曲線の豊かなシルエットが魅力を跳ね上げている。
愛らしい乙女だったバルバラ。
魅力的な大人の女性になった。それも、世界一美しい女性に。
「なにか飲み物は? ブランデーはいかが?」
「あ……ああ。頂くよ」
なんてことだ。
まともに挨拶さえできなかった。
僕はまぬけか。
「どうなさったの? 魚みたいに口をパクパクして」
「いや……君が、あまりにも」
「老けていて驚いた?」
「そんな! まさか、違うよ。ずっと想像したんだ。君が素敵な女性になっただろうって。だけど、想像以上だった。それで驚いてしまったんだ」
「さあ、どうぞ」
慌てふためいて釈明していたら、もう僕の手にはグラスがあった。
「あ、ありがとう」
「長旅お疲れ様でした。でもその価値はありましたよ。この時期は嵐も少ないですし、収穫したばかりのそら豆がとても美味しいんです。ぜひマダム・コロワの宿にお立ち寄りください。気のいい女主人で、私と料理人を取り合うくらいに素晴らしい食堂を仕切っているんですよ。そら豆のシチュー」
「ああ、ぜひ。頂くよ。楽しみだ」
「もうすぐイチジクの収穫です。それまでいらっしゃる? マダム・コロワの作るジャムは、それはもうとてもとても美味しいんですよ」
「いや、そんなに長くは」
「あら残念。宿はお決めになりましたの? もちろんとっておきのお部屋を準備させていただきましたけれど、このドルイユも様変わりしましたでしょう? 面白いところがたくさんありますよ。ここは丘の上ですから、観光でしたら断然マダム・コロワの宿が便利ですの」
「ああ、えっと……」
僕はやっと気づいた。
大人になったバルバラ──レディ・ドルイユは、社交的で、親切で、そしてとても他人行儀だという事に。すっきりと結い上げた髪は知的でありながら、後れ毛が心をくすぐる。そんな浮ついた気持ちを跳ねのけるような、けれど不快にはならない絶妙な距離感。
彼女は一方的に婚約を破棄されたのだ。
僕を恨んでいたとしても、なんら不思議ではない。
覚悟の上だ。
「突然の訪問を快く迎えてくれて感謝します、レディ・ドルイユ」
改めて、伯爵として挨拶をした。
けれど見つめ返されれば、僕はすっかり、ただの恋するひとりの男に戻ってしまった。
控えめでいて煌びやかな微笑みに、魅せられる。
「バルバラ。会いたかった」
「ジェルマン」
見慣れない微笑みのまま、彼女が僕の名を呟く。
次の瞬間、バルバラは身を翻した。
「あなたにご紹介したい方がいますの。もうじき着くはずですわ」
「え?」
彼女は窓辺に寄り、枠に手を掛けて前庭を眺めた。
「あなたに会いたがってた。お気をつけ下さいましね、ルベーグ伯爵。油断すると、大金を毟り取られますわよ」
「……」
歓迎されない事も、その人物の存在も、なにもかも覚悟の上だった。
だが彼女の様子から、その心が完全に彼を頼りにしているのがわかってしまい、動揺した。
「噂は聞いているよ。君の、お友達の事」
「ええ。ほら、来ましたわ」
身振りで誘われ窓辺に並ぶ。
豪奢な馬車が前庭について、ひとりの男が飛び降りた。大柄で身形の整った、少し派手な若い男。彼はセシャンと目配せを交わして、視界を駆け抜けて消えた。
「まあ。よっぽどあなたに会いたいんだわ、あの人」
僕は想像以上の歓喜の直後に、想像以上の焦燥に震えていた。
駄目だ。
駄目だよ、バルバラ。
あんな男は、君に相応しくない。
「そうですわ、お詫びしなくては」
「えっ?」
彼女が声のトーンを落としたので、なにか改まった話が始まるとわかった。
身構えた僕に、バルバラは思いやりの篭った眼差しを、すぐ傍から注いでくる。
「昨年は御葬儀に行かなくて、ごめんなさい。昔の事とはいえ、まだ歓迎される身分ではないと思ったから」
父の事だ。
僕らの婚約を、酷い侮辱を浴びせ一方的に破棄した、忌々しい男。
だが、父親だった。
憎んだとしても、憎みきる事はできなかった。
愛していた。
「いや、いいんだ。こちらこそ、すまなかった」
ああ、そうだ。
まず言わなければいけなかったのは、心からの謝罪のはずだったのに。
僕は……
「立派な方だったわ」
それが皮肉ではなく、心からの言葉だというのは明らかだった。
彼女は、僕より先に大人になっていたのだ。
「随分ご無沙汰してしまったから、その……」
「ああ。まあ、少し、いや、だいぶ痩せはしたけど……胃を悪くしたからね。でも充分に準備できたし、眠っている間に召されたんだ。苦しまなかったよ」
「そう」
扉を叩く音が、空気を変えた。
彼女がレディ・ドルイユの顔に戻る。そうなってから、たった今、ほんの一瞬、僕のバルバラがあの頃と同じように心を開いてくれた、その一時が終わったのだと思い知った。
バルバラが急ぎ足で扉に向かう。
そして扉を開けて、応接室に招き入れた。
「ご紹介しますわ、ルベーグ伯爵」
あれほど大急ぎで走っていたというのに、息ひとつ乱していない。
それどころか、余裕たっぷりの微笑みさえ湛えて……
「私のとても仲良しのお友達、カジミール・デュモンよ」
「はじめまして、ルベーグ伯爵」
この男が、彼女を変えた。
「……!」
僕は、息を呑んだ。
ビーズが鏤められた漆黒のドレスを纏うバルバラは、息を呑むほど美しかった。レースの襟が慎ましさと誘惑を兼ね備え、曲線の豊かなシルエットが魅力を跳ね上げている。
愛らしい乙女だったバルバラ。
魅力的な大人の女性になった。それも、世界一美しい女性に。
「なにか飲み物は? ブランデーはいかが?」
「あ……ああ。頂くよ」
なんてことだ。
まともに挨拶さえできなかった。
僕はまぬけか。
「どうなさったの? 魚みたいに口をパクパクして」
「いや……君が、あまりにも」
「老けていて驚いた?」
「そんな! まさか、違うよ。ずっと想像したんだ。君が素敵な女性になっただろうって。だけど、想像以上だった。それで驚いてしまったんだ」
「さあ、どうぞ」
慌てふためいて釈明していたら、もう僕の手にはグラスがあった。
「あ、ありがとう」
「長旅お疲れ様でした。でもその価値はありましたよ。この時期は嵐も少ないですし、収穫したばかりのそら豆がとても美味しいんです。ぜひマダム・コロワの宿にお立ち寄りください。気のいい女主人で、私と料理人を取り合うくらいに素晴らしい食堂を仕切っているんですよ。そら豆のシチュー」
「ああ、ぜひ。頂くよ。楽しみだ」
「もうすぐイチジクの収穫です。それまでいらっしゃる? マダム・コロワの作るジャムは、それはもうとてもとても美味しいんですよ」
「いや、そんなに長くは」
「あら残念。宿はお決めになりましたの? もちろんとっておきのお部屋を準備させていただきましたけれど、このドルイユも様変わりしましたでしょう? 面白いところがたくさんありますよ。ここは丘の上ですから、観光でしたら断然マダム・コロワの宿が便利ですの」
「ああ、えっと……」
僕はやっと気づいた。
大人になったバルバラ──レディ・ドルイユは、社交的で、親切で、そしてとても他人行儀だという事に。すっきりと結い上げた髪は知的でありながら、後れ毛が心をくすぐる。そんな浮ついた気持ちを跳ねのけるような、けれど不快にはならない絶妙な距離感。
彼女は一方的に婚約を破棄されたのだ。
僕を恨んでいたとしても、なんら不思議ではない。
覚悟の上だ。
「突然の訪問を快く迎えてくれて感謝します、レディ・ドルイユ」
改めて、伯爵として挨拶をした。
けれど見つめ返されれば、僕はすっかり、ただの恋するひとりの男に戻ってしまった。
控えめでいて煌びやかな微笑みに、魅せられる。
「バルバラ。会いたかった」
「ジェルマン」
見慣れない微笑みのまま、彼女が僕の名を呟く。
次の瞬間、バルバラは身を翻した。
「あなたにご紹介したい方がいますの。もうじき着くはずですわ」
「え?」
彼女は窓辺に寄り、枠に手を掛けて前庭を眺めた。
「あなたに会いたがってた。お気をつけ下さいましね、ルベーグ伯爵。油断すると、大金を毟り取られますわよ」
「……」
歓迎されない事も、その人物の存在も、なにもかも覚悟の上だった。
だが彼女の様子から、その心が完全に彼を頼りにしているのがわかってしまい、動揺した。
「噂は聞いているよ。君の、お友達の事」
「ええ。ほら、来ましたわ」
身振りで誘われ窓辺に並ぶ。
豪奢な馬車が前庭について、ひとりの男が飛び降りた。大柄で身形の整った、少し派手な若い男。彼はセシャンと目配せを交わして、視界を駆け抜けて消えた。
「まあ。よっぽどあなたに会いたいんだわ、あの人」
僕は想像以上の歓喜の直後に、想像以上の焦燥に震えていた。
駄目だ。
駄目だよ、バルバラ。
あんな男は、君に相応しくない。
「そうですわ、お詫びしなくては」
「えっ?」
彼女が声のトーンを落としたので、なにか改まった話が始まるとわかった。
身構えた僕に、バルバラは思いやりの篭った眼差しを、すぐ傍から注いでくる。
「昨年は御葬儀に行かなくて、ごめんなさい。昔の事とはいえ、まだ歓迎される身分ではないと思ったから」
父の事だ。
僕らの婚約を、酷い侮辱を浴びせ一方的に破棄した、忌々しい男。
だが、父親だった。
憎んだとしても、憎みきる事はできなかった。
愛していた。
「いや、いいんだ。こちらこそ、すまなかった」
ああ、そうだ。
まず言わなければいけなかったのは、心からの謝罪のはずだったのに。
僕は……
「立派な方だったわ」
それが皮肉ではなく、心からの言葉だというのは明らかだった。
彼女は、僕より先に大人になっていたのだ。
「随分ご無沙汰してしまったから、その……」
「ああ。まあ、少し、いや、だいぶ痩せはしたけど……胃を悪くしたからね。でも充分に準備できたし、眠っている間に召されたんだ。苦しまなかったよ」
「そう」
扉を叩く音が、空気を変えた。
彼女がレディ・ドルイユの顔に戻る。そうなってから、たった今、ほんの一瞬、僕のバルバラがあの頃と同じように心を開いてくれた、その一時が終わったのだと思い知った。
バルバラが急ぎ足で扉に向かう。
そして扉を開けて、応接室に招き入れた。
「ご紹介しますわ、ルベーグ伯爵」
あれほど大急ぎで走っていたというのに、息ひとつ乱していない。
それどころか、余裕たっぷりの微笑みさえ湛えて……
「私のとても仲良しのお友達、カジミール・デュモンよ」
「はじめまして、ルベーグ伯爵」
この男が、彼女を変えた。
4
お気に入りに追加
874
あなたにおすすめの小説
王太子に求婚された公爵令嬢は、嫉妬した義姉の手先に襲われ顔を焼かれる
克全
恋愛
「アルファポリス」「カクヨム」「小説家になろう」「ノベルバ」に同時投稿しています。
『目には目を歯には歯を』
プランケット公爵家の令嬢ユルシュルは王太子から求婚された。公爵だった父を亡くし、王妹だった母がゴーエル男爵を配偶者に迎えて女公爵になった事で、プランケット公爵家の家中はとても混乱していた。家中を纏め公爵家を守るためには、自分の恋心を抑え込んで王太子の求婚を受けるしかなかった。だが求婚された王宮での舞踏会から公爵邸に戻ろうとしたユルシュル、徒党を組んで襲うモノ達が現れた。
逆恨みをした侯爵令嬢たちの末路~せっかくのチャンスをふいにした結果~
柚木ゆず
恋愛
王立ラーサンルズ学院の生徒会メンバーである、侯爵令嬢パトリシアと侯爵令息ロベール。二人は同じく生徒会に籍を置く格下であり後輩のベルナデットが自分たちより支持されていることが許せず、ベルナデットが学院に居られなくなるよう徹底的に攻撃をすると宣告。調子に乗った罰としてたっぷり苦しめてやると、揃って口の端を吊り上げました。
「パトリシア様っ、ロベール様! おやめください!」
ですがそんな二人は、まだ知りません。
自分たちは、最初で最後のチャンスを逃してしまったことを。自分達は、最悪のタイミングで宣告してしまったということを――。
溺愛を作ることはできないけれど……~自称病弱な妹に婚約者を寝取られた伯爵令嬢は、イケメン幼馴染と浮気防止の魔道具を開発する仕事に生きる~
弓はあと
恋愛
「センティア、君との婚約は破棄させてもらう。病弱な妹を苛めるような酷い女とは結婚できない」
……病弱な妹?
はて……誰の事でしょう??
今目の前で私に婚約破棄を告げたジラーニ様は、男ふたり兄弟の次男ですし。
私に妹は、元気な義妹がひとりしかいないけれど。
そう、貴方の腕に胸を押しつけるようにして腕を絡ませているアムエッタ、ただひとりです。
※現実世界とは違う異世界のお話です。
※全体的に浮気がテーマの話なので、念のためR15にしています。詳細な性描写はありません。
※設定ゆるめ、ご都合主義です。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。
婚約者の妹が結婚式に乗り込んで来たのですが〜どうやら、私の婚約者は妹と浮気していたようです〜
あーもんど
恋愛
結婚式の途中……誓いのキスをする直前で、見知らぬ女性が会場に乗り込んできた。
そして、その女性は『そこの芋女!さっさと“お兄様”から、離れなさい!ブスのくせにお兄様と結婚しようだなんて、図々しいにも程があるわ!』と私を罵り、
『それに私達は体の相性も抜群なんだから!』とまさかの浮気を暴露!
そして、結婚式は中止。婚約ももちろん破談。
────婚約者様、お覚悟よろしいですね?
※本作はメモの中に眠っていた作品をリメイクしたものです。クオリティは高くありません。
※第二章から人が死ぬ描写がありますので閲覧注意です。
婚約破棄ですか、すでに解消されたはずですが
ふじよし
恋愛
パトリツィアはティリシス王国ラインマイヤー公爵の令嬢だ。
隣国ルセアノ皇国との国交回復を祝う夜会の直前、パトリツィアは第一王子ヘルムート・ビシュケンスに婚約破棄を宣言される。そのかたわらに立つ見知らぬ少女を自らの結婚相手に選んだらしい。
けれど、破棄もなにもパトリツィアとヘルムートの婚約はすでに解消されていた。
※現在、小説家になろうにも掲載中です
身勝手な婚約破棄をされたのですが、第一王子殿下がキレて下さいました
マルローネ
恋愛
伯爵令嬢であるエリーゼは、第ニ王子殿下であるジスタードに婚約破棄を言い渡された。
理由はジスタードが所帯をを持ちたくなく、まだまだ遊んでいたいからというものだ。
あまりに身勝手な婚約破棄だったが、エリーゼは身分の差から逆らうことは出来なかった。
逆らえないのはエリーゼの家系である、ラクドアリン伯爵家も同じであった。
しかし、エリーゼの交友関係の中で唯一の頼れる存在が居た。
それは兄のように慕っていた第一王子のアリューゼだ。
アリューゼの逆鱗に触れたジスタードは、それはもう大変な目に遭うのだった……。
元婚約者がマウント取ってきますが、私は王子殿下と婚約しています
マルローネ
恋愛
「私は侯爵令嬢のメリナと婚約することにした! 伯爵令嬢のお前はもう必要ない!」
「そ、そんな……!」
伯爵令嬢のリディア・フォルスタは婚約者のディノス・カンブリア侯爵令息に婚約破棄されてしまった。
リディアは突然の婚約破棄に悲しむが、それを救ったのは幼馴染の王子殿下であった。
その後、ディノスとメリナの二人は、惨めに悲しんでいるリディアにマウントを取る為に接触してくるが……。
パーティー中に婚約破棄された私ですが、実は国王陛下の娘だったようです〜理不尽に婚約破棄した伯爵令息に陛下の雷が落ちました〜
雪島 由
恋愛
生まれた時から家族も帰る場所もお金も何もかもがない環境で生まれたセラは幸運なことにメイドを務めていた伯爵家の息子と婚約を交わしていた。
だが、貴族が集まるパーティーで高らかに宣言されたのは婚約破棄。
平民ごときでは釣り合わないらしい。
笑い者にされ、生まれた環境を馬鹿にされたセラが言い返そうとした時。パーティー会場に聞こえた声は国王陛下のもの。
何故かその声からは怒りが溢れて出ていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる