妹が私の婚約者と結婚しちゃったもんだから、懲らしめたいの。いいでしょ?

百谷シカ

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14 英雄の背中(※モーリス視点)

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 シビルが横向きで椅子に座る。


「あいたたた」


 背中の釦を柔軟な肩の関節により迅速に外すと、肩を晒し、反対の肩も晒し、あっという間に背中を晒した。


「どうなってる?」

「……」


 綺麗で、目が眩み、声が出ない。


「……やだ。そんなに酷いの?」

「いいや」


 顔より声から襤褸が出るものだ。
 だが、私はその辺りも心得ていた。

 シビルが直々に並べた処置の道具が、脇のテーブルにある。まずは手指を消毒する。そしてシビルが直々に置いた私のための椅子に腰を下ろした。

 ランプの灯が揺れる。

 橙色のなめらかな影が、美しい項や肩を舐める。


「……」

「消毒の直前に言ってね。覚悟するから」


 言いながら、シビルが包帯を解いていく。
 これで彼女は、上半身裸だ。

 だがよこしまな感情は瞬く間に立ち消えた。
 
 英雄の背中。
 白い肌に斜線を切る、赤い裂傷。

 勲章の神々しさに、信仰に似た感動を覚える。

 感嘆の溜息を小さく洩らし、私は告げた。


「思ったより酷くない」

「そう。よかった」

「ガーゼに、わずかに血が滲んでいるくらいだ」


 彼女は慣れた手つきで包帯ごとガーゼを手繰り寄せ、


「フン」


 と鼻息のような頷き方で納得している。

 
「……っ」


 思いがけない事が起きた。
 治癒が進み、不遇な事故によって後退した彼女の裂傷を目の当たりにした私は、ニザルデルンの渦中に帰っていた。

 失った左目の光。
 それを遥かに上回る、輝きを、知る前に。

 深い絶望があった。
 
 気丈なシビルが意識を手放し、死体のように意志を持ち得ない体を抱えた。死が目前に迫った。私の天使が、私を庇って、命を落としてしまう。

 一瞬。
 私はひとりの男だった。

 責務や誇りなど、打ち砕かれ、消えた。

 だが直前にシビルから鼓舞されていた事が幸いしたのか、性格なのか、すぐ我に返った。彼女の名を叫び、救助に勤めた。シビルが死ぬはずがないと、強く信じた。それと同時に、不安に苛まれ続けた。

 シビルは今、生きている。
 私と共に。


「モーリス?」

「……改めて」


 少し声が掠れた。


「君が、救った命の意味を考えさせられた」


 クスリと笑うシビルの肩が、併せてわずかに揺れる。
 肩甲骨の影が揺らいだ。

 ……なんて可愛い声だ、天使よ。
 手が戦慄くではないか。


「私って悪女かも」

「え?」

「あなたを操ってる」

「……」


 言い得て妙だ。
 だが心を操り過ぎて、看護の手が疎かになってしまいそうなのだから、期待に反して悪手だぞ、天使よ。


「でも、いいでしょ? もうあなたしかいないの」

「?」


 急に破棄を失くしてシビルが俯いた。
 気丈にふるまっていても、意気消沈しているはずだ。

 救うべき命を前に、憐憫を先延ばしできただけに過ぎない。

 彼女の受けた仕打ちは、人格や人生を破壊するだけの力がある。
 高潔で強いシビルであっても、傷ついた。当然だ。いくら強かろうと、シビルは19才の令嬢で、愛情深い心を抱えている。

 その心は、家族によって砕かれた。
 孤独と絶望に呑み込まれても、ふしぎではない。


「君は〈ニザルデルンの英雄〉だ。君を讃え、慕い、これから先は君に憧れる者も溢れる。君は独りではない」

「でも、私は……あなたしか信じられないのよ……」


 弱っている。
 

「では私の傍で、世界が君の味方である事を日々確かめて過ごすといい」

「モーリス」

「消毒する」


 彼女は息を止め、そしてゆっくりと深く息を吐き始めた。
 丁寧に消毒する。


「名誉な事だ。私は今、英雄の背中に癒しを施している」

「とてつもなく痛いけどね」

「その痛みを思い返すたびに君の功績を誇れ。私は、軽々しく英雄と呼ばない」

「……そうよね」


 消毒液に濡れた傷が、瞬く間に乾く。
 痛みを思えばこの胸も軋み、同時に尊さに感動が沸き起こる。

 この傷痕は、消えないだろう。
 

「君が与えられる勲章は、国民の総意としてその手に在り続ける」

「ええ」

「そしてこの傷が刻まれたように、私の体にも、君への友愛と信頼が刻まれている。消える事のない、日ごとに輝きを増す光として、君を想う心が、永遠に」

「……」


 勇気付けようなどという雑念は、最早ない。

 シビルという天使への、私の、個人的な、信仰の告白だった。
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