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13 僕はあなただけのもの

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「跪け」


 信じられない事に、私の口から出たのはそんな言葉だった。
 愕然とした。これならまだ、女と口を利くなと言ったほうが遥かにましだ。花嫁選びに来たのではないという言い訳があるのだから。

 だが、男爵はそっと微笑み、片膝をついた。


「……」


 驚いて、息が止まるかと思った。
 男爵は片膝をつくだけでは終わらず、恭しく私の手を取って、甲に唇を寄せた。触れるか触れないか寸前のところで止まり、笑みを深める。
 
 伏目がちのその表情に、胸がはちきれそうなほど熱くなる。


「白状します。あなたを悲しませたというのに、僕には罪の意識がありません。なぜかわかりますか? それは嬉しいからです。あなたの独占欲が」

「……っ」

「僕はあなただけのものです、ヴァネッサ。今までも、これからも」


 もう片方の手を重ね、男爵は私の手を大きな掌で包んだ。そして顔を横に向けると、頬ずりするようにこめかみをつける。甘える小動物のような、いじらしさがたまらなかった。無意識に手すりにかけた腕が浮き、栗毛色の髪を撫でてやろうと動いた。けれどその前に男爵が身を起こしたので、私は腕を下ろした。


「でも無視するわけにもいかないから、挨拶してるだけだって覚えておいてください。お願いします」

「あ、ああ……わかった」


 いつ立ち上がるのか、そしていつ手を離すのか、気になって仕方がない。
 男爵は私の指の背にチュッと音をたてて一瞬だけ口づけた。そして立ち上がった姿は、もう、じゃれつく仔犬には見えなくなってしまっていた。

 背の高い彼が、優しく私を見おろしている。
 胸の高鳴りを無視できない。頬が熱くなるのを、隠せない。


「耳まで真っ赤です。あなたが誰よりも可愛いですよ、ヴァネッサ」

「……」

「もう少し風にあたりますか?」


 私は黙って頷いた。
 答えに窮したらそうしろと、男爵に教わった通り。



       ◇



 続くエーレンフリート伯爵の昼食会で、私は社交界の伝達能力を知った。
 誰も男爵に言い寄ってこない。愛息のように接するのは相変わらずだが、若い娘を紹介しようという動きが一切なかった。半分以上が同じ顔触れという事もあるかもしれない。


「僕たち、公認の仲ですね」

「ああ。新米女伯爵とその後見人だろう。みんな知っている」

「またまた。恥ずかしがり屋ですね、ヴァネッサは」

「……」


 自分が醜聞の的になるとは、青天の霹靂だった。
 なぜか男爵を伴って歩くのが後ろめたく感じてしまう。理由ははっきりしている。私に下心があるからだ。男爵の言う通り、私の独占欲は相当のものだった。露見してしまえば、気が楽になるというものだ。

 そう。
 これは、独占欲。

 それ以上でも、それ以下でもない。


「これはこれはレディ・ヴェンデルス。お目にかかれて光栄です」

「エーレンフリート伯爵、こちらこそお招き頂き心より感謝いたします」

「ブットゲライト男爵も、ようこそ。久しぶりですな。元気そうで何より」

「先代のブロンザルト伯爵の埋葬以来です」

「あれからもう半年か。早く見つかって──」

「エーレンフリート伯爵」


 男爵でありながら、彼はエーレンフリート伯爵の言葉尻を奪った。しかしいつもの人懐こい笑顔で会話を続け、場が凍る事はなかったのだが……。

 慣れない貴族の集まりや気持ちの昂りで忘れていた。
 私がどうして見ず知らずの孤独な老人ブロンザルト伯爵の相続人となったのか、私は知らない。ブットゲライト男爵だけではなく、この様子だとエーレンフリート伯爵も何か知っていそうだ。

 予感は確信に変わった。
 先日の昼食会より、今日のほうがブロンザルト伯爵と具体的な友好関係にあった人物が多いのだ。もちろん男爵も顔見知りばかりで、思い出話に花を咲かせたりしている。聞いていると、孤独な老人であったはずのブロンザルト伯爵は、唯一、我が子のように可愛がっていたブットゲライト男爵を通して、貴族間の良好な付き合いを維持していたようだと推察できた。

 なるほど。
 慣れているわけだ。

 男爵にとって、面倒を見る人付き合いの苦手な領主は、私で2人目という事になる。


「ところでレディ・ヴェンデルス。息子をぜひ紹介させて頂きたい」

「はい、光栄です……?」


 何やら既視感のある展開に、小首を傾げる。
 エーレンフリート伯爵が呼ぶと、人の輪を抜けてこちらに歩いてくる青年がいた。あれが令息である事は間違いない。

 男爵の低い耳打ちが、首筋を撫でた。


「僕を忘れないで。挨拶だけ」
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