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第二章

第二章 「暗雲」

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「ごちそうさまでした」
 簡単に作ったスクランブルエッグと少しだけ焼きすぎたトーストを食べ終えて、マウリアはそう口にする。
 マウリア以外はこの場にいないのだから、当然この言葉は独り言である。しかし、例え一人での食事だとしても「いただきます」と「ごちそうさま」を欠かさないのは、別に悪い事ではないだろう。
「でもまぁ、一人はやっぱりいい気分はしないな……」
 そんな独り言を言いながら、使った食器と調理器具を洗う。水につけなかったせいで乾いたフライパンの焦げ付きに少しだけ手間取ったが、それもすぐに片付ける。
「悪い記憶は、どうしても頭を離れないな」
 洗い終わった食器を見ながら、マウリアは呟く。過去の事を思い出したいなら、避けては通れない記憶がいくつか存在する。その中でも特に思い出すのが億劫にに感じる記憶の引き出しに、マウリアは今、手をかけている。
(……でもこれも、重要な事だ)
 曇る表情で下を見るマウリアの耳にアラームの音が聞こえる。
「え? もうこんな時間?」
 慌てて腕時計を見ると、体感よりも時間が経っていたらしい。
「よし、やるぞ!」
 頬を思いきり叩いて、気合を入れ直す。
(……そうだ。いつまでもへこんでいる場合じゃない)
 記憶の引き出しを思いきり開きながら、マウリアは廊下へ駆け出した。

 マウリアが母から貰ったワンピースに初めて袖を通したのは、十六歳の時だった。
 夏季の長期休暇をラニと共に家で過ごしていた時、父が家に帰ってきた。数か月ぶりに顔を見たが、あまり変化はないようだった。
「お帰りなさい。お父さん」
 ラニと過ごすうちにマウリアは以前よりもだいぶ明るくなった。以前の顔を合わせても素っ気ない態度しかとれなかった時とは、まるで別人となったように、マウリアは父を笑顔で出迎えた。
「ああ。ただいまマウリア。元気そうで良かった」
 慣れていないのか、少し困惑しているような表情をしていたが、父もしっかりと言葉を返してくれた。
「おかえりなさいませ。ドクトル」
 ラニも彼を出迎える。お嬢様校の優等生がするような整った礼をする姿は、やはり舞台女優を彷彿とさせる。
「ああ。ただいまラニ。マウリアと上手くやれているようだね」
「さあ、どうぞ中へ」
 ラニはそう言いながら、マウリアに手を引かれる彼を招き入れた。

「それで、何か良からぬ報告でしょうか?」
 人数分のティーカップにアールグレイを注ぎながらラニはドクトルに質問した。玄関での平和なやり取りと打って変わって、ただならぬ緊張感が部屋中を支配する。彼がただ家に帰ってきた訳ではない事はマウリアにも分かっていた。「大切な話がある」という父からの連絡がラニを介して彼女の耳に入ってきたのは、昨晩の事だ。
「そうだ」
 重々しく口を開く彼の姿にマウリアの表情は曇る一方である。ラニの方へ目をやると、彼女の顔にも明らかな緊張が張り付いていた。
「世間の情勢は把握しているだろうか? 特に、戦地での事だ」
「うん……Haruzionハルジオンが……運用された機体が全部行方不明になったって。最近は新聞でその事に関する記事が載ってない日がない」
「そうだ。量産化に成功してから、実際に百機のHaruzionハルジオンがあらゆる戦場に派遣されたが、その全てが戦場から姿を消したんだ」
 父を、世界的に有名にした、歴史上最強のアンドロイド兵器。ラニが、その試作機の十六号機が、マウリアの家に来たのもその影響である。
「原因は分かっているのでしょうか?」
 ラニが聞いたが、父は首を横に振る。
「心当たりはいくつかあるが、どれも推測の域を出ない。各国の情報を集めても痕跡を追う事すら難しい状況のようだ」
 彼は腕を組んで、少し悩むような仕草をする。
「お父さん……」
 父ですら分からないというのだ。絶望的な状況にマウリアは頭を抱える。
「しかしだ」
 二人の方へ再び目を向けながら、彼は口を開く。
「僕が独自に調査をしてみて分かった事が一つある。それによって、行方不明の理由が大方想像できるようになった」
 父の予想外の言葉、いや、当初二人が求めていた言葉に驚愕する。
「ドクトル。本当ですか?」
「原因が分かったの?」
 二人で思わず問い詰めるが、父は落ち着いた表情で二人を制止する。
「その前に、一つだけ入れておいて欲しい事前知識がある。その話からしたい」
「わ……わかった」
 逸る気持ちを抑えながらマウリアは父の言葉に従う。ラニも何か言いたげだったが、素直に父に従った。
Haruzionハルジオンを兵器として運用できるレベルにする過程で、ラニのようなプロトタイプ達を作っていた事は知っているね?」
「うん。ラニから教えてもらった。ラニが最後に作られたプロトタイプで、量産化が成功した後に感情特化メモリの研究の為に作られた最後のプロトタイプである事も、お父さんのレポートに書いてあった」
「確か、codeコードセブンの時点で量産化は可能になり、感情特化メモリの研究はcodeコードエイトからだったと、以前ドクトルは仰っておりました」
「そう。その通りだ」
 二人の発言を肯定し、彼は話を続ける。
「感情特化メモリの研究は、ラニが完成した時に終了した。ラニに内蔵した感情特化メモリが、完璧な物だったからだ。では、それ以前の不完全の感情特化メモリを内蔵した、codeコードエイトから、codeコードフィフティーンがどうなったかだが……」
 そう。それが最も重要な事だ。現にマウリアはラニ以外のプロトタイプを見た事がない。以前ラニに何か知らないかを聞いても、彼女も知らないと言っていた。完成形であるラニの過程、言わば「失敗作」達はどうなったのだろう?
「全員、感情特化メモリを取り除き、量産化の際に、Haruzionハルジオンとして作り直した。不完全な感情特化メモリを持っていたら、思わぬ暴走を招く危険がある。だからラニが完成した時点で他のプロトタイプ達が存在しなかったのは、ラニが完成する時にはもうHaruzionハルジオンとして全てのプロトタイプが運用されていたからなんだ」
「それが、今回の行方不明に何の関係があるの?」
「一機だけ、感情特化メモリを残したままのプロトタイプがいた」
 父の発言にその場の空気が凍り付く。
「それって……」
「感情特化メモリの研究をする時、新しいプロトタイプの作成の際には必ず以前作ったプロトタイプの機能を停止する必要があった。自分が完成形ではないと悟った時、不完全な感情特化メモリを持つ機体は暴走する可能性があったからだ」
「その時に、何らかの要因で停止を免れた機体がいたとしたら……」
 そう口にしたマウリアの顔が一気に青ざめる。
codeコードエイト。つまり、一番最初の感情特化メモリの試作機が、おそらくそれだ」
 そう口にした彼の表情にはどこか不安な様子が感じられた。「おそらく」という言葉で濁したが、ほぼほぼ確信しているのだろう。
codeコードエイトは全てのHaruzionハルジオン、いや、今まで僕が作った全ての機体の中で最高の性能を有していた。優れた戦闘能力を持つ正真正銘の最強の機体。それこそ、codeコードエイト一機だけで残りの量産型達に取って代わる事ができるような」
(そんな機体が、暴走してしまったら……)
 嫌な想像が過り寒気がする。マウリアの表情は曇っていく一方である。
「しかし、codeコードエイトの真に恐ろしいところはそこじゃない。一番恐ろしいのは、感情特化メモリを持った事によって得た高い知能と危機回避能力だ。codeコードエイトはおそらく、機能停止の時点でこちらの真意を悟ったのかもしれない。そして何らかの方法で感情特化メモリを隠して、完全な停止を免れたとすれば……。彼女の能力ならば十分に実現は可能な筈だ」
「ドクトル、問題はそのcodeコードエイトが守った感情特化メモリがどんな質だったのかなのでは?」
 ラニが尋ねると、父は大きく頷いた。
「その通りだ。ラニに内蔵した感情特化メモリが完成品であれば、それ以前のは不完全。何かしらの欠陥がある物だったという事だ。そしてさっきも言ったが、codeコードエイトは感情特化メモリの最初の試作機だ」
「つまり、一番性能の低い感情特化メモリがcodeコードエイトの持つ感情特化メモリだったって事なの?」
「そういう事だ。彼女の感情特化メモリは特に凶悪な感情で埋め尽くされていた。ラニのメモリが善意十割とするならば、codeコードエイトのメモリは善意数割、その善意も我々の正義とは違う正義感から来る善意と考えていい。彼女の心は異常なまでに肥大化した支配欲や暴走した破壊衝動に満ちた危険すぎるものだった。さっきは新しいプロトタイプを作る際に機能停止を行っていたと言ったが、彼女の場合はオーバーホールする程だった。それを察して彼女は量産型の中に自分のメモリを隠したのではないだろうか? 実際にオーバーホールした彼女のメモリを調べたら精巧に作られたダミーだった」
「それでは、ドクトル……行方不明の原因は……」
「ああ。彼女の仕業だろう。僕がダミーに気付いた時にはもう遅すぎた。彼女にしかできない何らかの方法で、他のHaruzionハルジオン達にコンタクトを取るなり、徒党を組むなりして、今回の事件を起こしたのだろう」
「そんな……。じゃあ、その危険なメモリを持ったHaruzionハルジオンが、お父さんを欺く程の能力持つ機体が、まだ世界のどこかに……」
「そこだ。僕が行方不明の事件が起こるまでダミーに気付けなかったのは他でもない彼女が作ったダミーの完成度によるものだ。彼女をオーバーホールするまでには一週間ほどの時間があったが、その短期間でそれほどの技術を身に付ける頭脳を持つ最強の能力値のHaruzionハルジオンが今も何処かに潜伏しているという事だ。まだcodeコードエイトの狙いは断定できないが、僕はもちろんマウリアにも危険が迫る可能性もある」
 あまりにも絶望的な状況に自分達が立たされている事に、マウリアは戦慄する。
「一体どうすれば……」
「心配はいらない。こちらも手は打ってある。マウリアを安全な場所へ送る準備を終えてきたところだ」
 そう言うと父は地図を取り出しながらマウリアの方を見た。
「明朝、ここに向かって出発して欲しい。八時くらいに出れば、明々後日には着く筈だ」
「ここは? 私も知らない場所です」
「それに、これは孤島? 海の上にあるみたいだけど」
「有事の際に備えて準備しておいた僕の研究所が世界各地にいくつかあるが、ここはこの家から最も近くにある場所だ。そこに行くためのヨットや高速艇は手配しておいたから、問題なく行ける筈だ。後で乗り物の場所や効率的なルートはデータ化してラニにインプットしておく」
 説明を終えると、父は用意していた灰皿に地図を乗せてライターを取り出す。
「何しているの?」
「情報は残せない。codeコードエイトはそれだけの相手だという事だ」
 地図に火を付ける父を見て、マウリアは再び自分たちを狙う存在の脅威を思い知った。
「ラニ……」
「はい」
 父に呼ばれてラニは彼の方を見る。少しだけ彼女の表情から冷静さが消えているようにマウリアは感じた。不安なのか、彼女はずっと胸を押さえていた。
「おそらくマウリアよりも僕の方が狙われる可能性が高い。それにマウリアと違ってcodeコードエイト以外にも僕を狙う者がいる。だから僕は同行できない。……もう何が言いたいか分かるだろう?」
「ドクトル……」
 それは、ラニが本来彼から与えられていた使命がついに実行される事を意味していた。
「マウリアを頼むよ。彼女の命を、君に託す」
 ラニはじっと彼を見つめている。彼女の表情から完全に冷静な様子は消えていたが、代わりに別の感情で顔面が染まっていく。
「了解。必ず、使命を全うします」
 守るべき誓いを前に彼女はそう口にした。その顔は、覚悟を決めた者の顔だった。

 少しだけ不安な表情を残すマウリアを寝室に送り届け、ラニはドクトルの元へ向かう。家の地下は最低限の道具が揃った簡易的な研究室になっており、ラニの予想通りドクトルはそこにいた。
「マウリアは?」
「もうお休みになっています」
「そうか」
 会話をマウリアに聞かれていないことを確認し、彼は部屋の戸を閉める。彼が会話ができる体勢になるまで待ち、用意ができた事を確認すると、ラニは口を開く。
「そろそろ教えてください。まだ、ドクトルには私たちに言っていない事があるように思います」
「そうだね……」
 眼鏡のフレームを整えながら彼は、ラニの発言を肯定する。
「行方不明の件だが、実は分かった事がもう一つある」
「それは……」
 これから帰ってくるであろう返答に、ラニは顔を少しだけ強張らせた。きっと良い知らせではない事は目に見えている。
「行方不明になった機体だが、とある紛争地域の廃工場で見つかった。百機のうち、九十二機の機体がだ」
「知りませんでした」
「今朝の事だから当然だ。それよりも、重要なのは見つかった時のHaruzionハルジオン達の状態だ」
「状態……ですか……」
「どれも大破していた。何かしらの改造が施されたような痕跡があって、悉く失敗したらしいな。ドローンのカメラ越しでも分かる程の深刻な破壊状態だった」
「それもまさか……」
「ああ。codeコードエイトの仕業で間違いないだろう。破壊は可能でも改造を施す、増して九十二機もそんな状態にするのは並の人間にはできる事じゃない」
 「しかし、cordエイトの目的は何なのでしょう? それに、cordエイトを含めてまだ行方が分かっていない機体はまだ八機います」
「想像はついている。破壊された九十二機には共通点があったからな」
 彼の返答にラニの表情は曇っていく。
「それは一体……」
「どれも感情特化メモリの試作機から作られていない機体だった。codeコードエイトがどんな改造をするつもりだったかは知らないが、改造ができる要素を持つとすれば、感情特化メモリという部品の空きがある元試作機の機体だけだろうからな」
「では、我々の敵は……」
「元試作機の八機。そう考えて良いだろうな。数は少ないが、だからと言って安心できない。今となっては僕にも予測不可能なcodeコードエイトの技術力で改造されたHaruzionハルジオンだ。強力なのは言うまでもないだろう」
「ドクトル……」
(不安だ……。こんな感情を抱いたのは初めてだ……)
「そしてここが本題だが……」
「……?」
 彼はラニを見ながら口を開く。
「単刀直入に言おう。君は弱い」
「……」
 彼の言葉にはラニは反論できない。その通りなのである。
「完成した感情特化メモリを持つ代償として、君はかなりの戦闘能力を犠牲にしている。常人に負ける事はないにせよ、他のHaruzionハルジオン達にはとても敵わないだろう」
 そう。使用人として作られたアンドロイドであるラニは、最低限の戦闘能力しか持ち合わせていない。
「昼間はマウリアに過度な負担をかける訳にはいかなかったから、言わなかったがラニ一人でどうにかなるような相手ではない。柔道や合気道に精通しているHaruzionハルジオンは君だけだが、正直それではアドバンテージにすらならないだろう」
「分かっています。私の力ではマウリアを守る事はできません」
 自分で言っていて本当に情けないとは思ったが、こればかりは事実である。大切な存在を守る力を持っていない悔しさが心を支配する。
「だから、今から君に強化改造を施す。協力してくれ」
 彼はそう言うと、掛けてあった白衣に袖を通す。
「ドクトル……!」
 マウリアを、大切な友達を守りたい。
 迷いなど微塵もなかった。
「よろしくお願いします」
「ああ。わかった」
 覚悟に満ちた表情で頷くラニを見ながら、ドクトルは彼女の電源を停止した。

「おはよう。マウリア」
「おはよう。ラニ」
 目を擦りながら、ふらふらとラニの方へ歩き出す。昨日はあまり眠れなかった。そんな彼女の体を支えながら、ラニは口を開く。
「朝食の準備ができているわ」
「……先にシャワーが良いかな。少しは目が覚めそうだし」
「わかったわ。あまり時間をかけないようにね」
「うん。わかった」
 疲れの残る足取りで部屋を出るマウリアを見送りながら、ラニは胸に手を当てる。
(……緊張している)
「大丈夫。私がきっと守り抜く」
 自分に言い聞かせるような独り言が漏れる。
「さあ、まずは仕事をしなければ」
 頬を叩き、切り替える。マウリアがシャワーを浴び終えた時の為に着替えを用意しなければならない。
 不安な気持ちをとりあえずしまい込んで、ラニは寝室を後にした。

「あ、おはよう。お父さん」
 シャワールームに向かう途中で父に会った。
「ああ。おはよう」
 ボサボサの髪をそのままにして眼鏡を拭きながら父は答える。
「あと、一時間と五十七分だ。あまり時間をかけないようにね」
 マウリアの進行方向から彼女の目的を察したのか、父はそう言った。
「ラニにも言われたよ」
「ああ。そうか」
 くすくすと笑いながらマウリアが答えると、父も少し微笑んだ。
「じゃあ、また後で」
「ああ」
 軽い挨拶を終えてシャワールームに行こうとした時、
「……マウリア」
 父に呼び止められた。
「何?」
 振り返ると、父は近付いてきて何かを手渡してきた。マウリアの手には、ロケットペンダントと小さな鍵の形の装飾が付いたイヤリングが乗せられていた。
「何これ?」
「いつか役立つ筈だ。使い時が来たらラニが教えてくれるから、その時に鍵を開けてくれ」
 確かにペンダントのロケット部分には鍵穴が付いており、サイズはイヤリングの装飾に合う大きさだった。
「うん。ありがとう」
 笑顔でマウリアは答えた。
「どうした……?」
 予想外の反応が返ってきたようで、少し戸惑っている。彼としては、護身武器を渡したような感覚だったらしい。
「だってお父さんから初めてプレゼントらしい物貰ったからさ。どんな物であれ、嬉しいよ」
「そ……そうか」
 少しだけ困惑したような父の表情に新鮮な気分を味わいながら、マウリアはシャワールームに向かった。

 シャワーを浴び終え、マウリアはラニからタオルを受け取る。
「着替えはいつもの場所に置いておくわ」
「うん。ありがとう」
 彼女が礼を言うと、ラニは軽く頷いて出て行った。体と髪を乾かして、マウリアはラニが置いて行った服を手に取る。
「さあ、どんな服かな」
 学校がない時は殆ど家から出ないので、ラニが制服以外の外出用の服を持ってきたのは、何気に今日が初めてだった。
 そのため、マウリアは少しだけ楽しみにしていた。
「え……これって」

「ラニ?」
「ああ。とてもよく似合うわ」
 服を着たマウリアを見るなりラニは笑顔を見せた。こんなに無邪気にはしゃぐラニをマウリアは初めて見た。
「これ、お母さんの」
「嫌だったかしら。今日のような日にふさわしいと思ったのだけど」
 ラニが選んだのは母がくれたワンピースだった。
「ふさわしい?」
 よく分からなかった。とても危険な存在から命を狙われるかもしれないから安全な場所に避難する。
 そんな日にこの服が果たしてふさわしいのだろうか?
「こんな不安な気持ちでいっぱいな日にこの服なの?」
「だからこそ、お母様から頂いたその服だと、安心できるかと……」
「へぇ。そうなの」
 マウリアの反応にラニは少し焦っていた。怒らせたと思ったらしい。
「ありがとう。元気出た」
 ラニなりに自分の事を気遣ってくれたのだろう。マウリアは彼女の行動に感謝し、笑顔で答えた。
「……さあ、朝食の準備ができているわ」
 彼女の笑顔でほっとしたのか、ラニはいつもの調子を取り戻しマウリアの手を取って歩き出した。

 2

 八時を告げるアラームが鳴り、玄関にはマウリアとラニが立っていた。カーキ色のキャリーバッグにドライフルーツを詰め込みながら、父と話すマウリアはふとラニの方を見る。彼女は少々困惑した表情でトレンチコートのベルトをいじっていた。旅行者のふりをするために着たのだが、普段着る事のない物に相当違和感があるらしい。
「さて、準備はいいな?」
 父の言葉に二人は再び気を引き締める。
「じゃあね、お父さん。また元気な姿で」
 マウリアは不安を胸にそう言った。父の事だから問題はないと思っていたが、ずっと胸騒ぎがする。
 これが、最後のやり取りになるのではないか。そんな想像が頭を過ってなくならない。
「ああ。幸運を祈る。ラニ、マウリアを頼む」
「はい。ドクトルも、どうかご無事で」
 彼女の顔にも不安が見て取れた。きっとマウリアと同じような事を感じているに違いない。
「いってらっしゃい」
(どうしてこの人はこんなに冷静でいられるのだろう……?)
 どこまでも落ち着き払った態度で、軽く手を振る父の姿にマウリアはそんな風に考える。
「行ってきます……」
 嫌な想像のせいで整理がつかない心の中に抵抗するように、なんとかその言葉を引っ張り出して、マウリアは出発した。
 ラニも、彼に向かって礼をすると、歩き出す彼女を追いかけた。
「……心から、君達の無事を祈っているよ」
 マウリアにも、ラニにも届かないような声でそう呟くと、隠し持っていた銃のリボルバーの残弾を確認しながら、ドクトルは家の中に戻っていった。

「お父さん……大丈夫かな……」
 ラニが運転する車の助手席で、マウリアは呟いた。
「……」
 ラニは何も言わない。聞こえないふりをしているのか、本当に聞こえてないのかはマウリアには分からなかったが、それはそこまで重要な事ではなかった。
「心配はいらないって言ってたけど、そんなの納得できる訳ないじゃない……」
「……」
「どうしてこんな事に……」
「……」
 暫くマウリアだけがぶつぶつと口を動かす時間が続く。ラニは何も言わなかったが、マウリアは気にしない。
 自分の発言がただの独り言に過ぎない物であっても、心の中の言葉を口に出し続けなければ、落ち着かなかった。
 この感情をどう表現するかは今の彼女には分からない。

「ねえ、ラニ」
 十数分喋り続けていたマウリアが唐突にラニの名を呼ぶ。
「……何?」
 そこまで驚く事はなく、彼女は返事をする。
「私は、今どんな顔をしているかな?」
 何の質問かは分からない。マウリア自身答えを期待している訳ではない。ただ、自然と彼女の鼻の下の器官はその言葉を紡いでいた。
「……分からない」
 だからラニもそう答える。
「そう……だよね」
 それだけ言ってマウリアは口を動かすのをやめて、窓の外へ視線を向けた。町を抜けて、外には草木や曇天で構成された、似たような景色が延々と続いていた。
「マウリア……」
 何分かした後、ラニが名前を呼ぶ。
「何?」
 窓の外を見たままマウリアは返事をする。
「私の顔はどんな顔をしている?」
 さっきの会話の続きらしい。続ける必要性があるかどうかは微妙だが、マウリアは少しだけ背もたれを倒しながら、
「さあね……」
 そう返した。
「そう……」
 ラニも別に答えを期待していなかったらしい。
「……でも」
 少しの間を置いて、マウリアは口を開く。
「お母さんの顔に似ているよ」
「そう」
 少しだけラニの声色が変わった気がしたがマウリアは気にせず窓の外を見続けていた。
「写真でしか見た事ないけど、ヘアスタイル以外はそっくりだよ」
「そう」
「もしかしてだけど、お父さんはお母さんの顔をモデルにしたのかもね。ああ、聞いておけばよかっな。」
「……なら、今度ドクトルに聞こう」
 ラニはそう口にする。
「そうだね。そのために無事で……」
 マウリアはそう言ったきり、話すのをやめた。
「……守るわ、必ず」
 マウリアに聞こえるか、聞こえないかという大きさでそう呟いたきり、ラニも話すのをやめた。別世界のような静寂の中、二人を乗せた車は走り続ける。会話が尽きた車内では、ラフマニノフのピアノ協奏曲だけが流れ続けていた。

 3

 外はすっかり暗くなっていた。長い間時計を見ていなかったが、かなりの時間地下に籠っていたらしい。
 それでも、来るであろう時が来るまでにやっておきたい事はやれたのだから、上出来だろう。
(二人は多分、もうホテルに着いた頃だろうか……)
 色々と考えていると午後六時を告げるアラームが鳴り響いた。
「……!」
 何かに気付いたかのように、部屋の電気を点ける。
「四十年か……意外と早く進んだな」
 近くのソファに腰を下ろしながら、僕はそう口にする。窓から吹く風がカーテンを静かに揺らし、まるで熟練のマタドールの手で靡くムレータのようだ。
「死の開発者、それが、十年近く呼ばれた忌み名さ。僕にもしっかりとした名前はあるが、この名で呼ばれるようになってからは、死の開発者が僕の本名になったのさ。人生の中の、実に四分の一の時間を、それで過ごしたんだ。今となっては笑い話にもできないよ」
 自分はこんなにも自嘲癖の症状を持っていただろうか?自分の人生を卑下する事には不思議と抵抗はない。
「でもね、この薄汚れた人生も価値があったと信じられるのさ。昨日自分を出迎えた娘の表情と、今朝見送った娘の表情が……この人生に価値をくれたんだ」
 窓から吹く風は先程よりも勢いを増して、僕の頬を激しくなぞる。まだ真夏であるのにこんなにも風が冷たいのは、果たして気候のせいだろうか?
(それは、ちがうな……)
 胃がきりきりと疼くのを感じ、鈍い寒気が、体中を蝕んでいく。
(恐れているのか? 自分の犯した罪と向き合う事を……)
「今更、僕の人生を正当化するつもりはないよ。僕の生み出したもので多くの命が失われ、多くの心が傷付いた。僕の命が地獄に来るのを待っている人が大勢いる」
 目の前から容赦なく吹き付ける漆黒の風は徐々にその勢いを増す。何だか今までの記憶が脳裏を過っては消えていく。
 この状況を世間一般では何と言うのか、上手く頭が働かなくて思い出せない。
「そして、僕は人生の中で何度も大切な人を傷付けた。あの目は、かつて家中のアンドロイドの電源を消して、自分を出迎えた、畏怖と嫌悪に燃える目は忘れたことがない……」
(そうだ。僕はあの目から逃げた。向き合うべきだったあの目から逃げたのだ)
「だからこそ、今朝その目を、別れを惜しむ目に変えたあの子の表情に救われたと思った。実際は逃げ続けただけで、第三者の力に依存したに過ぎないのに……」
 父親失格だ。我ながらそう思う。
「しかし、本当に勝手な解釈だが、確かにあの表情は、最後の最後に、僕の人生に価値をくれた」
 最後に見たあの子の顔が、僕を父親に戻してくれたと信じたい……
「ごめんよ。マウリア。また期待に応えられなくて……。ラニ……娘を頼む」
(大切な人を傷付け続けた人生だった。あっという間に感じる四十年の中で、僕はどれだけ悪に染まっただろう?)
 漆黒の風は、初めて明確な殺意をもって、僕の頬を撫でる。
「ごめんよ。せっかく父親に戻してくれたのに……」
 バサバサと音を立ててカーテンが揺れる。地獄への導きにすら思える風の音に、目の前で笑う漆黒の風に、背筋が急速に凍り付く。
(これが、死か……)

「僕は……また、君を裏切ってしまったよ……」
 指にありったけの力を込めて、前方に向けた右手の銃の引き金を引く。
「……!」
 それと同時に漆黒の風は殺意に満ちた笑顔を見せる。
 ガンッ……!
 部屋中に響く銃声、それと同時に胸を貫く鈍い痛みと殺意の刃。徐々に静かになっていく耳鳴りを聞きながら、僕の眼前の景色は急速に暗転した。

 4

「……六時半か」
 トレンチコートをハンガーに掛けながら、ラニは口を開く。
「確かこのくらいの時間に一度お父さんに連絡するんだよね?」
「そうね」
 ベッドに腰掛けて彼女を見る、マウリアの問いを肯定する。
「ドクトルはあまり情報を残すべきではないと言っていたけれど、この通信機は通話履歴が残らないし、最低限の情報交換は必要だから」
 そう言ってラニは通信機とモニターのスイッチを入れた。
「このホテルは安全かしら?」
 部屋の中を見渡しながらマウリアは尋ねる。
「この辺りには、似たような建物が多いし、マウリアがドクトルの娘である事を知っている人も少ない。旅行者に扮して行動するというドクトルのアイデアも上手くいっているようだし、危険は少ないと思うわ」
 通信機を動かしながら、ラニは答える。
「そうね、フロントで私の姉を名乗った時はちょっと驚いたけど……」
マウリアは苦笑いをラニに向けて言う。
「それは……」

 数分前に遡る。
 ホテルに到着し、チェックインをする時に、ラニが名簿にサインを書く事になった。ホテルに入る前に、予め偽名を使う事を決めていたが、ラニは躊躇する事なく姉妹を名乗ったので、マウリアは驚いた。

「マウリアが似てるって……」
「いや、そうは言ったけどさ……」
 正体を隠すための方便としては何ら不自然ではなかったが、エレベーターの中やホテルの人の前で堂々とマウリアの姉として振る舞うラニの姿にマウリアはものすごい違和感と筆舌に尽くしがたい恥ずかしさを感じた。
「二十三歳に見えるなら、母よりは姉の方がしっくりくると思ったから……」
「わかった。わかった。次からは普通に一緒に旅行してる友達って設定で良いから」
 きょとんとした顔で見つめてくるラニに対してマウリアは呆れた表情でそう言った。
 微妙な終わり方をしたが、会話が終わったのでラニは作業に戻る。マウリアも彼女の邪魔をしないようにその場を離れ、再びベッドに腰掛ける。

「お父さん……大丈夫かな……」
「きっと大丈夫……」
 通信機が動き始めるにつれて、徐々にこんな言葉が増えていく。通信がつながるまでは五分程度しかかからないが、増していく不安な気持ちのせいでとても長く感じた。そして、遂に準備が完了した。
「準備ができたわ。始めるわね」
「うん。お願い」
 焦る気持ちに心の中で抵抗しながら二人はモニター画面に目を向ける。しかし、点けていないのか、故障したのか、モニターは暗いままだった。
「ドクトル。ラニです。応答してください」
「どうしたんだろう?」
 通信はできているが、画面が暗い。それに返事が一向に返ってこない。
「ドクトル……! 応答してください!」
「お父さん! どうしたの?」
 続く沈黙に二人は動揺する。その時だった。
「ああ。これがマイクか……」
 返ってきた返事で二人はその場に凍り付く。
「ごめんね。初めて使うから操作が分からなくて……」
「誰だ……?」
 ラニが聞いた。今までに聞いた事ない、敵意に満ちた声だった。
「なんだ。知っているものかと……。ちょっと待ってなさい。モニターのカメラは、と」
 ラニの反応を意に介さずに、煽るような声で声の主は続ける。
「ど……どうなっているの……?」
「くっ……まさか……お前……!」
 ラニが声を荒げると同時にモニターに映像が映された。
「な……!」

 目の前の映像にマウリアは思わず息を呑む。
 腰まで届く漆黒の髪、悪意と暴力性に満ちた琥珀色の瞳、そして透き通るような白い肌とシャープな顔立ちは真横にいるマウリアの友達を彷彿とさせる。



「……codeコードエイト!」
「お話するのは初めてね。codeコードシックスティーン。そして、マウリア・ジェルミナ」
 邪悪な笑みを浮かべながら、画面に映るアンドロイドにマウリアはかつてないほどの恐怖を感じた。
 しかし、重要な事はそれじゃない。
「どうして……あなたが通信に……お父さんはどうしたの……?」
 恐怖に震える口をなんとか操り、マウリアが声を絞り出す。本来この通信に出ているはずの人間、マウリアの父がさっきから映っていない。それが最も重要な事だ。
「世界一の開発者の娘なのに意外と馬鹿ね。私が映っている時点で大方想像がつかない?」
 くすくすと笑いながら、codeコードエイトはチラッと後ろを見る仕草をする。その行動に何かを察したラニの顔が一気に引きつる。
「そ……そこをどけ……!」
「んん? いいよぉ?」
 ドス黒い悪意に満ちた笑顔を見せながらcodeコードエイトは舌なめずりをする。そしてわざとらしく手を振りながらフレームアウトする。すると、彼女がいなくなった画面には誰かが座っていた。
「っ……!」
 明らかに驚愕しているラニの視線の先にマウリアも目を向ける。そして
「あ……あぁ……」
 一番望んでいなかった光景に、絶望の悲鳴を上げた。
「ああああぁぁぁぁああ!」

 マウリアが死んだ人間を初めて見たのは、十六歳の時だった。
 それは、数時間前に再会を誓い合った父親だった。

第二章 「暗雲」
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