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第一階層「草原エリア」

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 ボウケンシャを人間界に強制送還した私は、念のためにヘルヘイム荘の内部を見て回ることにした。
 もしかすると、私の部屋以外にも入り込んだボウケンシャがいるかもしれない。
 このヘルヘイム荘の中で「ゲート」が開かれれば、私にはすぐに判る。だが、何らかの理由で私が感知できない「門」が発生する可能性はゼロではない。
 その確認のため、私は散歩を兼ねて内部を見回ることにしたのだ。



 まず、私が向かったのは第一階層。
 ここは一面の草原で構成された草原エリアだ。
 各エリアには、それぞれの階層の纏め役をお願いしている店子がいるので、まずはその店子に会ってみよう。
 この第一階層の纏め役をお願いしているのは、ゴブリンの夫妻である。
 彼らはこのエリアの一角で広大な農園を経営しており、夫妻とその子供たち、そして仲間のゴブリンやコボルトたちと共に、日々土と肥料に塗れた生活を送っている。
 夫妻に名前はもちろんあるのだが、ゴブリン独特の発音しづらい名前のため、彼らは他の店子たちから親しみを込めて「ゴブさん」と「ゴブさいさん」と呼ばれていた。当然、私もそう呼ばせてもらっている。
 第一階層にやってきた私は、のんびりと草原の中を歩いてゴブリン夫妻の農園を目指す。
 しばらく草の海の中を歩いていると、前方にたくさんの人影が動いているのが見えてくる。
 広大な農園のあちこちで働くゴブリンやコボルトの農夫たち。農園の中には、何台もの耕運機トラクタの重々しいエンジン音が響いていた。
 農園へとゆっくりと近づいていくと、農園で働いていたゴブリンの一人が私に気づいたようだ。
 確か、彼はゴブリン夫妻の子供の一人だったな。ゴブリンという種族は多産で有名で、ゴブリン夫妻にも三十人以上の子供がいる。
 夫妻の子供が全てこの農園で働いているわけではなく、一部は帝都や他の街などで暮らしていると聞いた。
 それでも、夫妻の子供の半分はこうして両親の農園を手伝っている。
「あれ? 大家さん。何かウチに用かい?」
「ああ、ちょっとしたことだけどね。お父さんかお母さん、いるかい?」
 私がそう切り出すと、彼は両親を呼びに行ってくれた。
 そのまましばらく待っていると、遠くから体格のいいゴブ夫さんと、細身で小柄なゴブ妻さんがこちらに向かってくるのが見えた。
「やあ、大家さん。何か用だって?」
「こんな所で立ち話もなんですし、母屋の方にいらっしゃいませんか?」
 私はご夫婦の言葉に甘えることにして、彼らと共に歩き出した。



「へえ? またボウケンシャが入り込んだのかい?」
「それも大家さんの部屋に? まあまあ、その連中は運が悪かったわねぇ」
 ゴブリンの夫妻が豪快に笑う。
 夫であるゴブ夫さんは、一般のゴブリンよりも遥かに体格が良く、膂力にも恵まれている。
 茶褐色の肌に、頭髪のない頭部には大きな赤い目。そこは一般のゴブリンと同じだが、その身体は筋肉という鎧で覆われている。
 これは日々、農作物を作るために大地と格闘して得たものだとか。
 日の出──ヘルヘイム荘の各階層の天井には外の天気が投影されるので、アパートの内部でも天気の変化がある──と共に起きて大地を耕し、日没と共に寝る。いやはや、農家の生活とは健康的で素晴らしいものだ。
 対して奥さんのゴブ妻さんは、夫とは真逆に小柄で華奢だ。一般的なゴブリンよりもかなり細いのではないだろうか。
 ちなみに、ゴブ妻さんは一際大きな赤い目と丸々とした団子っ鼻という、典型的な「ゴブリン美人」である。
「お二人とも、もしも迷い込んだボウケンシャを見かけたら、すぐに私に知らせてくれないかね?」
「あいよ。でも、ボウケンシャなんぞ、大家さんの手を煩わせるまでもなくオレッチたちで片付けてやるぜ?」
「それは頼もしい限りだが、できればボウケンシャたちを必要以上に傷つけないでやってくれ。もちろん、ゴブ夫さんも怪我などせんようにな」
「まあまあ、相変わらず大家さんはお優しいこと」
「いくら相手が盗賊とはいえ、その命までをも奪ってしまえば、それは連中がしていることと同じだからな」
「確かに大家さんの言う通りだ。オレッチたちは、野蛮なボウケンシャどもとは違うってもんだぁ!」
 私はゴブ妻さんが出してくれたお茶とお菓子を楽しみながら、その後も取り止めもない会話を楽しんだ。
 店子の皆とこうしてお喋りをするのは、私の最大の楽しみの一つと言えよう。
 思わず長く話し込み過ぎて、結局夕飯までご馳走になってしまった。
 夫妻とその大勢の子供たちと共に摂った夕食は、騒がしい限りだったがとても楽しい一時だった。



 夕飯をご馳走になり、勧められるままに酒を飲んでいる内に、夜はすっかり更けてしまった。
 自室に帰りそびれた私は、図々しくも夫妻に言われるまま、今晩は夫妻の家に泊まらせてもらう。
 風呂までいただき、湯上がりのさっぱりした気分で夫妻の母屋──平屋の広い農家造り──の長い廊下を歩いていると、縁側に腰を下ろして酒を飲んでいるゴブ夫さんの姿を見かけた。
「隣、いいかね?」
「もちろんよぉ」
 どうやらゴブ夫さんは私を待っていたらしく、彼の隣に腰を下ろした私に無言で杯を差し出してきた。
 私が杯を受け取ると、ゴブ夫さんが酒壷の中の酒を注いでくれる。
 途端、周囲に芳醇な酒精の香りが満ちる。
 杯の中には無色透明の酒。この酒もまた、ゴブリン夫妻のこの農場で作られた作物を原料にして、併設する酒蔵で作られたものなのだ。
 以前、この酒の作り方を夫妻に尋ねたことがあるのだが、企業秘密ということで教えてはもらえなかった。
 この美味い酒の作り方を教えてもらえなかったのは残念だが、酒自体は夫妻が家賃の一部として分けてくれるので、私はそれで充分満足している。
 私はちびちびと酒を楽しみながら、縁側から見える夜空を見上げた。
 各階層の天井に投影される空は、季節折々の表情で私たちを楽しませてくれる。
 もちろん、夜空には星々がきらきらと輝き、星よりも尚明るい月が二つほど顔を覗かせているので、今夜はかなり明るい。
 ちなみに、魔界の空には合計で七つの月が存在し、季節ごとに見える月が異なる。
「…………いい所だよなぁ、ここはよ……」
 隣に座るゴブ夫さんがぽつりと呟いた。
「大地は豊かで風は優しい。そりゃ時には嵐も来るが、雨が振らなきゃ作物は育たねぇからな」
 このヘルヘイム荘の中にも天気の変化はある。
 天気はランダムで代わるように設計してあるので、私にも明日の天気は完全に予測できない。もちろん、長年の経験則によってある程度の天気の予測はつくのだが。
 何から何まで全て私の都合で決めてしまっては、おもしろみに欠けるというものだ。
 判らないこと、知らないことがあるからこそ、この世界は楽しいのだから。
「ここに住まわせてくれた大家さんには、本当に感謝しているんだぜ?」
「なに、しっかりと家賃はいただいているのだ。ゴブ夫さんは気がねせずにここで過ごせばいいのだよ」
「ははは。それもそうだ」
 私たちは互いの顔を見ることもなく、ただただ縁側から見えるゴブ夫さんたちの農場を見ながら言葉を交えて酒を飲む。
 星々と月明かりの中、草原に棲む虫たちの声が聞こえてくる。時折農場の中を小さな影が横切るが、おそらくは草原に暮らす鼠や狐などの小動物が紛れ込んでくるのだろう。
 そうそう。このアパートの各階層には、正規の住民だけではなく様々な野生動物なども暮らしている。
 そんな野生動物たちからは、当然ながら家賃を取ってはいない。各階層に棲み着いた野生動物たちは、住民の食糧でもあるからだ。
 野生動物たちは、最初こそ余所で捕えたものを各階層に放ったものだが、今ではそれぞれの階層でしっかりと定着してその数を増やしている。
 時折、増えすぎた動物を間引いたりもするが、それもまた大家の仕事の一つである。
「まだしばらくはこのアパートで世話になっからよ? まあ、よろしく頼むぜ、大家さん」
「ああ。こちらこそ、よろしくお願いするよ、ゴブ夫さん」
 私とゴブ夫さんは、手にした杯をそっと触れさせた。
 陶器の杯が触れ合い、かちんと硬質で耳障りのよい音が響く。
 その音に驚いたのか、一瞬だけ虫の音が止むが、すぐに小さな音楽隊はその演奏を再開させた。
 彼らの合奏に耳を傾けながら、私とゴブ夫さんは静かに、そしてゆっくりと酒の味を楽しんだ。



 ちなみに、結局翌朝まで二人で飲み明かしてしまい、起きてきたゴブ妻さんにしこたま怒られた。
 いやはや、まったく面目ない。
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