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◇ ◇ ◇

 
 アパートを出るなり、夏弥はためらいなく電話をかけた。
 八月の午後にしては少し風が出ていたけれど、風自体が温風だったので涼しくはなく。

 玄関ドア手前の手すりへ寄り掛かり、相手が電話に出てくれるのを待った。
 
 眼下には見慣れた住宅街が見えている。

 平和な景色だな。と思うと同時に、自分はこれから電話の相手と戦わなければいけない。と夏弥は思った。

 無論、電話の相手は同級生の小森貞丸だった。


 貞丸は、美咲にストーキングを働いていた罪深き男子高校生だ。ただその実、問い詰めてみれば美少女への変身願望に血をたぎらせている、その筋の男子である。

『――あ、もしもし? 小森?』

『藤堂? ん、どうしたんだよ。ラインで無視したと思ったら、今度は電話って』

『ああ、悪い。俺にも予定があってさ』

『そうなんだ? ていうか例の件、鈴川美咲に訊けたのかー?』

『その事なんだけどさ……』

 そこまで切り出して、一旦言葉につまる。
 正直なところ、夏弥の心にはまだ不安感がわだかまっていた。

(断ったらどうなるんだろう……。小森って、普通に女性ものの下着を履いたりして、俺とは価値観違うしな……)

 スマホを握る手がじっとりと汗ばんでいく。

 夏弥は、自分が知り得ない感覚の持ち主に、どういった言い回しが有効なのかわからないままでいた。

 当たり前かもしれない。

 誰でも、自分と同じ感覚を持っている相手に親しさを覚えるものだし、だからこそ会話のやり取りでは相手の反応をある程度予測できる。

 逆に言えば、自分とは違う感覚を持つ相手に対して、こうした予測はまるで役に立たない。単純に、相手の出方がわからないからだ。

 しかし勢いで電話をかけた以上、もう引っ込みがつかないのも確かで。

『……小森、美咲の件だけど』

 夏弥は覚悟を決め、自分なりに踏み込むしかないと腹を括ったのだった。

『ん? ちゃんと話してくれたんだ?』

『ああ。一応、約束してたしな。……それでさ、んだよ』

『え?』

『はっきり断られた。普段着姿でも嫌だって言われたんだ。……だから下着姿なんて夢のまた夢だよ』

 夏弥は嘘をついた。
 普段着姿の美咲なら、すでに何枚も撮れている。

(俺が今電話している理由は、美咲を守るため……?)

 貞丸としゃべっているあいだ、ふと自問自答する。
 撮った写真を確認していた時に後ろめたかったのは、きっとただの兄妹愛なんかじゃない。

 美咲を、他の誰かに取られたくなかったから。
 だから自分は、ここまで焦るように電話をしたのだと、夏弥は感じていた。

(ああ、これ違うじゃん。美咲を守るためじゃなくて、俺が自分の気持ちのためにやってることだ)

 貞丸から美咲を遠ざけたい。
 美咲を独り占めにしたい自分の気持ちが、身体を突き動かしていたのだと彼は気が付く。
 そしてそれは紛れもなく、夏弥が美咲をと思い始めるきっかけでもあった。


『えぇ~、マジでダメだったの~?』

 落胆する貞丸の声。
 しかし、夏弥はその声にまだ疑いの余地があると思っていた。

『本当にダメだから』

『えー、それじゃ困るよ~。俺は可愛い女子になってみたいんだって、あの時も話しただろ? そのために資料が必要なんだよ』

『悪いけど、俺は協力できない』

 あまり刺激しないよう気を遣いつつ、夏弥は重ねてやんわりと拒んでみた。
 だがしかし。

『ふぅ~~ん……まっ、最初からそんなに期待してなかったからいいよ♪』

『……』

 貞丸はまるでショックを受けていなかった。
 どこか余裕のある貞丸のその態度に、夏弥は当初のリスクを強く感じていく。

(やっぱり小森のやつ、適当な返事をしたな。そしてこの場をやり過ごして、裏でまたストーキングを続ける気だろこれ……。クソ。もう、こうなったらを決行するしかないのか……)

『小森、一つ忠告しとくんだが――』

『ん? 忠告って?』

 大きく息を吸い込んで、夏弥は用意しておいた『言葉の釘』を思いっきりぶっ刺すことにしたのだった。

『もし、お前がまた美咲をストーキングしたら、今度は俺がよ』

『え?』

 夏弥の落ち着いた声色に、貞丸は一瞬耳を疑う。

 なにやら夏弥の様子がおかしい。

 明らかに声のトーンが沈んでいて、そのセリフにはゾッとするような薄気味悪さが潜んでいた。

『朝のおはようから、夜のおやすみまで。引くぐらいお前をストーキングしてやる。下手すると毎晩お前の夢の中に俺が出てくるかもな。ふふ。……そして、夢から覚めてお前はホッとするんだ。ああ、夢でよかった、ってね。お前が起きたそのベッドの下で、俺が息を潜めてるとも知らずにさぁ』

『え。えぇ⁉ こっこわっ……なんだよ急に⁉』

『ふっふっふ……。けど仕方ないよな?

 俺は、お前の情報を「資料として」ほしがっているちょっと変わった男の子なんだ。お前と一緒なんだよ♡ 夏休みが明けたら、俺には楽しみがいっぱいだよ小森。

 お前がどんな二学期を送るのか。どんな風に家やバイト先で過ごしているのか。どんなオカズで抜いてんのか。

 一から十までぜ~~~んぶ、お前の情報をスマホのカメラに収めさせてもらうよ。なにしろ「資料として」必要なんだ。仕方ない仕方ない♡ふふっ』

『う、うわぁぁ! き、キモいよ藤堂⁉ キモいキモいキモい! 何が「仕方ない♡」だよ⁉』

『どうしてそんなに驚いてるんだ? 盗撮はお前もいろんな女子にやってきたことだろうがっ♡ 自分がするのはよくて、どうして人からされるのはダメなんだよ? そんな話、通るわけがないよね♡』

 小森が今感じてるその気持ちこそ、ストーキングされる側の気持ちだ。と言わんばかりに、夏弥は貞丸を言葉で責めた。

 責めて責めて、よどみなく責めぬいた。

 その声はなよなよとしていて、大変気色が悪い。(※ちょっと裏声とか入ってる)

 洋平や美咲相手に、ふざけて気色悪い声を出すこともあった夏弥にとって、このくらいは全然容易いものだった。

 手加減や容赦は一切ない。
 夏弥の脳裏には、ずっと美咲の苦しんでいる顔が思い浮かんでいたからである。

『小森って、女性ものの下着持ってたよね。ていうか穿いてたよね』

『え?』

 夏弥のキモキモトークにさらなるターボがかかる。

『小森のランジェリー姿、いいじゃん。俺はお前が何色の下着を持ってるのか、すごく興味があるよ。あの明るい、かわいいミントグリーンのパンツ以外にもあるんだろ?

 それをノートにしたためるわ。このノートの作成を、俺の今年の抱負にしようと思う。それと、お前が穿いてる下着は毎日欠かさずチェックするよ。【何月何日、今日の小森はピンクのレースパンティを穿いてて最高だった……ふぅ】とかさ。手段はナイショだけど。

 あと、一人で着替えができると思うなよ? ずっとどこかから見ててあげるからね♡ これが俺のデイリー任務だわ。むふっ♡ よろしくな小森♪』

『ま、待って。気持ち悪すぎる。……お、おえぇ……』

 一体どこからそんな不快指数の高い考えが湧きだしてくるのか。
 否、これは夏弥から湧いているわけじゃない。

 むしろ貞丸自身がお手本にされているのかもしれない。

 気持ち悪いとはどういうものか。不快感とはどういうものか。

 それを加害者側に味わわせる。
 これが夏弥なりの『釘』だった。
 目には目を。ストーキングにはストーキングを。

 夏弥がその不快指数もりもりな主張を言い終えると、電話越しの貞丸はすっかりグロッキーな様子で……。

『っう……わ、わかったよ……。もう、いい……。もういいっす……。鈴川美咲には今後そういうことしないって。……だから許してくれ……おぇ』

『……はぁ。美咲に限らず、ストーカーとか盗撮は基本アウトなんだから他の女子にもやめてとけよ。俺だって、同級生が逮捕されるところなんて見たくないし』

『うっう……。そ、そうだな……わかった……。それもやめる。やめます。だからおはようからおやすみまで、とか気持ち悪いこと言わないで』

『わかってくれたらそれでいいよ。あと、ちょっと誤解しないでほしいんだけど――

『うん……?』

『俺は別に、を否定してるわけじゃないんだ』

『え?』

 尖っていた夏弥の語気が、急に丸みを帯びて柔らかくなった。
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