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しおりを挟む――数十分ほどして、髪を乾かした美咲が脱衣室から出てくる。
いつも通り、茶髪のショートボブカットは乾きが良いらしい。
夏弥はリビングのソファに座りながら、そんな美咲を視界の端にとらえていた。
すかさず夏弥はソファから立ち上がり、美咲のもとへ向かう。
彼の手には、美咲の部屋で見掛けた例のモノが握られていた。
いつものルーティンなのか、美咲はまたしてもキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、その場で飲んでいた。
そんな美咲に向けて、夏弥は口を開く。
「なぁ、これ、どうしたんだよ?」
「え?」
美咲はミネラルウォーターのペットボトルを一度キッチンの調理台に置いた。
それから、夏弥の差し出してきた手に視線を向け、閉口する。
「電子タバコ。吸ってたのかよ」
「……」
夏弥の手には、加熱式タバコ専用のスティックひと箱と、手のひらサイズのポケットチャージャーとが乗せられていた。
スマートな形をしているポケットチャージャーは、薄いピンクのカラーリング。普通に女子高生が携帯していても違和感がないレベルでかわいらしく、どことなく秘密の小道具感がある。
それらはもちろん、美咲の部屋のテーブルにあったものだ。
使い方も何も夏弥は知らないけれど、少なくともソレを未成年である美咲が嗜んでいい代物じゃない事は知っていた。
「ああ、それ。友達からもらったんだ」
「へぇ」
「へぇって……。何も言わないんだ?」
美咲の質問に、夏弥はどう答えようかと悩んでいた。
「……二重課税おつかれさま」
「そうじゃなくて」
夏弥は、美咲が何を言おうとしているのか、その目を見て察していた。
むしろ目なんて見ていなくても、彼女の出す雰囲気から本当はおおよその見込みがついていた。
「吸わなければ一番良いよ」
「それだけ?」
「……そりゃあもちろん、本当は吸っちゃダメだろ。ていうか、吸わないほうが良いってことは、美咲ならとっくにわかってそうだから。俺が強く言ったところで、考えが変わるわけでもないし。お前の場合、ただ吸いたいんじゃなくて何か理由があるんじゃないのかって思っただけだよ」
「なにそれ……。あたしのこと、勝手にわかった気にならないでよ。……当たってるけど」
「当たってるんじゃん」
「夏弥さんて、普段冴えないくせにこんな時ばっかりアレだね。……これ、クラスの子からもらったの。使わないからあげるって言われて。機械のほうだけ。使い方も聞いたし」
「へぇ……。いつから吸ってるんだ?」
「昨日その子からもらって吸った一本と、さっき一本」
「さっき⁉ 部屋で吸ったのか?」
「うん。窓、開けて」
(ああ、それですぐにお風呂に入らなかったのか……。あれは一服してた時間だったと)
夏弥は自分のなかで納得していた。
「けど、この箱に入ったスティックの方、買うにしても年齢確認されるだろ」
「すぐ近くにタバコ屋さんあるじゃん。ヨボヨボのおばあちゃんがやってるお店」
「そういえばあったな……」
「そこでさっき買ってきた」
「はぁ」
鈴川家のアパートのはす向かいには、確かに昭和レトロで存続も疑わしいようなタバコ屋がある。
いつ潰れてもおかしくなさそうなそのお店は、いつ天国へ旅立ってもおかしくなさそうなもうろくおばあちゃんが一人で営んでいる店だった。
(経営者の年齢制限って上限ないんだっけ……? ていうか、本人の意志次第で死ぬまで営業できるとか、そのへん法律大丈夫かよ……)
さっき出掛けた美咲は、間違いなく三條高校のブレザー服を着ていたはずだった。
それなのに、あのお店ときたらそれすらも気に留めなかったらしく。
いろいろと投げやりで、HPも残り少ないし今世なんてもうどうでもいいというか、無法も法のうちよと言わんばかりの体たらくおばばだったわけである。
「でもなんで家でまで吸うんだよ。依存してるわけじゃないんだろ? それにこの家の中なら建て前とかもいらないだろ。別に俺以外誰もいないんだし、この家」
「吸った感想とか、そういうのは吸った人じゃないと言えないでしょ。あたし自身は別にどうでもいいよ。タバコとか」
と言いながら、美咲は冷蔵庫にミネラルウォーターをしまう。
「そんな」
――そんな、吸った感想なんてでっち上げればいいだろ。
夏弥はそう言おうとして思いとどまった。
美咲には美咲なりの考えがあって動いてる。
それは、夏弥がついさっき美咲に伝えたことだ。
自分で言っておきながら、思わず夏弥は言い返してしまいそうになった。
「これも、いけない事だとか、悪い事だとか、そういうのはもうわかってるし」
「……」
「あたしは徹底してるの。感想とかそういうのって、吸わなきゃ真実味に欠けるでしょ。だから吸ってみる。……恋愛と一緒じゃん。
付き合ってみないとわからないから、付き合ってみたし、タバコだって吸ってみないとわからないから吸う。もちろんそれだけじゃないけど。周りの人の関心事にあたしが関わってみるのって、そんなにおかしなこと?」
美咲が自論を話しているあいだ、夏弥はスマホであるものを調べていた。
「そんな自己流すぎるJKトークされてもな。ほら、これ見ろって」
そう言って、夏弥は美咲にスマホの画面を見せる。
「……何、このキモい画像」
夏弥が見せていたのは、肺が炭のように真っ黒になっている画像だった。
美咲は汚物でも見るようなまなざしでその画像を見つめていた。
「これ、タバコを吸い続けた人の肺と、吸ってない人の肺を比べた画像な」
「……」
この手の画像は、「タバコ 肺」などと検索すれば一発で出てくるくらい、簡単に見ることができる。
けれど、言葉を失った美咲の姿を見るに、彼女はそれを初めて目にしたようだった。
画像が何を映しているのか理解したところで、美咲の綺麗な顔が気まずさの色に染まっていく。
「吸っていくうちに、美咲もどんどんこのキモい肺になるって話だよ。ていうか、健康被害なめてると痛い目見るだろ。ちょっとした興味で吸って、そのまま依存して吸い続ける人も多いらしいし。こんな肺になってもいい覚悟があるなら止めないし、むしろ吸えば?」
夏弥はいつになく冷たく言ってやった。
それは、これ以上ないくらい侮蔑を含む声だった。
直接的な悪口なんかより、ずっと鋭いモノの言い方。
必死になって止めたりなんてしない。でも侮蔑の声だけは聞かせたかった。
おそらく美咲に対してだからこそ、夏弥はこんな態度を取っていたのだ。
普段、素っ気なくて冷たかった美咲の態度がおままごとのように思えてしまうくらい、夏弥の態度は冷酷そのもので。
そんな本気で相手に冷たくなっている夏弥を、美咲は初めて見た気がしていた。
「ごはんの前にやめてよ、その画像。キモいし」
美咲のその声は少しだけ震えている。
幼い頃から知っていて、ほとんど自分の兄と変わらない存在だった男の子。
その男の子が今、目の前で、かつて見たことがないくらい自分に対して辛辣に接している。
その事実が、美咲に想像以上の不安や驚きを与えていたのかもしれない。
「……」
「……今日、ごはん何なの?」
美咲の綺麗なその瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるようだった。
そのこぼれはしない涙を見た夏弥は、つい自分が感情任せで冷然とあたってしまっていたことに気が付く。
「今日はカツ丼。俺の……特製卵とじスペシャル」
夏弥は、気まずい空気の修正を図ろうか悩んでいた。
その結果、半端にウケを狙うようなセリフになってしまう。
(なんで俺が気まずさの修正をするんだ。むしろ美咲が原因なのに……)とも思ったけれど、夏弥自身、自分の気持ちに振り回されたことで自己嫌悪にもなっていた。
「卵とじスペシャル? あ、すごいね」
「その言い方って、全然すごいとか思ってなさそうじゃね?」
「すごいすごい」
「たかいたかい、みたいなのはいいから」
「で、でも本当に良い匂いしてるなって思うよ。……手料理のカツ丼なんて、あたし初めて食べるかも。夏弥さんて料理上手だよね」
「いつになく饒舌だな。お世辞を言うなんて――
気持ち悪い。と、夏弥はそのままその言葉を言ってしまいそうになった。
でも、余計なニュアンスを美咲に与えてしまいそうな気がして言い淀む。
自分達高校生のあいだで安い悪口のように使われるその単語が、本来の意味の「気持ちが悪い、気分が悪い」ときに使えないだなんて。
こういう事を本末転倒っていうんだろうな、と夏弥は思っていた。
「そう? 饒舌って。別にあたし、無口なキャラじゃないんだけどな。夏弥さんが勝手にそう思ってただけでしょ。……ねぇ、はやく盛りつけて食べたいんだけど」
そう言いながら、美咲はコンロの上のフライパンに目を向けていた。
美咲は確かに、空腹でたまらなさそうな目付きをしていた。
さっきの夏弥の冷たい態度がどの程度彼女に響いたのか、それは夏弥にもよくわからなかった。
ただ一つ感じるのは、今の美咲の態度が、妙に歩み寄ってくるような、取り繕った態度だということだ。
この数分間のやり取りで、その心境にまたしても変化があったのかもしれない。
(タバコを辞めなきゃ料理はもう作らないっていう強硬手段もあったな。まぁ……もういいか。ちょっと厳しく当たっちゃったし)
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