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南東の島国3
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「顔貌や声色を偽る魔法は、君が思っているよりずっと世の中に溢れ返っている。幻惑魔法は悪漢や間者が使う常套手段だからな」
決して張り上げた声ではないのに、不思議とよく通る彼の声は、反射的に背を向け駆け出した俺の耳にもしっかりと聞き取れた。その声はすでに初老の男のものではなく、耳に馴染んだあの心地良い低音だ。
商品棚をすり抜けた先で、クローイとぶつかりそうになる。たぶん「どうしたの?」と声を掛けられたと思うが、俺にはそんなことどうでもよかった。一瞥もすることなくその横を無言ですり抜けようとしたが、後ろから伸びてきた強い手に腕を捕まれてしまい、一歩も進めなくなった。今、彼はどれほどの憎悪を感じているだろう。恐怖で振り返ることすら出来ず、背中に冷や汗が流れた。
「君をどれ程捜したと思う?君からの封書の中に、愛おしい伴侶に捧げたはずの指輪を見つけた時の私の気持ちが、君にわかるか?」
全てを威圧して押し潰すような、低く重く冷たい彼の声に、歯の根が合わず体が震える。とっさに「ごめんなさい」と唇と喉が動くが、渇き、張り付き、震えるそれらからは、かすれた吐息しか出なかった。
何も言えない俺に、焦れた彼が舌打ちをした。
「やめとけよ、騎士様。あんたの嫁は気が小せえんだから、そんなおっかない顔してたら嫌われるぞ」
不意に俺たちの間に投げ込まれたイアンの声は、いつも通り飄々としていて、俺にほんの少しの安堵をもたらした。恐る恐る顔を上げれば、目の前に腕組みをしたイアンが立っていた。保護者の風格すら感じる。
俺と、俺の背後の長身にそれぞれ視線を投げてから、イアンはやたら大きな溜め息を吐いた。
「俺は事情のひとつも聞いてねえし、あんたらに何があったのか微塵も知らねえけどさあ、そいつまだあんたと話したくないんだろ。もう少し待ってやれよ。あんた、旦那だろ」
「貴様には関係がない。ハバトは私のものだ。私の好きにする」
「おー、怖。そんなんだからそいつ逃げんだろ」
緩慢に振り向くと、白金色の長い髪と、それと同じ長く濃い睫毛に縁取られた濃緑色の瞳の美しくて酷く恐ろしい人がいる。美貌の人は、口を引き結んだまま憎しみのこもった暗く鋭い目でイアンを睨みつけていた。
ダメだ。俺がこれ以上イアンに頼れば、彼の怒りがイアンにも向く。悪いのは俺だ。彼に恨まれるのは俺だけでいい。
俺はゆっくりと体ごと彼に向き直った。掴まれた腕と反対の手で、頑なな彼の手にそっと触れた。
彼の、大きくて硬くて強い手だ。彼のことが恐ろしくて堪らないのに、どうしようもない愛おしさが胸底から湧き上がってきて、ぎゅっとその手を握り締める。涙腺が急激に熱くなった。
「セブ、さん。俺は貴方を」
愛しています。今も。
そんなこと今の俺に言う資格はない。言葉尻を飲み込むと、こらえきれなかった涙がほろほろこぼれた。
「ハバト…」
彼の声から険が取れて、俺の知る優しく心地いい低音が俺の名を呼んだ。それは、今の赤毛の俺を呼んだのか、彼の“愛おしい伴侶”の少女を呼んだのかはわからなかった。
拭う手がなくて、俺はただ無様に泣き顔を晒すしかない。彼が、掴んだままの俺の腕を柔く引き、その端正な顔を俺の頬に寄せた。まさか、薔薇色の瞳の少女のハバトでなくても、彼は俺に触れてくれるのだろうか。
そんな淡い期待でセブさんの唇と、言葉を待った。
だけど、期待したものはひとつも与えられず、代わりに背中に何かがそっと触れ、俺の斜め後ろに誰かが立った気配がした
「ハバトがあなたに何か悪いことしちゃったならごめんなさい。あたしも一緒に謝るから許してください。ハバトは本当に優しくていい子なんです」
聞こえてきた声はクローイのものだった。俺を思って助け舟を出してくれたらしい。でも、セブさんの怒りは、第三者からの謝罪で収まるものではないだろう。後ろの方から、「あー!クッソ!馬鹿クローイ!余計なことすんな!」とイアンの悪態が聞こえた。
俺の眼前からゆっくりと顔を離したセブさんは、背筋を伸ばし、酷く冷めた視線を俺の背後のクローイに向けた。
「まさか、ハバトの恋人か?」
先程の酷く恐ろしい威圧の声に戻っている。自身を騙して逃げた男が、逃げた先でのうのうと恋人なんて作っていたとしたら腹も立つだろう。誤解を解かないと、クローイまで巻き込んでしまう。でも、どんなに否定したとしても、俺自身の言葉なんてセブさんはひとつも信じてくれないんじゃないか?もう、自分自身が疫病神にしか思えない。
「恋人ではないですけど、あたしはハバトの味方です」
クローイの控えめな否定の言葉を聞いたセブさんは、何を思ったのか小さく嗤い出した。なんとなく自嘲めいたものを感じて、つい気遣わしくて彼の手を強く握り締めてしまう。
そして、彼はひとしきり嗤うと細く長く息を吐いた。
「どいつもこいつも、邪魔くさくて仕方がない」
優しい彼から出たとは思えない、酷く憎しみのこもった言葉だった。なのに、なぜか俺の腕を掴む彼の手の力が、かすかに弱まったようだった。この場から、イアンたちから離れるなら今しかないんじゃないか。怖気づく自分の心を叱咤する。
内心でクローイに謝りながら、肘で強く彼女を押し退け、同時にセブさんの手を振り解いて、俺は店の外へ向かって走り出した。
店の正面扉を肩で押し開けると、すぐ目の前に人がいて、それを避け切れずにぶつかってしまった。実質、俺の全力の体当たりだったわけだが、ぶつかった相手はよろけることすらなく、いっそ俺を抱きとめてしまった。そんな場合じゃないのに、あまりにびっくりして相手の顔を仰ぎ見た。
決して張り上げた声ではないのに、不思議とよく通る彼の声は、反射的に背を向け駆け出した俺の耳にもしっかりと聞き取れた。その声はすでに初老の男のものではなく、耳に馴染んだあの心地良い低音だ。
商品棚をすり抜けた先で、クローイとぶつかりそうになる。たぶん「どうしたの?」と声を掛けられたと思うが、俺にはそんなことどうでもよかった。一瞥もすることなくその横を無言ですり抜けようとしたが、後ろから伸びてきた強い手に腕を捕まれてしまい、一歩も進めなくなった。今、彼はどれほどの憎悪を感じているだろう。恐怖で振り返ることすら出来ず、背中に冷や汗が流れた。
「君をどれ程捜したと思う?君からの封書の中に、愛おしい伴侶に捧げたはずの指輪を見つけた時の私の気持ちが、君にわかるか?」
全てを威圧して押し潰すような、低く重く冷たい彼の声に、歯の根が合わず体が震える。とっさに「ごめんなさい」と唇と喉が動くが、渇き、張り付き、震えるそれらからは、かすれた吐息しか出なかった。
何も言えない俺に、焦れた彼が舌打ちをした。
「やめとけよ、騎士様。あんたの嫁は気が小せえんだから、そんなおっかない顔してたら嫌われるぞ」
不意に俺たちの間に投げ込まれたイアンの声は、いつも通り飄々としていて、俺にほんの少しの安堵をもたらした。恐る恐る顔を上げれば、目の前に腕組みをしたイアンが立っていた。保護者の風格すら感じる。
俺と、俺の背後の長身にそれぞれ視線を投げてから、イアンはやたら大きな溜め息を吐いた。
「俺は事情のひとつも聞いてねえし、あんたらに何があったのか微塵も知らねえけどさあ、そいつまだあんたと話したくないんだろ。もう少し待ってやれよ。あんた、旦那だろ」
「貴様には関係がない。ハバトは私のものだ。私の好きにする」
「おー、怖。そんなんだからそいつ逃げんだろ」
緩慢に振り向くと、白金色の長い髪と、それと同じ長く濃い睫毛に縁取られた濃緑色の瞳の美しくて酷く恐ろしい人がいる。美貌の人は、口を引き結んだまま憎しみのこもった暗く鋭い目でイアンを睨みつけていた。
ダメだ。俺がこれ以上イアンに頼れば、彼の怒りがイアンにも向く。悪いのは俺だ。彼に恨まれるのは俺だけでいい。
俺はゆっくりと体ごと彼に向き直った。掴まれた腕と反対の手で、頑なな彼の手にそっと触れた。
彼の、大きくて硬くて強い手だ。彼のことが恐ろしくて堪らないのに、どうしようもない愛おしさが胸底から湧き上がってきて、ぎゅっとその手を握り締める。涙腺が急激に熱くなった。
「セブ、さん。俺は貴方を」
愛しています。今も。
そんなこと今の俺に言う資格はない。言葉尻を飲み込むと、こらえきれなかった涙がほろほろこぼれた。
「ハバト…」
彼の声から険が取れて、俺の知る優しく心地いい低音が俺の名を呼んだ。それは、今の赤毛の俺を呼んだのか、彼の“愛おしい伴侶”の少女を呼んだのかはわからなかった。
拭う手がなくて、俺はただ無様に泣き顔を晒すしかない。彼が、掴んだままの俺の腕を柔く引き、その端正な顔を俺の頬に寄せた。まさか、薔薇色の瞳の少女のハバトでなくても、彼は俺に触れてくれるのだろうか。
そんな淡い期待でセブさんの唇と、言葉を待った。
だけど、期待したものはひとつも与えられず、代わりに背中に何かがそっと触れ、俺の斜め後ろに誰かが立った気配がした
「ハバトがあなたに何か悪いことしちゃったならごめんなさい。あたしも一緒に謝るから許してください。ハバトは本当に優しくていい子なんです」
聞こえてきた声はクローイのものだった。俺を思って助け舟を出してくれたらしい。でも、セブさんの怒りは、第三者からの謝罪で収まるものではないだろう。後ろの方から、「あー!クッソ!馬鹿クローイ!余計なことすんな!」とイアンの悪態が聞こえた。
俺の眼前からゆっくりと顔を離したセブさんは、背筋を伸ばし、酷く冷めた視線を俺の背後のクローイに向けた。
「まさか、ハバトの恋人か?」
先程の酷く恐ろしい威圧の声に戻っている。自身を騙して逃げた男が、逃げた先でのうのうと恋人なんて作っていたとしたら腹も立つだろう。誤解を解かないと、クローイまで巻き込んでしまう。でも、どんなに否定したとしても、俺自身の言葉なんてセブさんはひとつも信じてくれないんじゃないか?もう、自分自身が疫病神にしか思えない。
「恋人ではないですけど、あたしはハバトの味方です」
クローイの控えめな否定の言葉を聞いたセブさんは、何を思ったのか小さく嗤い出した。なんとなく自嘲めいたものを感じて、つい気遣わしくて彼の手を強く握り締めてしまう。
そして、彼はひとしきり嗤うと細く長く息を吐いた。
「どいつもこいつも、邪魔くさくて仕方がない」
優しい彼から出たとは思えない、酷く憎しみのこもった言葉だった。なのに、なぜか俺の腕を掴む彼の手の力が、かすかに弱まったようだった。この場から、イアンたちから離れるなら今しかないんじゃないか。怖気づく自分の心を叱咤する。
内心でクローイに謝りながら、肘で強く彼女を押し退け、同時にセブさんの手を振り解いて、俺は店の外へ向かって走り出した。
店の正面扉を肩で押し開けると、すぐ目の前に人がいて、それを避け切れずにぶつかってしまった。実質、俺の全力の体当たりだったわけだが、ぶつかった相手はよろけることすらなく、いっそ俺を抱きとめてしまった。そんな場合じゃないのに、あまりにびっくりして相手の顔を仰ぎ見た。
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