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『手を出したら殺しますよ』
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(私、どうしてコンビニなんか行こうと思ったんだっけ……)
行きの道のりはあっという間だったのに、帰りはとても遠く感じる。小さなビニール袋は手元でカサカサ揺れていた。
(そうだよ。冷静になろうと思って)
昼間の出来事でふわふわしてた頭を冷やす為に……。
コンビニに出かけたのは正解だった。
レジで偶然居合わせた男性達の会話のおかげで、私の頭はすっかり冷やされたのだ。
今日は偶然が重なる日。
忘れた訳じゃなかったけど、でも、似たようなものだ。今日一番の偶然を頭の端っこへ追いやっていたんだから。
「私のラッキーは、誰かのアンラッキー……」
ポツリと零してみた言葉は、いい得て妙だった。
これを私が後悔や嘆いてみたところで現実が変わる訳じゃない。そうする事が無意味であるのも知ってる。
だけど、やっぱり切なくなってしまうのだ。
ぽっかり空いた、私がいるはずだった時と場所。そこを埋めた誰か。……重なった偶然。
考えると、ちょっと怖くて。
考えると、すこし申し訳ない。
偶然に助けられ密かに喜ぶ自分がいる。そんな自分を不謹慎だと思う自分がいる。なんか複雑だ。
(どうしようもない事を、ぐるぐる考えてしまうのは私の悪い癖なんだろうな……)
はあぁー……と長い溜息になってしまった。
そんな感じの帰り道は、ふわふわ浮ついた気持ちも上手く鎮めてくれて。マンションに着いた頃にはすっかりいつも通り。
のはずだった。
「……あ」
入口の柱にもたれかかる様にして立っている人さえいなければ。
「おかえりなさい」
「結城さん……どうしたんですか……?」
「貴女が出掛けて行くのが見えましてね。こんな時間ですし、少し心配だったので……ここで帰りを」
ニコリと微笑み。一歩こちらに歩み寄る結城さんに、胸が勝手にキュンとなる。
――これじゃあ、鎮まる予定だったものも鎮まらない。
「前にも言ったでしょう? あまり無防備だと、本当に誰かに攫われてしまいますよ?」
「私みたいなのを攫うモノ好きはいませんもん。平気です」
「……おや。では、私はその唯一の“モノ好き”ということになります。ライバルはいないに越したことはないので、こちらとしては助かりますけど」
「またそんな冗談を……」
私たちはお互い顔を見合わせ笑った。
盛大な苦笑いの自分と、口元を僅かに引き上げた小さな笑いの結城さん。
唇を重ねても心が重なった気分にならないのは、結城さんのこういう表情などのせいだろう。
言葉と表情。口調と行動。
時々バラバラに感じた。ここまで分からない相手を前にするのは初めてで、どうしても戸惑う。
彼の真意は、どこにあるの……?
「冗談か否かは、そのうち分かってくることかもしれませんね」
「……はは……。そうですかねぇ?」
マンションエントランスから私の部屋までのとても短い距離、結城さんは小さなコンビニの袋をわざわざ持ってくれた。
そこまでしてもらわなくても……と困る私に、彼は「他のどこへも寄り道しないように、人質です」と冗談めかして笑う。
さらりと「人質」とか言ってしまうところが、なんか結城さんだよなぁ、なんて思った。あまり結城さんの事は知らないくせに、そういうのは分かるっていうか何というか……。
「寄り道しようも何も、ココからじゃ部屋しか行くとこ無いじゃないですか」
「そんな距離でも何があるか分からない世の中でしょう? ホラ、今朝のように」
「……」
朝のエレベーターの事を言っているみたいだった。確かに“アレ”も寄り道と言えば寄り道。
それを考えながら、結城さんの言葉を私はこっそり噛みしめる。
(何があるか分からない世の中、かぁ……)
色んなシーンでそういう言葉を聞く機会はあったけど、しみじみ体感する一日になるとはまさか思わなかった。体験の深さが、今日という日をこれまでになく濃厚にした感じ。長い一日だった……。
「花音さん、昼間私が言った事……覚えていますか?」
部屋の前でコンビニ袋を私に手渡すと、結城さんはそう聞いてきた。
「昼間?」見上げると、薄茶の瞳が真っ直ぐこちらに向いていてギクリとさせられる。
「ええと……」
「独りで何かを考えたいという時は、大抵誰かに側にいてもらいたいと思ってる時でもある……という話です」
「ああ……! 結城さん説ですね」
真剣な瞳の圧力が堪えられなくて、思わず目を逸らしながら私は笑っていた。
そういうモノだろうか? と昼間は曖昧に流していた結城さんの言葉も、今は胸にズンと響く重たさがある。
――それはつまり。
実感していた。やっぱりそういう事ってあるのかもしれないと、私自身が今感じてるのだ。家を出た時も、こうして帰ってくる間も、本当は私……そう思っていたのかもしれない。
「花音さんには、今日は独りになってもらいたくないんですよ。今夜は離さず朝までご一緒したい位です……。出来れば我が家で」
「は? えっ!?」
「うーん……。とはいえ、私もそこまで節操無い男には見られたくないですからね」
そこまでは遠慮しておきます、と結城さんは笑うけど、この人の事だから隙を見せたらどうなるか……。
(本当に……本当に何考えてんだ、この人!?)
つい一歩分距離を取ってしまう私。そんな私に結城さんは「困りましたねぇ」と肩をすくめた。
「私と居るのは、そこまで危険を感じることなんですか?」
「そういう訳じゃないですけど……」
(若干の貞操の危機を感じたりはします……)
――とか言える訳ない。返答には頬がひきつってしまった。
「だから。別に捕って喰おうなんて思ってませんよ、まだ」
「まだ!?」
「ああ……いえ。それはさておきですね」
(いやいやっ! “さておき”されていい問題じゃない気がする……!)
こちらの気も知らず自分の発言をいともあっさり流して。
「花音さん……私は」
結城さんは直後、悲しそうな困り顔を見せた。
まただ。変わり身の速さと、言葉と表情のアンバランス。この難解さにいつも惑わされるのだ。
そうと分かっていても心は揺らぐ。悲しげな彼の顔に胸が苦しくなる。
「これでも心配してるのです……私なりに。貴女はとても、過ぎる程、純粋だから」
「え……あの?」
「それがいつか、むなしい結果を招く事にならないか……と」
「……?」
はじめは何を言われているのかよく分からなかった。
私が純粋? それも過ぎるほど?
まさか! これでも結構図太い神経してるし、人並みに意地汚い感情を持つことも、そこそこ際どいネガティブさだって持つこともある。
過大評価じゃないか? それ。
複雑そうな表情をする結城さんに、私は首を傾げる事くらいしか出来なかった。
握りしめていたビニール袋。首を傾げた拍子にカサッと音を立てた。結城さんはそこへ目を向けて「偶然というのは」と続ける。
「偶然というのはですね、それこそ人間にはどうする事も出来ない要素でしょう?」
「……は、ぁ……」
「だからそれを悔やんだりしても、誰かが救われることは無いんです。何かが劇的に変わる訳でも無い」
「………」
「ねぇ、花音さん。馬鹿げていると思いませんか? 無駄な事に心を支配されるなんて」
結城さんの声は、低く冷たかった。
嘲笑を混ぜた声音が……なんだか怖い。
自分へ落とされた言葉が、何を言いたいのかが分かったから余計なのかもしれない。
さっき田所さんと交わした“多くを語らない会話”の時とは全く違う気持ちが、じわじわと胸に広がっていくのを感じた。
「貴女が例えあの場に居たとしても、必ずしも死ぬ運命にあったとは限らない。運悪く命を落とした方々も、あの場に居なかったからといって今日死なずに済んだとも限らない。分かりますか?」
私は、黙って頷いた。
今更、結城さんが今日のあの事故を知っている事を疑問に思う必要はなかった。
彼は知ってるんだもん。私のことは色々と。不思議だけど、そうなのだからしょうがない……。
「すべては偶然が重なった結果ではない、という事です。人の寿命や運命は、そう容易く偶然で決められるものじゃないんですよ」
「えぇ……」
「自分がかかわった偶然で誰かの人生を変えてしまった……なんて、おこがましい考えを。フフッ、花音さんてば愚かですね、全く」
「ですね……っえ!?」
鼻で笑う結城さんに驚き、俯いていた顔を上げた。
今、思いっきり馬鹿にされた……!?
「ですが、その愚かさも人間の味。貴女の魅力のひとつ」
嘲笑消え穏やかな笑み。結城さんは微笑むと、私の頭にぽん、と掌を乗せる。
その瞬間、私の心臓は大きく跳ねて、脳裏にはある場面が浮かんだ。それは、あの駅で見た光景。
――駅の柱に隠れる様にしていた結城さんと女性。彼は微笑んでいた。そして、優しく彼女の髪を撫でていた……。
ほんの少しだけ見えてしまった場面が、こんなに自分の中にこびり付いているとは思わなかった。
こびり付いたシーンは、私の胸をえぐる様にジワリと浮かび上がってくる。すると、私の心の中は途端に様々な感情で騒がしくなり、目の前で喋る結城さんの声も遠く聞こえた。
「私は良いと思いますよ。それは花音さんの優しさがそうさせているのだと思いますので。でも、あまり気に病まないでくださいね?」
走馬灯みたいに。と言ったら、大袈裟かもしれない。けれど、そんな感じで頭には浮かんだ。
事故現場の白い花。行く人達の視線。聞こえてくる噂話。
そして最後に、バイト先での朋絵のさりげない行動や、田所さんの態度。言いかけていた言葉は、今の結城さんときっと同じだったんだと思う……。
「そもそも、貴女が責任を感じる事ではないのですから」
自分だけが運良く不運を避けられて命拾いした事を、人知れず喜んでしまったという罪悪感は確かにずっとあった。
私はどこかで「それが普通で悪い事ではない」と肯定してもらいたかったのかもしれない。
だからこそ、結城さんのこの言葉に、田所さんとのやり取りに、救われた気がしてる。
本当なら、それで十分のはずなのだ。
なのに、この騒がしい心の中は落ち着かない。
……問題は別にあった。一日中引っかかってた罪悪感がせっかく払拭されたというのに、私のキモチは既に別のことで一杯になってるなんて――。
「花音さん……?」
ぽんぽん、と結城さんの手が私の頭を優しく、それこそ撫でる感じで軽く叩く。
でも、あくまでそれは「撫でる」とは別。
聞いているのかいないのか分からない相手に、アクションで反応を促してる……“そういうもの”なのだ。
――あの女性とは違う。
――扱いが違う。
それが、それが……。
(え……? あれ、何コレ。なんなんだろう)
自分の頬を伝う涙に私は自分で驚きながらも。
生温かいしずくで自覚していた。せざるを得なかった。
お腹の底から込み上げてくる不快感は、胸の中心で嫌な熱感を伴い私を内側から燃やそうとしている。
この感じ。私、知ってる。
(――嫉妬、だ……)
流す予定ではなかった涙は、ひとつ零れると、つられて二つ三つと落ちてきた。
「あ」と短く結城さん。「えっ」と焦って私。
しまった……! 調子乗り過ぎた!
「ち、ちちち違います! これは、……っ!?」
「涙ですね」
ひょいと長身を屈め、結城さんは私の顔を覗き込んでくる。私は慌てて掌でほっぺたを擦って、水分を消した。
「すみません。どうかお気になさらずに……」
そのまま顔をそむけ誤魔化そうとすると、頭の上に乗っていた結城さんの手が……
「ほう?」
私の頭を鷲掴む。「!?」一瞬、そう掴まれたかと思うほど強い圧迫を感じた。
「気にするな? 泣いてる貴女を前に、素知らぬ顔をしろと?」
「や。あの……」
心なしか結城さんの顔が、怖い。やっぱり手、力入ってない? 頭動かないんですけど!
「残念ながらそれは出来ませんよ、花音さん」
色素の薄い茶色の瞳は、廊下の蛍光灯の明かりを受けて益々薄茶に見えた。光の加減なのか、その瞳の真ん中にチラリと青い色も見えた気がして、この人はやはり純和風じゃないんだろうな……と思う。
こんな時になんだけど。
もしかして、こういう深芯の色が彼の目力の源なのかもしれないんじゃないかな? とか。
「私には出来ません」
と、真っ直ぐ私を見下ろす結城さんは呟くと、怖さを一転苦笑を浮かべ。スッと私から手を引いた。
大きな手が離れたほんの数秒。視線で思わず追ったそれは、またすぐ私に近づいてきた。近づいて、私をフッと通り過ぎ……。
「ゆ、……き、さん?」
「個人的に色々思うところがありますが」
「え?」
「でも、そういう事は今は関係ありませんね。とにかく考えるべきは。重なった偶然が花音さんを深く悲しませているという事……」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。頬に相手のぬくもり。ギュッと抱きしめられて。
まさか。……包まれる安心感がこんなに大きいものとは思わなかった。
「だから貴女は純粋すぎると言ってるんです」
「………」
「こんな……。こんなの」
苦しそうな声が続けて「放って置くなんて無理だ」と耳元で囁く。
「結城さん……!」
胸が締め付けられて苦しかった。安堵と切なさを同時に味わうと、涙は勝手に溢れてくるものらしい。それが何故かなんて分からない。
考える事も出来ずに私は、ただ結城さんにしがみ付いて声を押し殺し泣いた……。
行きの道のりはあっという間だったのに、帰りはとても遠く感じる。小さなビニール袋は手元でカサカサ揺れていた。
(そうだよ。冷静になろうと思って)
昼間の出来事でふわふわしてた頭を冷やす為に……。
コンビニに出かけたのは正解だった。
レジで偶然居合わせた男性達の会話のおかげで、私の頭はすっかり冷やされたのだ。
今日は偶然が重なる日。
忘れた訳じゃなかったけど、でも、似たようなものだ。今日一番の偶然を頭の端っこへ追いやっていたんだから。
「私のラッキーは、誰かのアンラッキー……」
ポツリと零してみた言葉は、いい得て妙だった。
これを私が後悔や嘆いてみたところで現実が変わる訳じゃない。そうする事が無意味であるのも知ってる。
だけど、やっぱり切なくなってしまうのだ。
ぽっかり空いた、私がいるはずだった時と場所。そこを埋めた誰か。……重なった偶然。
考えると、ちょっと怖くて。
考えると、すこし申し訳ない。
偶然に助けられ密かに喜ぶ自分がいる。そんな自分を不謹慎だと思う自分がいる。なんか複雑だ。
(どうしようもない事を、ぐるぐる考えてしまうのは私の悪い癖なんだろうな……)
はあぁー……と長い溜息になってしまった。
そんな感じの帰り道は、ふわふわ浮ついた気持ちも上手く鎮めてくれて。マンションに着いた頃にはすっかりいつも通り。
のはずだった。
「……あ」
入口の柱にもたれかかる様にして立っている人さえいなければ。
「おかえりなさい」
「結城さん……どうしたんですか……?」
「貴女が出掛けて行くのが見えましてね。こんな時間ですし、少し心配だったので……ここで帰りを」
ニコリと微笑み。一歩こちらに歩み寄る結城さんに、胸が勝手にキュンとなる。
――これじゃあ、鎮まる予定だったものも鎮まらない。
「前にも言ったでしょう? あまり無防備だと、本当に誰かに攫われてしまいますよ?」
「私みたいなのを攫うモノ好きはいませんもん。平気です」
「……おや。では、私はその唯一の“モノ好き”ということになります。ライバルはいないに越したことはないので、こちらとしては助かりますけど」
「またそんな冗談を……」
私たちはお互い顔を見合わせ笑った。
盛大な苦笑いの自分と、口元を僅かに引き上げた小さな笑いの結城さん。
唇を重ねても心が重なった気分にならないのは、結城さんのこういう表情などのせいだろう。
言葉と表情。口調と行動。
時々バラバラに感じた。ここまで分からない相手を前にするのは初めてで、どうしても戸惑う。
彼の真意は、どこにあるの……?
「冗談か否かは、そのうち分かってくることかもしれませんね」
「……はは……。そうですかねぇ?」
マンションエントランスから私の部屋までのとても短い距離、結城さんは小さなコンビニの袋をわざわざ持ってくれた。
そこまでしてもらわなくても……と困る私に、彼は「他のどこへも寄り道しないように、人質です」と冗談めかして笑う。
さらりと「人質」とか言ってしまうところが、なんか結城さんだよなぁ、なんて思った。あまり結城さんの事は知らないくせに、そういうのは分かるっていうか何というか……。
「寄り道しようも何も、ココからじゃ部屋しか行くとこ無いじゃないですか」
「そんな距離でも何があるか分からない世の中でしょう? ホラ、今朝のように」
「……」
朝のエレベーターの事を言っているみたいだった。確かに“アレ”も寄り道と言えば寄り道。
それを考えながら、結城さんの言葉を私はこっそり噛みしめる。
(何があるか分からない世の中、かぁ……)
色んなシーンでそういう言葉を聞く機会はあったけど、しみじみ体感する一日になるとはまさか思わなかった。体験の深さが、今日という日をこれまでになく濃厚にした感じ。長い一日だった……。
「花音さん、昼間私が言った事……覚えていますか?」
部屋の前でコンビニ袋を私に手渡すと、結城さんはそう聞いてきた。
「昼間?」見上げると、薄茶の瞳が真っ直ぐこちらに向いていてギクリとさせられる。
「ええと……」
「独りで何かを考えたいという時は、大抵誰かに側にいてもらいたいと思ってる時でもある……という話です」
「ああ……! 結城さん説ですね」
真剣な瞳の圧力が堪えられなくて、思わず目を逸らしながら私は笑っていた。
そういうモノだろうか? と昼間は曖昧に流していた結城さんの言葉も、今は胸にズンと響く重たさがある。
――それはつまり。
実感していた。やっぱりそういう事ってあるのかもしれないと、私自身が今感じてるのだ。家を出た時も、こうして帰ってくる間も、本当は私……そう思っていたのかもしれない。
「花音さんには、今日は独りになってもらいたくないんですよ。今夜は離さず朝までご一緒したい位です……。出来れば我が家で」
「は? えっ!?」
「うーん……。とはいえ、私もそこまで節操無い男には見られたくないですからね」
そこまでは遠慮しておきます、と結城さんは笑うけど、この人の事だから隙を見せたらどうなるか……。
(本当に……本当に何考えてんだ、この人!?)
つい一歩分距離を取ってしまう私。そんな私に結城さんは「困りましたねぇ」と肩をすくめた。
「私と居るのは、そこまで危険を感じることなんですか?」
「そういう訳じゃないですけど……」
(若干の貞操の危機を感じたりはします……)
――とか言える訳ない。返答には頬がひきつってしまった。
「だから。別に捕って喰おうなんて思ってませんよ、まだ」
「まだ!?」
「ああ……いえ。それはさておきですね」
(いやいやっ! “さておき”されていい問題じゃない気がする……!)
こちらの気も知らず自分の発言をいともあっさり流して。
「花音さん……私は」
結城さんは直後、悲しそうな困り顔を見せた。
まただ。変わり身の速さと、言葉と表情のアンバランス。この難解さにいつも惑わされるのだ。
そうと分かっていても心は揺らぐ。悲しげな彼の顔に胸が苦しくなる。
「これでも心配してるのです……私なりに。貴女はとても、過ぎる程、純粋だから」
「え……あの?」
「それがいつか、むなしい結果を招く事にならないか……と」
「……?」
はじめは何を言われているのかよく分からなかった。
私が純粋? それも過ぎるほど?
まさか! これでも結構図太い神経してるし、人並みに意地汚い感情を持つことも、そこそこ際どいネガティブさだって持つこともある。
過大評価じゃないか? それ。
複雑そうな表情をする結城さんに、私は首を傾げる事くらいしか出来なかった。
握りしめていたビニール袋。首を傾げた拍子にカサッと音を立てた。結城さんはそこへ目を向けて「偶然というのは」と続ける。
「偶然というのはですね、それこそ人間にはどうする事も出来ない要素でしょう?」
「……は、ぁ……」
「だからそれを悔やんだりしても、誰かが救われることは無いんです。何かが劇的に変わる訳でも無い」
「………」
「ねぇ、花音さん。馬鹿げていると思いませんか? 無駄な事に心を支配されるなんて」
結城さんの声は、低く冷たかった。
嘲笑を混ぜた声音が……なんだか怖い。
自分へ落とされた言葉が、何を言いたいのかが分かったから余計なのかもしれない。
さっき田所さんと交わした“多くを語らない会話”の時とは全く違う気持ちが、じわじわと胸に広がっていくのを感じた。
「貴女が例えあの場に居たとしても、必ずしも死ぬ運命にあったとは限らない。運悪く命を落とした方々も、あの場に居なかったからといって今日死なずに済んだとも限らない。分かりますか?」
私は、黙って頷いた。
今更、結城さんが今日のあの事故を知っている事を疑問に思う必要はなかった。
彼は知ってるんだもん。私のことは色々と。不思議だけど、そうなのだからしょうがない……。
「すべては偶然が重なった結果ではない、という事です。人の寿命や運命は、そう容易く偶然で決められるものじゃないんですよ」
「えぇ……」
「自分がかかわった偶然で誰かの人生を変えてしまった……なんて、おこがましい考えを。フフッ、花音さんてば愚かですね、全く」
「ですね……っえ!?」
鼻で笑う結城さんに驚き、俯いていた顔を上げた。
今、思いっきり馬鹿にされた……!?
「ですが、その愚かさも人間の味。貴女の魅力のひとつ」
嘲笑消え穏やかな笑み。結城さんは微笑むと、私の頭にぽん、と掌を乗せる。
その瞬間、私の心臓は大きく跳ねて、脳裏にはある場面が浮かんだ。それは、あの駅で見た光景。
――駅の柱に隠れる様にしていた結城さんと女性。彼は微笑んでいた。そして、優しく彼女の髪を撫でていた……。
ほんの少しだけ見えてしまった場面が、こんなに自分の中にこびり付いているとは思わなかった。
こびり付いたシーンは、私の胸をえぐる様にジワリと浮かび上がってくる。すると、私の心の中は途端に様々な感情で騒がしくなり、目の前で喋る結城さんの声も遠く聞こえた。
「私は良いと思いますよ。それは花音さんの優しさがそうさせているのだと思いますので。でも、あまり気に病まないでくださいね?」
走馬灯みたいに。と言ったら、大袈裟かもしれない。けれど、そんな感じで頭には浮かんだ。
事故現場の白い花。行く人達の視線。聞こえてくる噂話。
そして最後に、バイト先での朋絵のさりげない行動や、田所さんの態度。言いかけていた言葉は、今の結城さんときっと同じだったんだと思う……。
「そもそも、貴女が責任を感じる事ではないのですから」
自分だけが運良く不運を避けられて命拾いした事を、人知れず喜んでしまったという罪悪感は確かにずっとあった。
私はどこかで「それが普通で悪い事ではない」と肯定してもらいたかったのかもしれない。
だからこそ、結城さんのこの言葉に、田所さんとのやり取りに、救われた気がしてる。
本当なら、それで十分のはずなのだ。
なのに、この騒がしい心の中は落ち着かない。
……問題は別にあった。一日中引っかかってた罪悪感がせっかく払拭されたというのに、私のキモチは既に別のことで一杯になってるなんて――。
「花音さん……?」
ぽんぽん、と結城さんの手が私の頭を優しく、それこそ撫でる感じで軽く叩く。
でも、あくまでそれは「撫でる」とは別。
聞いているのかいないのか分からない相手に、アクションで反応を促してる……“そういうもの”なのだ。
――あの女性とは違う。
――扱いが違う。
それが、それが……。
(え……? あれ、何コレ。なんなんだろう)
自分の頬を伝う涙に私は自分で驚きながらも。
生温かいしずくで自覚していた。せざるを得なかった。
お腹の底から込み上げてくる不快感は、胸の中心で嫌な熱感を伴い私を内側から燃やそうとしている。
この感じ。私、知ってる。
(――嫉妬、だ……)
流す予定ではなかった涙は、ひとつ零れると、つられて二つ三つと落ちてきた。
「あ」と短く結城さん。「えっ」と焦って私。
しまった……! 調子乗り過ぎた!
「ち、ちちち違います! これは、……っ!?」
「涙ですね」
ひょいと長身を屈め、結城さんは私の顔を覗き込んでくる。私は慌てて掌でほっぺたを擦って、水分を消した。
「すみません。どうかお気になさらずに……」
そのまま顔をそむけ誤魔化そうとすると、頭の上に乗っていた結城さんの手が……
「ほう?」
私の頭を鷲掴む。「!?」一瞬、そう掴まれたかと思うほど強い圧迫を感じた。
「気にするな? 泣いてる貴女を前に、素知らぬ顔をしろと?」
「や。あの……」
心なしか結城さんの顔が、怖い。やっぱり手、力入ってない? 頭動かないんですけど!
「残念ながらそれは出来ませんよ、花音さん」
色素の薄い茶色の瞳は、廊下の蛍光灯の明かりを受けて益々薄茶に見えた。光の加減なのか、その瞳の真ん中にチラリと青い色も見えた気がして、この人はやはり純和風じゃないんだろうな……と思う。
こんな時になんだけど。
もしかして、こういう深芯の色が彼の目力の源なのかもしれないんじゃないかな? とか。
「私には出来ません」
と、真っ直ぐ私を見下ろす結城さんは呟くと、怖さを一転苦笑を浮かべ。スッと私から手を引いた。
大きな手が離れたほんの数秒。視線で思わず追ったそれは、またすぐ私に近づいてきた。近づいて、私をフッと通り過ぎ……。
「ゆ、……き、さん?」
「個人的に色々思うところがありますが」
「え?」
「でも、そういう事は今は関係ありませんね。とにかく考えるべきは。重なった偶然が花音さんを深く悲しませているという事……」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。頬に相手のぬくもり。ギュッと抱きしめられて。
まさか。……包まれる安心感がこんなに大きいものとは思わなかった。
「だから貴女は純粋すぎると言ってるんです」
「………」
「こんな……。こんなの」
苦しそうな声が続けて「放って置くなんて無理だ」と耳元で囁く。
「結城さん……!」
胸が締め付けられて苦しかった。安堵と切なさを同時に味わうと、涙は勝手に溢れてくるものらしい。それが何故かなんて分からない。
考える事も出来ずに私は、ただ結城さんにしがみ付いて声を押し殺し泣いた……。
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だけどあの日。いけないことだと分かっていながらも、営業成績のため、春風さんに嘘を吐いてしまった夜。春風さんとの関係は、無邪気なだけのものではなくなってしまう。
風のように突然現れて、一瞬で消えてしまった春風さん。
彼が僕に伝えたかったこととは……。
百合系サキュバス達に一目惚れされた
釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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