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『嫌なら抵抗を』
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しおりを挟む「お邪魔します……」
結局、鍵を取られ手を引っ張られ、半ば強引にお砂糖ごと結城宅へ連れて来られた私。
彼の行動は、部屋の電気を消すタイミングを逃すほどの素早さだった。
点けっぱなしの灯りが気になる所だけど、ここまで来てしまったらもうしょうがない。結城さんが誘いに来なかったらあのまま部屋で過ごしてたんだから……、と自分を言い聞かせながら靴を脱いだ。
「……うわぁ……やっぱり角部屋って広いんだ」
玄関の広さは大して変わらなかったけど、結城さん家は私の家と違いとても広い。
それもそのはず、間取りが全く違っていた。私の部屋は1DKで結城さんとこは2LDK。このマンションは、単身者向けとファミリー向け二つのタイプがある。
角部屋はファミリー向けで、結城さんが住むここがまさにそれだった。
「最後の仕上げをしてしまいますから、適当に寛いでいてくださいね」
振り向くと、カウンターキッチンから笑う結城さんがいた。
シャツをまくりエプロンをする姿は、まるでどこかのカフェにいるギャルソンだ。
こんなイケメンギャルソンがいたら、そのカフェは大盛況に違いない。
手早く作業する結城さんを横目で見ながら、私はふかふかのソファーに座った。
――それはそうとこの部屋。
無駄な家具はなく、きちんと片付いたリビング。洗練された調度品や空間に上手く配置した絵。
モデルルームみたいだ。
完璧過ぎるがゆえに、生活感がほとんど感じられない。
でもそれが何故か、結城さんとマッチしてる気がする……。
やっぱり不思議な人。一体ココでどんな生活してるんだろ。
「花音さん。お待たせしました」
居心地が良いのか悪いのかわからなくて、ずっとソファーの上で小さくなってた私。そこに、背後から急に声をかけられた。
驚いて肩を揺らす私が面白かったのか、結城さんがクスクスと笑う。
「借りてきた猫みたいですね。可愛いな、花音さんは」
耳元で低い声がそう囁いてきた。
「っな……!」
「あ。借りて来たんでしたね、実際」
猫じゃない。私は猫じゃない……
だから、
(猫を撫でるみたいに髪をいじらないでーーっ!)
結城さんの細長い指が髪をゆっくり梳いていく。
低い声は相変わらず色っぽく、私の耳と頬をギリギリで掠めていった。
これは、結城さんの専売特許なんだろうか……?
誰にでもこんな風に……?
もしそうだとしても、毎回こんな事されたら、馬鹿な私は彼の冗談を本気に取ってしまいそう。恋愛初級者には、上級者の“普通”は危険だ!
「ゆ、結城さん……距離ちか、近いっ!」
「ああ、失礼。つい」
結城さんは笑顔のまま体を離した。
茹でタコ状態の私は彼にどんな風に捉えられてる……? 考えただけで恥ずかしい。「こいつ、何勘違いしてんだ?」って思われてたら、とんでもなく恥じゃない……?
結城さんの作った食事は、鯖の味噌煮にほうれん草のお浸し、具沢山のお味噌汁……等など豪華和食のフルコースだった。
お洒落なお皿に盛り付けられた料理は、プロのお店に出してもおかしくない位の質。
料理は得意分野、という言葉にも納得した。
「結城さんって、料理人?」
「まさか」
「すっごい美味しいですよ! 感激ですっ」
夕方自宅に戻った時は、こんなに美味しいご飯にありつけるとは思ってなかった。ぼんやり考えた妄想が、ちょっと変わった形で実現されるなんて!
結城さんは執事じゃないけど……コックには近いものがあるかも、なんて。
「そんなに喜んでいただけるなんて……嬉しいです」
力を込めて言う私に、結城さんは、はにかんだ笑顔を見せた。
初めて見る顔――照れてる自分を見せない様に、少し俯いて……。
なんかそれだけで、こっちはドキッとしてしまう。胸がきゅうっと詰まる感じは、恋愛のそれに似てた。
うわ。これじゃあ余計意識しちゃうよ……。
この部屋に来た時は緊張と戸惑いでガチガチだったのに、食事を共にして何気ない世間話をしているうちにどちらも薄れてしまい。
挙句の果てには、相手が少しだけ見せた意外な顔にキュンとしてるとは……。なんとも単純だ、私って。
「またお誘いしても良いですか? 花音さんの喜ぶ顔、もっと見たいので……」
「え! ……あ、はい……」
照れる結城さんにつられ、何故か自分まで一緒に照れていた。
お見合いに挑んだ男女が時間と共に打ち解けてく……みたいな、妙に気恥ずかしい構図が頭に浮かぶ。
はたから見れば、初々しい雰囲気……?
ちょっとだけ相手を意識し始めて距離と気持ちを探り合う、恋愛初期段階に見られる“少し甘い空気”。
そんな空気を感じた気がして、私の心はふわふわ危なっかしく揺れた。
美味しい料理とこの雰囲気にすっかりのまれていたのだ。
彼の過剰な接近具合と静かな強引さが、控えめな照れ笑いで巧みに帳消しされてる事にも気付かずに……。
この人はどこまで完璧を貫き通すんだろう?
頭のてっぺんから爪先まで、全く隙が無さそうで。
ここまでパーフェクトな人間はそういない……。
改めて感じた結城さんの印象は、お金持ちで美麗紳士で完璧人間。万人の理想を全部カタチにしたような人だった。
まさかそんな人と、こんな普通のマンション生活で知り合う事になろうとは……世の中不思議なものだ。
いや、不思議なのはこの結城さんだけとも言えるかな。
「わ。こんな時間。私そろそろ……」
「お送りしますよ」
「送るって……隣りですよ? 十秒もしないで着いちゃう」
紳士的もここまでくると大袈裟だ。
ほっといたら本当に送ってくれそうな勢いだったので、私は笑って結城さんを止めた。
「でも花音さん、今日はもうお疲れでしょう? バイトが忙しくて大変だったと、さっきも仰ってましたし」
眉尻を下げて心配顔になる結城さんに、私は思わず吹き出してしまった。
確かに疲れているけれど、それは目の前の家まで送ってもらう理由には全然ならない。
車で移動しなきゃいけない距離でもあるまいし。
結城さん、面白すぎる。これじゃ紳士的というより……過保護だわ。
「私は『疲れて歩けないー!』って駄々こねる子供じゃないんですから~。大袈裟ですよ」
「そうですか……?」
「そうですよ。じゃ、結城さん 今日はご馳走様でした!」
席を立って挨拶。
玄関に向かう私へ「忘れ物です」と声がかかる。結城さんからホーローのポットと家の鍵を渡され、それを両手で受け取った。
そうだった。私、お砂糖ごとここに来たんだっけ。
二時間ほど前を思い出せば、強引だった展開に苦笑が漏れる。
引っ張られた腕、手際よく閉められた鍵。
あんな有無を言わさない状態にしなくても、私は誘いに乗ったかもしれないのに。
……どうしても来て貰いたかったって事?
結城さんも案外可愛らしい所があるじゃないか……と思った。
必死になったり、照れてみたり。完璧さの影に見えるごくごく普通の顔。
見れて良かったかも。
「あ、忘れるところでした」
「え?」
「花音さんにはお返しをしなくてはいけませんね」
「はい? お返し?」
「お砂糖と、花音さんのお時間をお借りしましたので」
「え!? いやいやいや、いいですよ、そんなお返しなんてっ」
どうもさっきから、結城さんの発言は大袈裟だ。
お返しって……ねぇ……。
お砂糖は確かにここにあるけど実際は使ってない訳だし(口実には使われたが)。
時間だって、「貸してあげた」というつもりなんか、さらさらない。
そりゃあ確かに「時間貸して下さい」って誘われたけど……。
でも……。
「貸したっていうより、私がお邪魔してるって感じじゃないですか? それに、美味しいご飯までご馳走になっちゃったし」
むしろ、お返ししなくちゃいけないのは、私の方かも~。
あははっ、と笑って言った。軽ーいノリで言った言葉。
受け止めた結城さんも「いえいえ、そんな」って笑って、はい解決!
……の予定だった。
少なくとも私の中では、そういう感じでいち早く解決してみた。
が、予定は大いに狂う。
私の言葉に、結城さんはクスッと笑った。確かに笑った。
だけど、その笑みは私が想像していたような穏やかなモノじゃなく。勿論、さっき見せた照れ笑いでもない。
「花音さん」
結城さんが長身を近付けてきたので、私は反射的に後ずさりした。
何かが違う。そう咄嗟に思ったのだ。
今、結城さんが口にした呼び声は……何だか危険な音がする……。
そう感じた私の体は、無意識の内にゆっくりと後退を続けた。
「やっぱり貴女は……警戒心がある様で無い、無防備な方なんですね」
低い声は凄艶を隠さない。
扇情的、官能的……そんな表現にぴったり当てはまる声音。
それを響かせながら、じりじりと長身が距離を詰めてくる。
あっという間に、私は壁際に追いつめられた。
「ゆ、結城さん……?」
「だから、狙われてしまうのですよ?」
「へっ!?」
「……最初に忠告してあげたのに。そんなに攫われたいんですか?」
壁に追いつめられた体は、結城さんの腕で囲まれる。
完全に退路を塞がれてしまった。そして至近距離。恐る恐る見上げ……私は絶句。
「それに……駄目ですよ花音さん。あまり迂闊な事を言っては」
鋭い光を放つ綺麗な瞳。
それはまるで捕食者の目で。
こんな目を向けられた方はたまらない。体が勝手に動かなくなる。
たちまち私の体は微動だに出来なくなった。
「言ってしまった言葉は取り消せないのですから」
フッと笑みを漏らす結城さんに、背中がぞくりと粟立つ。言葉と共に美麗な顔が間近に迫ったからだ。
「場合によっては大変な目にあいますよ?」
羞恥と緊張で、ポットを持つ手に汗が集まってくる。
過去最上級の艶美さをぶつけられて、私の頭はクラクラした。
「貴女からお返しを頂けるなら喜んで。良いですか? さっきの言葉、本気で受け取りますよ?」
囁く言葉に甘さを含ませて。結城さんは目の前で微笑む。
どくん、と心臓が引っくり返った。
ごとん、とポットが床に落ちる。
砂糖が床に広がって、私の胸には困惑と恐れと熱さが複雑に混じりどうしようもなくなってくる。
何これ……。こわい? こまる? まさか……
「花音さん」
壁についていた結城さんの左腕が腰に巻き付いてきた。必然的にお互いの体がくっついて、抱き寄せられる形になる。
(うわああああ! ちょっとまってぇぇ!!)
声にならない声が自分の頭に響き渡った。
どうしてこういう時って、人間声が出せなくなるんだ! 口を開いても全く音が出てこないっ!
「嫌なら抵抗を」
細い指先が、顎に触れてきた。
結城さんが少し力を加えるだけで、私の顔は簡単に数センチ上へ向く。必死に合わせない様にしていた視線がバッチリあってしまった。
でもそれは一瞬。
結城さんの視線は、すぐにちょっと下に向けられる。
何を見ているのかは聞かなくても分かった。
私だって何にも知らない子供な訳じゃない。ここまでの展開と結城さんが放出してる色気で、次に何が起こるか位大体の想像がつく。
この人は私の唇を見てる。つまり、キスをするつもりなんだ……!
「ゆうきさ……!」
「何故逃げないんですか?」
なぜ!? だって、こんな風に抱きしめられてる状態じゃ逃げられないでしょ!
結城さんの腕の中でもがく私。それをケロッとした顔で押さえる結城さん。
……男性の力に勝てる訳がない。私の動きは全く意味を成してなかった。
「それは、本当に抵抗してます?」
掌が頬を撫でる。艶やかな低音とあたたかな吐息が唇に近付いた直後、私の視界はピントが合わなくなった。
「んっ!?」
瞼も体も動かなくなり、私は目を見開いたまま硬直。
(え……え!?)
自分の目に映っているものは何か、なんて考えなくても、今唇に触れているものがすべてを物語る。
ふわり、とあたたかな温度。感触。
ゆるゆる中途半端な抵抗なんて当然意味を成す訳も無く、私は、いともあっさり結城さんに唇を許す事になっていた。
「……っ」
何度も角度を変え重ねられて。重なるごとに唇に熱が生まれ、でもすぐに彼のそれに奪われる。
決して深く侵攻しては来ない重ねるだけのキスなのに、まるで奥底まで入り込まれる様な不思議な感覚には、思わず気が遠くなった。
キスは初めてじゃない。だけど、こんな身体の芯を脅かされる様なキスは、初めての経験だ。
何なのだろう、これは。
何故かどうしようもなく胸が切なくて、でもそれに溺れそうになる――。
「……花音さん?」
やっと唇が解放された時には、私は本当に溺れかけた後みたいになっていた。
一気に抜ける力。呼吸が上手く出来ない。
クラクラする頭とフラフラする足では自分の身体を支え切れず、情けなくもその場にへたり込んでしまう。
「大丈夫ですか?」
頭上で結城さんの声がした。
まだボーっとする中顔を上げれば、そこには崩れ落ちた相手をとても冷静に見下ろす結城さんの姿が。
「あ……」
「立てます?」
さっきまであんなに甘ったるいキスをしていた人とは思えない、何ともあっさりした物言いに、私のぼんやりしていた意識はそこで驚異的な回復をみせた。
(な……なに? いまの……っ!)
いたって冷静顔の相手と寸前までしていた行為が、生々しく脳に甦ってきた。
芯をも溶かす、甘くて熱いキス――。
結城さんの表情に悪びれも照れも無いのが、こちらの羞恥を倍増させる。これでは、あのキスはイレギュラーケースじゃないと言ってるみたいじゃないか。
あくまで普通のこと、と。
(……普通……あれが?)
顔が、全身が、有り得ない位熱を持った瞬間。スッと差しのべられた、結城さんの綺麗な手。
嫌ではなかったけど、ほぼ条件反射で私の身体は逃げる様に後ろに傾いていた。
(え。 嫌じゃ、ない……?)
矛盾する自分のキモチは戸惑いを招く。
ほぼ強引に唇を奪われてしまったにも関わらず、私はまだこの人から本気で逃げる気が無い……とでもいうの?
「……ゆ、結城さん……」
「ほら。だから言ったでしょう? 送りますよ」
クスリと笑う瞳が、一瞬とても意地悪そうに見えたのは、気のせいだろうか?
それを確かめる間もなく、私は結城さんに床から引っ張り上げられた。
スリッパの足元が、散乱する砂糖のせいでじゃりつく。
不注意で(と言っても、半分は結城さんのせい!)汚してしまった事が気になり「どうしよう。やはりここは片付けなければ……」と思っていると、結城さんは優しい声音で、
「大丈夫ですよ」
と、言った。汚れた床は気にせずにと気遣ってくれる。
「ああ、それから……“こちら”は後日ちゃんとお返しします。それまではお借りして……」
そこまで言って、何が可笑しいのかクスクス笑い出す結城さん。
私は、自分が貸しておくのは砂糖なのかポットなのか、それともまた怪しい裏に導かれる様な“何か”を知らず貸しておくのか――。
確認しようとも、怖くて聞けなかった。
結城さんがひとり楽しげなのが、やたら気になる所なのに。
「……えっと……あの」
「花音さん、明日も朝からバイトでしょう? 土曜日なのに大変ですねぇ。長く引き留めてしまいましたから、ちょっと申し訳ない気がします」
肩を竦めて見せる長身のその姿。
結城さんの妖艶さは、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
今、目の前で控えめな微笑みを浮かべている彼は、どこからどう見ても気品溢れる紳士にしか見えず、数分前の“あの情熱さ”など全くもって見つからない。
ほんの一瞬見せた気がした意地悪な瞳なんて、尚更だ。
どこにも、ない。
だからと言って、私は最初に抱いていた様な、超紳士なイメージを結城さんに再び持つことは無いだろうと思っていた。
あまりにも、プラスアルファされたイメージが強烈過ぎるからだ。……色々と。
謎めく結城さんは、一体何者なのだろう?
何を考えている……?
愛想が良くて、物腰柔らかで、料理上手な美麗なる紳士。
しかし、その実……
出会ったばかりの隣人女子に、過度なちょっかいやら、極甘キスを仕掛けてくる様な危険人物。
そして、笑う。
優しく。妖艶に。さらには、動揺する相手を見て……楽しげに。
その笑みに潜めているのは、何なのか……。
自分の部屋に送ってもらった後、私は一人ウンウン唸りながら頭を抱え、延々考えまくっていた。
考え始めたらキリが無い。彼は、謎だらけだ。
でも……いや、だからこそ、どうしても気になってしまう……!
(どうして、こっちの明日の予定を知っているの!?)
そんなくだらないプチ情報なんて、話した覚え……無い。
超能力者? 千里眼?
どのみち……ただモンじゃない事だけは、確かだ。
マズイ。
何か妙な予感めいたモノを感じた。第六感は鋭い方じゃないけれど。
(もしかして、とんでもないお隣りさんが引っ越して来ちゃったんじゃ……!?)
何度も思いだしてしまう唇に僅か残る鮮烈な甘さと温度に悩まされながら、私は眠れない夜を明かした。
昨日までこっそり想像しちゃってた、『素敵なお隣りさんと恋の予感?』――なんて、麗しいドラマ。
しかし、どうやらそんな想像みたいに“オイシイハナシ”にはならない感じがヒシヒシとして……。
(これからどんな顔して会えばいいんだ……!)
明日からの日々が、ちょっと複雑だ。
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