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第36話 身代わりベータは執着アルファから逃げられない

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 自分は一生、誰からも愛されないと思っていた。

 新はベータの男だ。
 オメガが代々当主を務める中野家においては、政略結婚の駒にもできない役立たずでしかない。生まれたときから彼は、両親や拓海に溺愛される美しく華やかなオメガの兄、律の影だった。
 結婚相手ですら式の後の初めての夜、新をオメガである兄の身代わりとして、「律」と呼びながら抱いた――。



「新。どこに行くんだ?」
 その結婚相手ににじり寄られて、新は壁際に追い詰められていた。
 どこに。
 早朝、ベッドから出て行くところといったら、行き先は決まってるじゃないか。
「トイレです」
「トイレ」
「小用を足すだけ」
 直樹が寝起きとは思えない凛々しい顔で、重々しく頷いた。
「小用。それは手伝わなくては」
 新は呆然として配偶者のアルファを見上げた。この人は何を言っているんだろう。健常者の二十四歳の男が、小用を足すのにどんな手伝いがいるんだ。

 直樹の自分に対する愛を、今の新は疑っていない。
 運命の番である律の、濃厚なフェロモンにも屈することなく、直樹は新だけを愛していると告げてくれた。
 お互いに対する数々の誤解を解き、結ばれたときの歓びは忘れられない。直樹に跨ったまま、新が極まって射精する瞬間にも、アルファの眼差しには配偶者であるベータへの愛と賛美と欲情しかなかった。
 そういう濃密な愛の営みをしたからだろう、中野家の本宅でニューヨークから帰国した父と話したとき、自分がベータであっても、みんなから愛され、大切にされていると心から受け入れることができた。
 そんなにも愛しあっているのに、直樹の言動は時々理解できなくなる。
 アルファの性欲がベータより激しいことは知っているけれど、どうしてトイレについてきたがるんだろう。もしかしてトイレで新の体を洗浄して、またセックスしたいんだろうか。

「今日は仕事だから、もうセックスはできません。三連休明けなのできっと忙しくなる」
「違う。仕事があるのはわかってる。小用を足すんだろう? 早く行かないと」
 アナルセックスはできないとわかってくれたのか。でもそれならどうしてトイレについてきたがるんだろう。
「どうしたんだい、新。漏らすところを見てほしい?」
 漏らすって。なぜか背筋がゾクゾクした。そんなことするわけないのに、どうして自分はこんな言葉に興奮してしまうんだろう。
「直樹、そこを通してください」
「もちろん。さ、一緒に行こう」
 笑顔の夫が怖い。新は呆然として、彼に手を引かれるがままトイレに行った。

 直樹と新が使う主寝室は、トイレや浴室もついている。
 もちろんユニットバスじゃない。中野家の生まれである新は、社会人となって出張でビジネスホテルに泊まるまで、ユニットバスを見たことがなかった。この家のトイレはユニットバスではないけれど、一般の人が考えるトイレよりずっと広くて豪華で、何人かで入っても狭くはない。それでも普通トイレは、扉を閉めて一人で入るものだ。
 普通は。
 新は洋式トイレでは、周囲を汚さないよう便座に座って小用を足しているのに、直樹は勝手に便座を手ではね上げた。蓋は自動で開閉、便座もボタン操作で上げることができるのに、それすら待てないようだった。
「さあ、おしっこしようね」
 おしっこ。
 直樹の唇から、そんな卑語が出るなんて。
 洋式便器の前で尿意と困惑に立ち尽くしていると、「俺がさせてあげよう」と言われて背後に回られた。不意にパジャマのズボンを下着ごと引き下ろされて、新はひっと悲鳴を上げた。くぐもった笑い声。後ろから手を回され、性器を両手で握られた。
「新。おしっこだよ。しーっ」
「直樹」
 握られたペニスが便器に向けられた。新は我慢できなくて、しーっという擬音にあわせて腰を前に突き出し、尿意を解放した。じょぼじょぼと音を立てて、薄黄色のおしっこが勢いよく便器に放たれる。

 嫌だ。
 恥ずかしい。
 こんな。こんな。
 夫に陰茎を支えてもらって、後ろから覗き込まれながら小便をするなんて!
 
 セックスのあと喉が枯れて水を飲んだからか、寝ている間に体が冷えたせいか、小便はなかなか終わらなかった。
 新は呆然と、自分の尿が便器に吸い込まれていくのを見下ろした。 
 大量に排尿したせいで、特有の悪臭がトイレに立ち込める。尿道に残っていたおしっこまで出し切ったのを確認して、直樹は配偶者の陰茎を軽く上下に振った。

「まいったな。新のおしっこする姿がこんなにいやらしいとは思わなかった。舐めてもいいか?」

 新はぎょっとして夫を振り向くと、慌てて首を横に振った。なんてことを言うんだ、いいわけがない。直樹は残念そうにしながらも頷いた。
「まあそうだろうな。キスするときに抵抗があるだろうから」
「いや、そういう問題じゃない!」
 キスもだけど、それ以前に。
「汚いです」
「汚い? 結婚以来、何度も教えたつもりだが新に汚いところなんてどこにもないよ。どこもかしこも、何をしていても俺を誘惑する。ああ、新が用を足すところを見ていたら、俺もしたくなった」
 男らしい顔をくしゃっと照れ笑いにゆがめた直樹が、自分もズボンと下着を下ろす。新は急いで下着とパジャマのズボンを引き上げ、よろよろとトイレから出た。

「新に汚いところはないけれど、そんなに気になるなら私の手できれいに洗おう。マーキングもしないといけないからね」

 マーキング。なんのことだろう。
 わからない。
 自分の夫がわからない。
 怖い。

 直樹の、多くの人を惹きつける魅力的な笑顔。その瞳に浮かぶ執着心が恐ろしかった。
 父が母に、拓海が律にじりじりと焼き焦がすような眼差しを向けるのは、何回も見ている。だけど自分はベータの男で、アルファの男からそんな目で見られることはないはずなのに、父や拓海が番に向ける以上の感情を向けられている。
 扉を開けたままのせいで、恥ずかしい水音が響く。新は我慢できずに振り返った。
 そうして、立ち小便する夫の姿から目が離せなくなった。


 どうしよう。
 新は唾を飲み込んだ。まだ直樹から視線が外せない。喉がヒリついている。
 同性の立ち小便を見て興奮するなんて、想像したこともなかった。
(優れたアルファであればあるほど、独占欲は深くなる)
 今でも覚えている父の言葉。
 でもこんな! トイレにまでついてくるなんて異常だ。しかも直樹に感化されて、自分までおかしくなってきている……。

 悠々と排尿を終えた直樹が、丁寧に手を洗って新を見る。ずっと凝視していたことにはとっくに気づいているのだろう、うっすらと笑みを浮かべた。
 眼差しに情欲が揺らめいているのを見て、呼吸が早くなった。

「これでわかったね」
 優しく言われてもわからない。
「何を?」
「排泄は個室でしかしてはいけない」
「どうして!」

 喉に声が引っかかった。直樹が、聞き分けの悪い子どもを見るかのように、困った顔をする。

「どうしてって。配偶者の淫らな姿を、誰にも見せたくないからに決まってるだろう」

 淫ら。小便するだけなのに。
 言下に否定しようとして、さっきの直樹の立ち小便する姿を思いだした。腰を前に突き出し、赤黒いペニスを両手で支えて悠々と小便する姿。
 そう言えば以前尋ねられた。
(新は職場で排尿するとき、トイレの小便器を使っているのか)
 あのときは意味がわからなかった。でも今なら少しわかる。自分もこの人に小便器を使ってほしくない。あんな男らしい淫らな姿を他人に見せつけないでほしい。
 駄目だ。直樹を直視できない。
「どうしたんだ?」
 夫が追い詰めるように新を覗き込む。目が笑ってなかった。
「個室ですると約束できるか」
 できないと言いたい。くだらないと。たかがトイレだ。男の場合、小をするならみんな並んで小便器でする。
 そうだ、直樹は考えすぎだ!

「個室で、します」

 新の声は震えていた。
 直樹は、見惚れるほど晴れやかな笑みを浮かべた。
「わかってくれて嬉しいよ、新」
 怖い。
 この人の執着が、怖くてたまらない。
 初めて園遊会で会ったとき、この人に恋をした。中野家の息子じゃない、ちっぽけな少年に、初めて無償の優しさをくれた人。
 今は想いが叶っているのに、自分に向けてくる感情の重みに押しつぶされそうだ。

「それじゃあお風呂で新を洗って、マーキングしよう」

 優しい夫の言葉。
 理由はわからない、けれど、どんどん逃げ道を塞がれているような気がした。

「マーキング」
「ああ。新に俺のザーメンを全部飲んでもらう」

 大きく目を見開いた。

「だって。今から仕事に」
「だからだ。新の周りのアルファとオメガを牽制しなくてはいけない。亀頭球まで挿入してナマで中出しすると新の体に負担がかかるし、避妊具をつけてのセックスだと3回はしないといけないから、もっと新の体に負担が大きいだろう?」

 まるで、新のためを思っているかのような言葉。優秀なアルファは愛しいベータに近づくと、パジャマの上から新の萎えているペニスを軽く握ってもてあそんだ。

「本当は一歩も外に出したくないんだよ。でも新はベータ、それもとびきり優秀な男だ。その才能や自由を奪いたくないし、奪うべきじゃない。わかってる。わかっていても苦しいんだ。女とは一生セックスできないように、新のちんぽにピアスをしてしまいたい」

 ゾッとするような眼。新は息もできなかった。ふっと直樹が視線を和らげた。

「しないよ。できるわけがない、新の体に傷をつけるなんて」

 安堵に足元がふらつく。くつくつと夫が笑って体を支えてくれた。新は虚勢を張って言った。

「何回も言いますが、俺はベータの男です。兄さんと違って、一度ももてたことなんてない。俺なんかに手を出そうとする人はいません」
「お義父さんが言ってただろう、新を狙ってるものは男女問わず、バース性を問わずいくらでもいると。新は自分でわかってないだけで、信じられないぐらい魅力的なんだよ。私の心を、運命の番から奪い去ってしまうほどに」

 直樹が新の左手を取った。

「怖いんだ。新みたいな魅力的な配偶者を番にもできずに、いろんな人と出会う職場に送り出すのが。怖くて、恐ろしくて、たまらなくなる。なのに閉じ込めることもできない。ベータの新を家から出さずにいたら、羽をもがれた鳥のように衰弱してしまうというのも、わかっているんだ」

 新は信じられない思いで直樹を見上げた。
 自分だけが、直樹を他の女やオメガに奪われるのを恐れているんだと思っていた。直樹ほど優秀なアルファが怯えるなんて、想像もしていなかった。
 けれど、直樹の目にはたしかに怯えが潜んでいた。

「できれば明日からは、浴室でお漏らしする新も見たい」

 ぞくりと背筋が粟立つ。

「新の、恥ずかしい姿をすべて、私だけに見せてほしい。そしてマーキングさせてほしい。……愛してる」

 左手を持ち上げられ、結婚指輪の輝く薬指に、ゆっくりとキスされる。

 ああ。自分はもう、決してこのアルファから逃げることはできないんだ。
 不意に、その思いが全身を貫いた。番にできない、子どもも作れないベータを、優れたアルファが心の底から愛するというのは、こんなにも恐ろしいことなのか。
 恐ろしいのに新は幸せだった。直樹自身を狂わせかねない、新自身を壊しかねないほど深く愛されて、心の奥底から深い歓喜が湧き上がる。このまま直樹の愛に噛み砕かれて、バラバラになってしまいたい。でもきっとこの人は自分を噛み砕くことができずに泣くのだろう。可愛い人。木南直樹を可愛いと思えるのはきっと、世界にたった一人自分だけだ。
 直樹の太くて長い、赤黒いペニスを口に含むことを考えただけで、新の目は情欲に蕩けた。フェラチオをしたことがないから下手だとは思うけれど、愛する人の濃い精液を全部飲みたい。そうして自分の全ては直樹のものだとマーキングされてしまいたい。
 新は直樹に抱きつくと、「俺も、あなただけを愛してる」と囁いた。


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