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第31話 『運命』を超える
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「嘘だ……」
ありえないことを言われて、新はゆっくりと頭を左右に振った。
「だってさっき、あなたは言いましたよね。ベータの男である俺がどれほど直樹を愛しても、自分はお前を選ばないって」
あの言葉は忘れられない。心臓に氷柱を突き立てられたような冷たい痛みも、はっきり覚えている。直樹はハッとして新の両肩を掴んだ。
「違う!」
「違わないでしょう」
ふいっと顔を背ける新に、直樹は必死に視線を合わせようとした。
「本当に違う。あれは拓海のことだ。あの男は律を愛してる、新を選ぶことはないと言いたかった」
「ずっと拓海を睨みつけていた」
「新の好きな相手が、あいつだと思っていたからだ。だいたいなんだあの態度は。新にあんなに心配してもらいながら、冷たい態度をとって」
「拓海は戦闘モードに入ったら、いつもあんな感じです。もう慣れてる」
直樹がううと唸る。もしかしてほんとに、俺が好きなのは拓海だと勘違いして、拓海を睨みつけていたんだろうか。
「さっきも言いましたけど、俺が拓海を好きだなんて馬鹿げた妄想、どこから湧いてでたんですか」
馬鹿げた妄想というひどい言い方に、直樹は酸っぱすぎる梅干しを食べた顔で釈明した。
「新は、自分が好きなのはアルファの男だと言っていただろう? それにやたらあの男を庇うし褒めるじゃないか」
「だって、直樹はアルファ男性でしょう。拓海のことは、庇ったり褒めてるつもりはありません。俺にとってはもう一人の兄というか親友みたいなやつです」
「そして、初めてこの家に来た夜に、本当に好きな相手とは結婚できないって言った」
新はちらりと直樹を上目遣いに見上げた。その愛らしい表情に、直樹は声に出さずに呻いた。新は直樹の内心には気づかず、少し口を尖らせて拗ねたように言った。
「だって俺が好きなのは、今、結婚しているあなただから。あなたに捨てられて離婚したら、好きな人とは結婚できないじゃないですか」
「捨てる⁉ あり得ない。俺が愛しているのは新だけだ」
「……でも律は運命の番ですよね」
「それを言うならお前の兄だって、拓海とかいうアルファを選んだだろう」
あ。
……そのとおりだ。
新は呆然と夫を見上げた。直樹の顔は真剣だった。
「運命の番は、互いにフェロモンで惹かれ合い、相思相愛になるという。確かに律のフェロモンは凄かった。これまであんなふうに、強制的にラットにさせられたことはない。だが発情が愛だと言うなら、俺の思いは、感情は、積み重ねてきた時間や絆はどこに行くんだ。たかが微量の化学物質に、俺の新への想いが捻じ曲げられるなんて、そんなことあってたまるか!」
たかが。
その言葉に込められた重み。
運命の番をあえて手放した直樹の言葉は、狂おしいほど激しかった。
「初めて会ったとき好ましいと思ったのも、結婚して肌を合わせたのも、一緒に過ごすうち恋に落ちたのも、みんな新だ。律じゃない」
「でも、運命の番が発するフェロモンには逆らえないって」
「発情はさせられた。だが俺も律も逆らった。俺たちは人間なんだ、フェロモンがなんだ。そんなものに屈しないための抑制剤じゃないか」
「だけど……だけど! 運命の番の恋は本物だって聞きました。相性も最高だし、優秀な子どもが生まれると」
「律と寝る気はないから、相性なんぞ知らん。さっき新は俺を好きだと言ってくれた。けれど、お前と俺とのあいだには子どもができない。たったそれだけのことで、お前の想いは偽物なのか?」
違う。新は首を振った。
俺は偽物のガラス玉かもしれないけれど、この気持ちだけは本物だ。
「偽物じゃない。あなたを愛してる。律の名前を呼びながらでも、してもらえただけで」
それ以上強がりは言えなかった。再び涙がこぼれる。本当は自分の名前を呼んでほしかった。でも初めてのときに直樹が呼んだのは兄の名前だった。新の涙を見た途端、その夫は哀れなぐらい狼狽した。
「違うんだ、新! 初めてのときは番を奪われた仕返しをしてやろうと思って、わざと律の名前を呼んだ。律の身代わりとして抱いたわけじゃない。本当だ」
痛いほどベータを強く抱きしめるアルファの身体が、小さく震えている。
「性欲を解消したいだけなら、女やオメガを抱いている。だが新と結婚して、お前に夢中になってしまった。ベータの、男の体に溺れたことを自分が認められなかったんだ。二人で新婚旅行に行って、帰国して我が家に来てもらうようになって、過ごせば過ごすほど好きになった。新の体を洗うのは俺だけの特権にさせてくれ。他の人間がお前とセックスするなんて耐えられない、絶対に相手を殺してしまう」
いつも傲岸不遜なアルファが、まるで怯えた子どものように新に縋った。
「頼む。俺と一からやり直してくれ。新の好きなもの、嫌いなもの、何が楽しくて何が悲しいか、すべて教えて分かちあわせてくれ」
「直樹が、好き」
小さく囁くと噛みつくようにキスされる。初夜のときにされたのと同じ、と思ったが、それはすぐに官能をかきたてるものへと変わった。
大きな舌で口腔の中すべてを舐め回され、舌を吸い上げられて頭がくらくらする。崩れ落ちそうになる身体を、今夜は優しく抱き締められた。
「俺も新が好きだ。今日、律を見てはっきりわかった。俺が欲しいのは新だけだ」
「直樹が、欲しい」
情欲に新の声はかすれた。
ありえないことを言われて、新はゆっくりと頭を左右に振った。
「だってさっき、あなたは言いましたよね。ベータの男である俺がどれほど直樹を愛しても、自分はお前を選ばないって」
あの言葉は忘れられない。心臓に氷柱を突き立てられたような冷たい痛みも、はっきり覚えている。直樹はハッとして新の両肩を掴んだ。
「違う!」
「違わないでしょう」
ふいっと顔を背ける新に、直樹は必死に視線を合わせようとした。
「本当に違う。あれは拓海のことだ。あの男は律を愛してる、新を選ぶことはないと言いたかった」
「ずっと拓海を睨みつけていた」
「新の好きな相手が、あいつだと思っていたからだ。だいたいなんだあの態度は。新にあんなに心配してもらいながら、冷たい態度をとって」
「拓海は戦闘モードに入ったら、いつもあんな感じです。もう慣れてる」
直樹がううと唸る。もしかしてほんとに、俺が好きなのは拓海だと勘違いして、拓海を睨みつけていたんだろうか。
「さっきも言いましたけど、俺が拓海を好きだなんて馬鹿げた妄想、どこから湧いてでたんですか」
馬鹿げた妄想というひどい言い方に、直樹は酸っぱすぎる梅干しを食べた顔で釈明した。
「新は、自分が好きなのはアルファの男だと言っていただろう? それにやたらあの男を庇うし褒めるじゃないか」
「だって、直樹はアルファ男性でしょう。拓海のことは、庇ったり褒めてるつもりはありません。俺にとってはもう一人の兄というか親友みたいなやつです」
「そして、初めてこの家に来た夜に、本当に好きな相手とは結婚できないって言った」
新はちらりと直樹を上目遣いに見上げた。その愛らしい表情に、直樹は声に出さずに呻いた。新は直樹の内心には気づかず、少し口を尖らせて拗ねたように言った。
「だって俺が好きなのは、今、結婚しているあなただから。あなたに捨てられて離婚したら、好きな人とは結婚できないじゃないですか」
「捨てる⁉ あり得ない。俺が愛しているのは新だけだ」
「……でも律は運命の番ですよね」
「それを言うならお前の兄だって、拓海とかいうアルファを選んだだろう」
あ。
……そのとおりだ。
新は呆然と夫を見上げた。直樹の顔は真剣だった。
「運命の番は、互いにフェロモンで惹かれ合い、相思相愛になるという。確かに律のフェロモンは凄かった。これまであんなふうに、強制的にラットにさせられたことはない。だが発情が愛だと言うなら、俺の思いは、感情は、積み重ねてきた時間や絆はどこに行くんだ。たかが微量の化学物質に、俺の新への想いが捻じ曲げられるなんて、そんなことあってたまるか!」
たかが。
その言葉に込められた重み。
運命の番をあえて手放した直樹の言葉は、狂おしいほど激しかった。
「初めて会ったとき好ましいと思ったのも、結婚して肌を合わせたのも、一緒に過ごすうち恋に落ちたのも、みんな新だ。律じゃない」
「でも、運命の番が発するフェロモンには逆らえないって」
「発情はさせられた。だが俺も律も逆らった。俺たちは人間なんだ、フェロモンがなんだ。そんなものに屈しないための抑制剤じゃないか」
「だけど……だけど! 運命の番の恋は本物だって聞きました。相性も最高だし、優秀な子どもが生まれると」
「律と寝る気はないから、相性なんぞ知らん。さっき新は俺を好きだと言ってくれた。けれど、お前と俺とのあいだには子どもができない。たったそれだけのことで、お前の想いは偽物なのか?」
違う。新は首を振った。
俺は偽物のガラス玉かもしれないけれど、この気持ちだけは本物だ。
「偽物じゃない。あなたを愛してる。律の名前を呼びながらでも、してもらえただけで」
それ以上強がりは言えなかった。再び涙がこぼれる。本当は自分の名前を呼んでほしかった。でも初めてのときに直樹が呼んだのは兄の名前だった。新の涙を見た途端、その夫は哀れなぐらい狼狽した。
「違うんだ、新! 初めてのときは番を奪われた仕返しをしてやろうと思って、わざと律の名前を呼んだ。律の身代わりとして抱いたわけじゃない。本当だ」
痛いほどベータを強く抱きしめるアルファの身体が、小さく震えている。
「性欲を解消したいだけなら、女やオメガを抱いている。だが新と結婚して、お前に夢中になってしまった。ベータの、男の体に溺れたことを自分が認められなかったんだ。二人で新婚旅行に行って、帰国して我が家に来てもらうようになって、過ごせば過ごすほど好きになった。新の体を洗うのは俺だけの特権にさせてくれ。他の人間がお前とセックスするなんて耐えられない、絶対に相手を殺してしまう」
いつも傲岸不遜なアルファが、まるで怯えた子どものように新に縋った。
「頼む。俺と一からやり直してくれ。新の好きなもの、嫌いなもの、何が楽しくて何が悲しいか、すべて教えて分かちあわせてくれ」
「直樹が、好き」
小さく囁くと噛みつくようにキスされる。初夜のときにされたのと同じ、と思ったが、それはすぐに官能をかきたてるものへと変わった。
大きな舌で口腔の中すべてを舐め回され、舌を吸い上げられて頭がくらくらする。崩れ落ちそうになる身体を、今夜は優しく抱き締められた。
「俺も新が好きだ。今日、律を見てはっきりわかった。俺が欲しいのは新だけだ」
「直樹が、欲しい」
情欲に新の声はかすれた。
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