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第28話 とどめの一撃

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「お帰りなさいませ、旦那様」
 門の内側で待っていたのは緊張した面持ちの執事の松井と、警護チームのチーフ、そして拓海を搬送するためのストレッチャーだった。
「大丈夫だ、歩ける」
 顔色が真っ青なのに拓海は搬送を拒否した。自分たちを追ってきた人数と武装を警護チームのチーフに伝えて、邸内の救護室まで自分で歩く。律と新はその傍らに付き添った。
 銃創に直接圧迫して止血し、さらに止血帯でも止血していたため、出血量は比較的少なかったが、ガーゼを剥がした途端、律と新が吐き気を催すほど血生臭いにおいが立ち上った。
「ひどい……」
 律が呻く。
「麻酔はせずに縫ってくれ」
 拓海の言葉に新は「そんなの無理だ」と叫んだけれど、「いざというときに戦えないほうが困る」とぴしゃりと言われて黙り込んだ。
「受傷後に生理食塩水で洗浄してあるね。化膿してないのは抗生剤軟膏を塗布済みかな」
「はい。いざというときのために、応急手当の知識と技術は身につけています。けれどこの傷は自分では縫合できなかった」
 だろうねと頷いて、医師と看護師が手早く処置していく。血と消毒液の臭いだけで気分が悪くなって、新も律もその光景を直視できなかった。
 麻酔なしで縫合されながら、拓海は呻き声一つあげない。
 直樹は少し離れた位置に立ち、時折、拓海に質問しながら伝手を総動員して各所に連絡を取っている。
 その、眼差し。
 彼が拓海に向ける眼差しには、アルファ同士の敵愾心を越えた嫉妬と憎しみが揺らいでいる。新はそんな直樹から、そっと目をそらして苦痛に耐えた。

(やっぱり、こうなってしまった……)
 新の心に押し寄せるのは、哀しみよりも諦めだった。
(こういう結末を迎えるのはわかってたじゃないか)
 そうだ。兄の身代わりとして結婚すると決意したときから、直樹が自分にふさわしいオメガと出会ったら、新のことなんて忘れてしまうことはわかっていた。そんなことすべて覚悟の上で結婚した。
(わかってたのに、どうしてこんなにつらいんだろう)
 自分を憎み嫌っていた初夜でさえ、この人は優しかった。婚姻を無効にしないためのセックスなのに、気持ち悪いはずの男の体を丁寧に抱いて気持ち良くしてくれた。
 翌朝も声が出ない自分のためにペットボトルの水を取ってきてくれたし、新婚旅行もずっと一緒に過ごしてくれた。
 帰国したらもう会えないのかと思っていたのに、毎週迎えに来てくれて……。
(俺のことを恋人候補として、見てもらえないだろうか)
(新は……とても綺麗だ)
(俺と恋人になってくれ)
 思い出すのは楽しかった記憶ばかりだ。この人を嫌いになれたらよかったのに、過ごせば過ごすほど好きになるばかりだった。
 どんなに好きになっても、報われないって知っていたのに。

 やっぱり直樹が選んだのは、兄だった。
 
 新は受け入れがたいその事実を、受け入れるしかなかった。
 仕方がないと思う。だって、さっきのヒートを起こした時の兄は、抗いがたいほど魅惑的だった。運命の番であるオメガに、魂を奪われないアルファはいない。直樹も律のフェロモンにあてられて、ラットになりかけていた。彼が踏みとどまれたのは、あそこが誰でも出入りできるマンションのエントランスロビーだったからにすぎない。
 治療が終わっても、直樹はずっと拓海を睨みつけている。そんなにも自分の運命の番を奪ったアルファが憎くて、妬ましくてならないんだ。
 新は夫にかける言葉がなかった。

「忠彦氏と連絡がついた。彼はいまニューヨークにいる」
 直樹に呼ばれて、新と律と拓海は書斎に移動した。14時間の時差のせいで、向こうは朝だ。パソコンの画面越しに会う父は、息子が中国マフィアに狙われているというのに、泰然自若として落ち着いていた。
「律を狙う誘拐組織は私のほうで手を打とう。警察庁上層部にも話は通しておく」
 パソコン付属のカメラの前に律が移動し、真剣な顔で父に呼びかける。
「父さん、ネックガードの暗証番号を教えてください」
 父は面白そうに、律と直樹と拓海、そして新を見やった。
「みんなの前で言っていいのか?」
「はい」
 さらにまだ言おうとする兄の言葉を、父は手を挙げて遮ると、12桁の暗証番号を口にした。直樹と拓海の眼差しが交錯する。
「これからすぐに帰国する。着いたらまた連絡する」
 父がそう告げて通話が切れると、書斎はしんと静まり返った。
「木南さん、俺は」
 何事か話そうとする律と直樹の間に、新は割って入った。
「拓海、兄さんを連れていけ。さっさと番の契約を結ぶんだ」
 振り返るまでもなかった。拓海が律を連れて書斎を出たのが、扉の閉まる音でわかった。
「どういうつもりだ。新」
 目の前で、命より大切な運命の番が他のアルファに攫われていったというのに、直樹は動かなかった。燃え盛る炎のような瞳は、ただ新だけを見ている。

 愛してる。
 あなたが俺を憎んでも、嫌っても、ずっとあなたを愛していた。きっと自分はこれからも、家のために他のアルファと結婚しても、直樹しか愛せないのだと思う。

 直樹と過ごした短い時間でできた、たくさんの思い出が、新に勇気をくれた。大きく深呼吸する。怒りに燃えるアルファの前に立ち塞がるのは、自殺行為だ。それでも、直樹を兄のもとに行かせるわけにはいかなかった。

「お願いです。あの二人を見逃してください。兄の運命の番はあなたです。それは律だってわかってるんです。だけど、兄さんは拓海を愛してる。ずっと、ずっと昔から」

 律が真っ赤な顔をして、拓海が好きなんだと相談してくれた日のことを、新は今でも覚えている。家の発展のことを思えば、アルファとはいえ律の側仕えにすぎない拓海は、政略結婚の駒である律の結婚相手にふさわしくない。
 両親の意向に背くとわかっていて、兄の恋を後押しし、二人の駆け落ちに手を貸したのは、心の奥底にずっと隠していた浅ましい願いを実現するためだ。

「だから律のことは諦めて。俺が身代わりにでもなんにでもなる。あなたの性欲の捌け口として使ってもらっていい。だから!」

「新。お前はベータで、しかも男だ。お前がどんなに相手のことを愛しても、アルファの男がお前を選ぶと思っているのか」

 静かなその言葉が、新の直樹への想いにとどめを刺した。
 

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