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第26話 暗転

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 直樹の運転する高級車が、滑るように新の住む豪華なタワーマンションのゲスト用地下駐車場に入っていく。入社してまだ二年の新の給与には分不相応な住まいだが、父親から「セキュリティのしっかりしたところに住んでくれ」と言われて買い与えられたものだ。

 アルファで、中野グループの総帥を務める父は、新にとっては遠い存在だった。傘下に数多くの関連企業を有する中野グループを繁栄させてきた中野忠彦は、『経済界の怪物』と畏怖されるほど経営の才覚がある。中野家の家長でありながら外に出ることのない柊の代わりに、対外的な折衝も全てこなしていて、さらに柊の発情期には部屋から出ないため、新の記憶にある限り、休日も返上して朝早くから夜遅くまで働いている。
 ベータの新がそんな多忙な父と一緒に過ごせる時間は少なかったけれど、父の愛情を疑ったことはない。家族の身の安全には人一倍敏感で、護衛として必ず拓海を傍につけてくれていた。新が一人で海外留学したときには現地のボディガードを雇ってつけてくれたし、こうして独り立ちしたときも犯罪に巻き込まれないよう、防犯性の高い住まいを用意してくれた。本当に愛されてるなと思う。

「凄いところに住んでいる」
 直樹の言葉に、新は反射的に言い訳しようとした。
「収入に見合わない暮らしをしていると思うんでしょう?」
「いや。ここに住んでるなら安心できると思った」
 駐車場につけられた何台もの防犯カメラを、彼が真剣な表情で確認する様子に、ほっと息をついた。
「はい。中野家の人間だと知られて、国際的な犯罪組織に狙われたことがあるので、俺が独り立ちして実家を出る時、父が密かにここを買ってくれました」
「正しい判断だ。狙われたって、前にも言っていたな。身代金目的の誘拐か」
「ええ。兄の場合は特に。中野家家長の配偶者になろうと、強姦を目論むものも多い」
 拓海がいなかったら、自分たち兄弟はどうなっていただろう。黙り込む新に、夫が話しかける。
「俺にも新を守らせてほしい」
「はい」
 直樹の言葉に、新とずっと共に生きていきたいという意志を汲み取って、胸が熱くなる。「一階のエントランスロビーで待ってます」と言って、新は車から降りた。
 直樹の車がコンビニ目指して出ていくのをじっと見送る。気づくと不安と焦りで手のひらに汗をかいていた。

 急がなくてはいけないと思った。
 『彼』が戻ってくる前に、直樹と深い関係を築いておかなくてはならない。直樹は今、本気で自分を好きになりかけてくれている。アルファとベータであっても、愛情と信頼に基づいた結婚生活は築けるはずだ。
 幸せな結婚生活が無理でも、せめて直樹の全てを体に刻みつけておきたい。

 悲壮な覚悟を表情には出さず、エレベーターでコンシェルジュの常駐するエントランスロビーに上がる。
 ロビーに足を踏み入れた瞬間、ゾワッと寒気がした。

「新!」

 二度と会わないはずの相手を見て、足元の地面が消えたような気がした。
 オメガである兄、律が立っている。男なのに、相変わらず過剰に華やかで美しかった。その顔は今は蒼白になっている。
 どうして兄がこんなところに。
 兄の後ろには拓海が控えていた。律と同い年の、親友で、下僕で、護衛で、想い人であるアルファだ。彼がついていながらどうして! そのときになってようやく、新は拓海の左腕に血の滲んだ包帯が巻かれているのに気づいた。
 新は律と拓海に走り寄って、早口で尋ねた。
「どうしたんだ兄さん、うちに来るなんて。それに拓海のその腕」
「新、助けてくれ。中国マフィアに誘拐されかけて、拓海が撃たれた」
「撃たれた?」
 呆然として言葉を繰り返した。
「銃で」
 そんなのって。新は真っ青になった。泣きそうに顔を歪めた律が、弟にしがみつく。
「父さんと連絡が取れないんだ。本家に向かったら待ち伏せの可能性があるからここに来た。ここは家族以外、誰も知らないだろう?」
 ドクン。心臓が不気味に拍動した。
 誰も知らない?
 結婚するまではそうだった。今は木南家の執事の松井と、もう一人、絶対にこの場に来てほしくない人がここを知っている。
「頼む、かくまってほしい。拓海はこの怪我で戦えないし、このネックガードのせいでまだ拓海と番の契約ができてない。今、アルファに捕まってネックガードを破壊され、うなじを噛まれたら終わりなんだ」
 そんな!
 新が悲鳴を上げる前に、カツンと革靴の音が響いた。足音だけで、誰かわかってしまった。

 最悪だ。

 新は『夫』を振り返った。
 似合わないコンビニ袋をぶら下げた直樹が、新たち3人を見ていた。
 全くの無表情。

「律」

 彼がその名を呟いた途端、兄の、律の身体から甘く濃密なフェロモンが香り立った。



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