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第19話 アルファの巣に連れ込まれたベータ(10)
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直樹はしばらく何も言わなかった。新は無言で、目の前にある配偶者の表情を見守った。驚き、悲しみ、苦しみ。様々な感情が男らしい顔に浮かんでは消え、やがてそれらは無表情へと収斂していった。
「そうか」
直樹が口に出したのはその一言だった。けれど新は言い募らずにいられなかった。
「あなたを嫌いになったわけじゃないです。その、無理をさせられたからとか、そういうんじゃない」
「わかってる。新から寝室に行きたいと誘われて、一人で浮かれていた。これまでしてきたことを考えれば、そう簡単に好きになってもらえるわけがない」
新は唇を噛んだ。違うんだ、そうじゃなくて。
これを言うべきかどうかしばらく悩んだけれど、心を決めて語ることにした。
「俺は、あるアルファ男性に恋をしたとき、一番身近にいるアルファ男性である父に相談しました。この気持ちに望みはあるだろうかと。父は『無理だ、子がなせない』と即答しました。今、あなたは俺に少しは好意を抱いてくれている。それは、あなたが自分にふさわしいオメガに出会ってないからです」
「違う!」
悲鳴のような否定に、新は寂しげに微笑んだ。
「俺は中野家の人間だからわかってる。あなたは、兄と同じぐらいフェロモン適合率の高いオメガに出会ったら、俺のことなんて頭から消えます。アルファとはそういう生き物です」
直樹の顔が愕然とした表情に変わる。新は手を伸ばして、自分の愛する相手の頬を撫でた。
「そんな顔をしないでください。俺はちゃんと自分がベータであることも、アルファから選ばれることはないってことも、わかってます」
「新」
「だから明日の、日曜の昼には自宅に帰らないといけない。家の掃除をしないといけないし、買い物に行って作り置きの料理を作っておかないといけないから。夜まであなたに抱かれていたら、翌日出勤できなくなる。あなたが働いているように、俺も仕事をしていることをわかってください。中野家からもあなたからも、金銭的援助を受けずに生きていきたいんです」
「俺は……お前を、俺無しでは生きていけない体にしたい」
彼が本気なのは間違いなかった。まるで子どもみたいだ。後先考えない言葉に笑いそうになった。
「駄目です。そんなことをされたら、あなたに捨てられたあとどうしたらいいんですか。……俺はベータです。あなたがいなくなっても生きていける」
直樹なしでは生きていけないオメガになりたかった。うなじを噛んでもらって、彼の番になって、彼の子どもを産んで、ずっと彼と共に暮らしたかった。
直樹はしばらく無言だった。薄闇の中でじっと新を見つめている。新は空気を変えたくて、どうでもいいことを楽しそうに話した。
「自炊ぐらい毎日しろって思ってるんでしょう? 月曜からグループ企業間のウェブ会議用資料を用意しないといけなくて、残業続きになりそうなんです」
「作り置きの料理は、うちの料理人が作ったものを持ち帰ってくれないか。一緒に暮らせなくても、新と同じものを食べていると思えば、少しは心が慰められる」
直樹と離れていても同じ料理が食べられる。その提案は新の心を温めた。
「うん。俺も直樹と同じ食事ができるのは嬉しいです」
「職場では結婚指輪は外すのか」
「はい。相手があなたであることを知られたら、俺の正体もバレてしまう。危険は冒せません」
「それならフェロモン漬けにすることもできないじゃないか」
新はおかしくて悲しくてやりきれなくて、泣き笑いした。
「もちろん駄目です。当たり前でしょう、旅行先ならともかく、職場では結婚していることも俺が中野家の次男であることも知られるわけにはいかないんですよ」
どちらも何も言わなかった。しばらくして直樹はベッドから体を起こした。
「拓海という男の写真を見せてもらえないか」
俺が意のままにならないから、兄と拓海の行方を追うつもりなんだ。新は真っ青になって起き上がろうとした。
「嫌です。お願い、あの二人のことは追わないでください」
「違う。拓海というやつの顔を拝んでみたいだけだ。データを寄越せとは言わない」
新は直樹をじっと見たが、嘘を言っている様子はなかった。追手をかけるわけじゃないなら、顔写真を見せるぐらいはいいだろうか。わかりましたと頷くと、起き上がれない新の代わりに、直樹が新の携帯端末を取ってきた。新は渋々画面ロックを解いて、拓海だけが写ってる写真を探した。直樹には兄の写真を見せたくない。そうなると必然的に護衛のときではなく、拓海が戦闘訓練を受けている時の動画ぐらいしかなかった。棒術のフォームの確認のために撮ってくれと頼まれたときのものだ。
「どうぞ」
長い棒を構えた拓海が、自分を取り囲む棒を持った複数の男たちに打ちかかられて、華麗な体捌きで次々に打ち倒していく。贔屓目抜きで、戦っているときの拓海は美しかった。野性的な整った顔立ち、無駄な贅肉なんて欠片もない鍛え上げられた長身、決して敵を見逃さない鋭い眼差しも、敵に相対したときの気迫もさることながら、存在そのものが見惚れるほどに美しい。拓海を取り囲む男たちも決して素人ではない、むしろかなりの達人と思われるアルファたちなのに、速さも動作のキレも何もかもが違いすぎて、短時間で勝負はついた。地面に打ち倒されて呻く男たちのなかで、拓海一人だけ息も乱さずに立っている。その眼差しが新のスマホのカメラを捉えたところで、動画は終了した。
見終わっても直樹は無言だった。
ああやっぱり拓海は凄い! 新は笑顔で語った。
「強いでしょう、拓海は。スポーツをしたらいい、絶対有名になるって兄さんとだいぶん勧めたんだけど、『俺は無名のままでいい。お前たち兄弟の傍にいて、二人を守るのが俺の歓びだ』と言って、ずっと護衛を務めてくれたんです。だから中学生のとき、俺が何人ものアルファに追い詰められたときも、彼なら絶対に助けてくれるって」
「俺は嫌いだ」
新の言葉をぶった切って直樹が断言する。新は目をぱちぱちさせた。直樹は拓海の画像を凝視しながら、唇をひん曲げた。
「こういうアルファは自分の愛する相手以外は目に入らない。そして自分の邪魔をするやつは全力で排除しようとする。ろくな人間じゃない」
「俺の大事な人間をそんなふうに言わないでください」
血は繋がってないけれど兄同然の存在で、親友でもある拓海を貶されて、新は我慢できずに抗議した。直樹はぐっと言葉に詰まった。
「いや、しかし」
「愛する番を手に入れるためならどんなことでもできるのって、優れたアルファの条件じゃないですか。それをろくな人間じゃないなんて言わないでほしい。直樹はどうして拓海を悪く言うの。恋人候補になりたいって言うけど、やっぱり俺じゃなく兄さんのほうがいいから、兄と駆け落ちした拓海が憎いんでしょう?」
そうだ。きっとそうに違いない。
新は泣きたい気持ちをこらえて言い切った。
「そうか」
直樹が口に出したのはその一言だった。けれど新は言い募らずにいられなかった。
「あなたを嫌いになったわけじゃないです。その、無理をさせられたからとか、そういうんじゃない」
「わかってる。新から寝室に行きたいと誘われて、一人で浮かれていた。これまでしてきたことを考えれば、そう簡単に好きになってもらえるわけがない」
新は唇を噛んだ。違うんだ、そうじゃなくて。
これを言うべきかどうかしばらく悩んだけれど、心を決めて語ることにした。
「俺は、あるアルファ男性に恋をしたとき、一番身近にいるアルファ男性である父に相談しました。この気持ちに望みはあるだろうかと。父は『無理だ、子がなせない』と即答しました。今、あなたは俺に少しは好意を抱いてくれている。それは、あなたが自分にふさわしいオメガに出会ってないからです」
「違う!」
悲鳴のような否定に、新は寂しげに微笑んだ。
「俺は中野家の人間だからわかってる。あなたは、兄と同じぐらいフェロモン適合率の高いオメガに出会ったら、俺のことなんて頭から消えます。アルファとはそういう生き物です」
直樹の顔が愕然とした表情に変わる。新は手を伸ばして、自分の愛する相手の頬を撫でた。
「そんな顔をしないでください。俺はちゃんと自分がベータであることも、アルファから選ばれることはないってことも、わかってます」
「新」
「だから明日の、日曜の昼には自宅に帰らないといけない。家の掃除をしないといけないし、買い物に行って作り置きの料理を作っておかないといけないから。夜まであなたに抱かれていたら、翌日出勤できなくなる。あなたが働いているように、俺も仕事をしていることをわかってください。中野家からもあなたからも、金銭的援助を受けずに生きていきたいんです」
「俺は……お前を、俺無しでは生きていけない体にしたい」
彼が本気なのは間違いなかった。まるで子どもみたいだ。後先考えない言葉に笑いそうになった。
「駄目です。そんなことをされたら、あなたに捨てられたあとどうしたらいいんですか。……俺はベータです。あなたがいなくなっても生きていける」
直樹なしでは生きていけないオメガになりたかった。うなじを噛んでもらって、彼の番になって、彼の子どもを産んで、ずっと彼と共に暮らしたかった。
直樹はしばらく無言だった。薄闇の中でじっと新を見つめている。新は空気を変えたくて、どうでもいいことを楽しそうに話した。
「自炊ぐらい毎日しろって思ってるんでしょう? 月曜からグループ企業間のウェブ会議用資料を用意しないといけなくて、残業続きになりそうなんです」
「作り置きの料理は、うちの料理人が作ったものを持ち帰ってくれないか。一緒に暮らせなくても、新と同じものを食べていると思えば、少しは心が慰められる」
直樹と離れていても同じ料理が食べられる。その提案は新の心を温めた。
「うん。俺も直樹と同じ食事ができるのは嬉しいです」
「職場では結婚指輪は外すのか」
「はい。相手があなたであることを知られたら、俺の正体もバレてしまう。危険は冒せません」
「それならフェロモン漬けにすることもできないじゃないか」
新はおかしくて悲しくてやりきれなくて、泣き笑いした。
「もちろん駄目です。当たり前でしょう、旅行先ならともかく、職場では結婚していることも俺が中野家の次男であることも知られるわけにはいかないんですよ」
どちらも何も言わなかった。しばらくして直樹はベッドから体を起こした。
「拓海という男の写真を見せてもらえないか」
俺が意のままにならないから、兄と拓海の行方を追うつもりなんだ。新は真っ青になって起き上がろうとした。
「嫌です。お願い、あの二人のことは追わないでください」
「違う。拓海というやつの顔を拝んでみたいだけだ。データを寄越せとは言わない」
新は直樹をじっと見たが、嘘を言っている様子はなかった。追手をかけるわけじゃないなら、顔写真を見せるぐらいはいいだろうか。わかりましたと頷くと、起き上がれない新の代わりに、直樹が新の携帯端末を取ってきた。新は渋々画面ロックを解いて、拓海だけが写ってる写真を探した。直樹には兄の写真を見せたくない。そうなると必然的に護衛のときではなく、拓海が戦闘訓練を受けている時の動画ぐらいしかなかった。棒術のフォームの確認のために撮ってくれと頼まれたときのものだ。
「どうぞ」
長い棒を構えた拓海が、自分を取り囲む棒を持った複数の男たちに打ちかかられて、華麗な体捌きで次々に打ち倒していく。贔屓目抜きで、戦っているときの拓海は美しかった。野性的な整った顔立ち、無駄な贅肉なんて欠片もない鍛え上げられた長身、決して敵を見逃さない鋭い眼差しも、敵に相対したときの気迫もさることながら、存在そのものが見惚れるほどに美しい。拓海を取り囲む男たちも決して素人ではない、むしろかなりの達人と思われるアルファたちなのに、速さも動作のキレも何もかもが違いすぎて、短時間で勝負はついた。地面に打ち倒されて呻く男たちのなかで、拓海一人だけ息も乱さずに立っている。その眼差しが新のスマホのカメラを捉えたところで、動画は終了した。
見終わっても直樹は無言だった。
ああやっぱり拓海は凄い! 新は笑顔で語った。
「強いでしょう、拓海は。スポーツをしたらいい、絶対有名になるって兄さんとだいぶん勧めたんだけど、『俺は無名のままでいい。お前たち兄弟の傍にいて、二人を守るのが俺の歓びだ』と言って、ずっと護衛を務めてくれたんです。だから中学生のとき、俺が何人ものアルファに追い詰められたときも、彼なら絶対に助けてくれるって」
「俺は嫌いだ」
新の言葉をぶった切って直樹が断言する。新は目をぱちぱちさせた。直樹は拓海の画像を凝視しながら、唇をひん曲げた。
「こういうアルファは自分の愛する相手以外は目に入らない。そして自分の邪魔をするやつは全力で排除しようとする。ろくな人間じゃない」
「俺の大事な人間をそんなふうに言わないでください」
血は繋がってないけれど兄同然の存在で、親友でもある拓海を貶されて、新は我慢できずに抗議した。直樹はぐっと言葉に詰まった。
「いや、しかし」
「愛する番を手に入れるためならどんなことでもできるのって、優れたアルファの条件じゃないですか。それをろくな人間じゃないなんて言わないでほしい。直樹はどうして拓海を悪く言うの。恋人候補になりたいって言うけど、やっぱり俺じゃなく兄さんのほうがいいから、兄と駆け落ちした拓海が憎いんでしょう?」
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