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第9話 新婚旅行のあと

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 このうえなく豪華な披露宴だった。

 木南直樹の体面を潰さず、中野家の威光を印象づけるためのパーティーには、経済界の大物や政治家が招かれている。高砂席に座っているのがアルファ男性とベータ男性といういびつな組み合わせでなければ、幸福な結婚に見えただろうと新は思った。隣に座っている黒のタキシードを着た直樹には、目を奪われる魅力がある。白のタキシードを着ていても華やかさのない自分とはまるで違う。
 超一流ホテルのバンケットホールを貸し切った広い会場は、あでやかな装花で彩られ、テーブルコーディネートされた円卓には、手の込んだ絵画のように美しい料理が供されている。日本を代表する高名な来賓たちが、次々に祝辞を述べた。
「華燭のご盛典を心よりお慶び申し上げます。古来より伝えられる言葉があります。愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない……」
 フンという冷笑のこもった囁きは、新のすぐ隣から聞こえてきた。
「婚約者に、挙式直前に駆け落ちされたんだぞ。何が愛だ。忍耐なんかするか、馬鹿馬鹿しい」
 その言葉に、新の心臓はぎゅうっと鷲掴みにされた。
 冷笑の奥に隠れた、直樹の苦しみと悲しみと怒りは自分のせいだ。この人が婚姻相手に望んだのは、運命の番でオメガである兄の律なのに、自分は律と拓海の駆け落ちを手助けした。
 アルファの彼が、運命の番を奪われたことに激怒するのは当然だった。配偶者からマイナスの感情を浴びせられながら、新は作り笑顔で滔々と続いた祝辞に拍手した。
「食べないのか」
 不意に尋ねられて、配偶者となったアルファを見る。驚きを押し隠し、穏やかな笑顔で、「はい、いりません」と答えた。
「俺とは、飯は食えないということか」
 不機嫌に鼻を鳴らされても、料理に手をつけなかった。食事はできない。このあと自分はこの人に一方的に暴行を受けることになる。
 両親、特にアルファである父には、この結婚を激しく反対されたけれど、一度でいいから好きな人と体を重ねたくて説き伏せた。父に言われなくたって、ベータの男で駆け落ちの手助けをした自分が、彼から憎まれていることはわかってる。
 新はこの後待ち受けるものが何かを知りながら、片思いの相手と結婚できた喜びを心の中で味わった。

◇◇◇

 ――終わった。
 データを保存して、新は深い溜め息をついた。自分以外誰もいないオフィスで椅子の背もたれに体を預け、右手の人差し指と中指で両眼の目頭を揉む。疲れすぎてこのままデスクで寝てしまいそうだ。新婚旅行前にずっと残業して業務を片付けてから行ったのに、帰国したら毎晩残業しないと追いつかないぐらい仕事が溜まっているなんて。でも来週からは通常業務に戻れる。いや、その前に例の会議の資料作りをしなくては。
 体を起こしてパソコンの時刻表示を確認する。金曜日の午後十時過ぎという表示にぎょっとして慌ててスマホの電源を入れると、午後八時を過ぎた頃から一行メッセージがぽつぽつと届いていた。差出人は同一人物だ。
 その名前を見るだけで、自然と胸が甘く締め付けられて、新はじっとスマホを見つめた。

 直樹と一緒に行った新婚旅行は、予想していたよりずっとずっと素晴らしかった。きっと他の誰かと行くのだろうと思っていたのに、「一緒に行くんだ」と宣言されて、連れ去られた。
 旅先でも、まるで本物の新婚カップルのように過ごした。直樹には「俺の性処理の相手をしてもらう」と言われたけれど、全然そんなふうじゃなかった。不慣れな新に合わせて部屋を真っ暗にしてくれて、何度も何度もキスされた。キスだけで感じてしまう新を、嘲笑ったりすることもなかった。丁寧に着ているものを脱がされてベッドに押し倒され、恥ずかしがる新の乳首や性器を舐めたりしゃぶったりしながらしつこいほど指でほぐされた後、後ろからゆっくりと貫かれた。
 ベータの男の尻には太くて長すぎるアルファの陰茎を奥まで受け入れ、気持ちいいところをいっぱい突いてもらって、甘い声をあげて乱れた。きっと淫乱だと誤解されたと思う。直樹にガツガツとむさぼられ、先走りを垂れ流しながら腰を振って、二人で極めた。
 幸せで、幸せすぎて、新婚旅行が終わったら会えなくなるのが苦しくて、新のほうから「上手くいっているように見せかけるために、週末だけでも一緒に暮らしてもらえませんか」と提案した。断られたくなくてすぐ、「平日は一人で自宅で過ごします。……されたら翌日仕事に行けないから」と言い訳までして。
 直樹は「わかった」の一言で、新の提案を受け入れた。

 月曜から木曜まであっという間に過ぎた。木曜日の夜、直樹から「明日の夜、うちに来るのか」とメッセージがきて、新は勇気を振り絞って「行きます」と返信した。それなのに、こんなに遅くなってしまうなんて。ドタキャンしたと思われただろうか。そういうことをするつもりで、昨夜から何も食べずに準備してるのに。
 新はどきどきしながら、メッセージアプリを開いた。
 既読がついた瞬間、(今どこだ)(誰といる)(何時かわかってるのか)と立て続けにメッセージが送られてきて、アルファ特有の独占欲だとわかっていても、頬が緩んだ。おずおずとコールする。
「お前、こんな時間まで何をしている!」
 いきなり怒鳴られる。
「すみません、残業していました。先週、一週間休みを取ったので仕事が溜まっていて。本当にすみません」
「なっ。……おい、もう午後十時だぞ」
 呆れられてしまって、新は何も言えなくなった。よほど仕事ができないのだと思われたに違いない。
「わかった、今から迎えに行く。どこだ」
 思わず目を見張る。誰かを迎えに来させるのだろうけれど、こんなに遅い時間なのに。
「職場です。でも迎えにって。泊まりに行く用意を持ってきてないので、一度家に戻ってから明日お伺いします」
「用意などいらん、下着も服もパジャマも全部お前のサイズのものを用意してある」
 ……は?
 新は耳を疑った。用意してあるって、聞き間違えたんだろうか。いずれ離婚するのに、わざわざ用意した?
「あの」
「どこに迎えに行けばいい」
 言葉を被せられて、気圧されるがままに職場近くのランドマークを答える。
「わかった、すぐ行く」
 すぐ。
 呆然として通話を切り、まだ夢みたいだと思って通話履歴を確認する。間違いない、自分が電話をかけた相手は木南直樹だ。そこまで考えてハッと気づいた。
 あの人はアルファだ、すぐ行くと言ったら、父や拓海のようにほんとにすぐ来てしまうんじゃないだろうか。
 慌ててパソコンの電源を落とす。新は手早く帰り支度をして、待ち合わせ場所へと走った。

◇◇◇

 本当にすぐに迎えの車はやってきた。
 雇われ運転手だろうと思っていたら、運転席から降りてきたのはカジュアルな服装の木南直樹本人で、しかも新のビジネスバッグを受け取って後部座席に置いたあと、わざわざ助手席側のドアを開けてくれた。長時間労働の疲労のせいで、新は「どうしてこの人が来たんだろう。夢かな」と思いながらぼうっと立ち尽くしていた。
「おい。乗らないのか」
 ドアを開けた直樹に尋ねられて、やっと現実なのを理解する。
「乗っていいんですか?」
「いいからドアを開けたんだ」
 それはそうだ。軽く頭を下げる。
「ありがとうございます、失礼します」
 乗り込んだ助手席は、新の体を包み込むように座り心地がよかった。きっとここには、今までにたくさんの美しい女性が座ったんだろうなと思う。慣れない車でシートベルトの着用に手間取っていると、車外から身を乗り出した直樹がシートベルトをセットしてくれた。過労で判断力の低下した新は、ついうっかり「拓海みたいだ」と漏らした。
「あ?」
 低い声で聞き返されて、兄と駆け落ちした相手の名前を口にしてしまったことに気づく。直樹はイライラと続けた。
「お前は、その拓海とかいうやつに、こうしてシートベルトをつけてもらっていたのか」
 はい、と正直に答える。
「俺は兄ほど不器用ではないんですけど、拓海はすごく心配性なんです。毎回ちゃんと着用できてるか確認せずにいられないみたいで」
「心配性」
 どうしてだろう。ゆっくり言葉を繰り返されると、叱られている気分になってソワソワした。拓海は護衛なのだから、警護対象者の安全に留意するのは当たり前なのに。不意に顔を寄せてきた配偶者に首筋の匂いを嗅がれて、目が覚める。
「直樹⁉」
「少なくとも今日は誰とも浮気していないようだな。フェロモンをつけられてない」
 冗談みたいなことを真顔で言われて、驚きに目をぱちぱちさせた。今週はって、俺にフェロモンをつけたことがあるのは、この人だけだ。それだって海外旅行先で、俺の安全を優先してのことで。
「俺にフェロモンをつけたい人なんていません。ていうか、あの、ずっと仕事していて汗くさいから、匂いを嗅がないでください」
 スーツ姿をまじまじと見下ろされて、鼓動が早くなる。しばらく沈黙したあと、直樹は言った。
「ほんとに働いているんだな」
 何を言ってるんだろう、前にもそう言ったのに。
「はい」
 直樹は何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わなかった。無言で助手席のドアを閉め、運転席に乗り込む。
「家に着くまで寝てなさい」
「ありがとうございます」
 もう限界だった。配偶者の言葉に従って目を閉じると、全身の力が抜けて体がシートに体を沈んでいく。新は意識を失うように眠りに落ちた。

◇◇◇

 ひそひそと囁く声がした。
「お部屋の準備はできております」
「新のバッグを持っていってくれ」
「はい」
 直樹ともう一人、知らない人の声で意識が浮上する。身じろぎして体を起こそうとするとシートベルトで阻まれて、そこでやっと直樹の運転する車の中で寝落ちしたことを思い出した。
「起きたか」
「すみません」
 直樹が運転席から身を乗り出して、新のシートベルトを外す。俺、もしかしてこの人に何もできないと思われてるのかな。自分の不甲斐なさが恥ずかしかった。さらにくしゃっと髪を撫でられて、子ども扱いに顔が赤くなる。目を丸くしている使用人に軽く頭を下げ、運転席から降りた直樹に続いて車から降りた。思わずあたりを見回した。
「凄い。警備員付きのお屋敷にお住まいなんですね」
「お前の実家のほうがもっと広いだろう」
 その通りだけれど、それでも一代でこれだけの財産を築きあげたのは凄い。経済界の怪物と言われる父、忠彦ですら一目置くだけのことはある。
 やってきた直樹に当然のようにお姫様抱っこされて、新婚旅行中に慣らされてしまった新は首筋にしがみついた。口をぽかんと開けて驚愕している使用人と目が合って真っ赤になる。使用人は目を逸らすと、新から革靴を器用に脱がせた。しまった、ここで降りないと。
「降ります、降ろしてください」
「新。お前、また食事を取ってないな」
 う。
 直樹に至近距離から真顔で睨みつけられて、嘘がつけなかった。新が黙ったのをいいことに、直樹は新を抱いたまま歩いた。
「何度も言ってるが軽すぎる、どうして食べない」
「あの……週末にはするとおっしゃっていたので」
 できるだけ婉曲話法で言い訳する。お前なんかとセックスするつもりはないと言われたら、そうですねと笑顔で言うつもりだったのに、直樹はムッとした顔で言った。
「する時には俺が洗う。ちゃんと食事をとるんだ」
「それが嫌なんです!」
 新の悲鳴に、直樹は楽しげな笑い声を上げた。頬が熱い。新婚旅行中はずっと、脅しつけるように食事をとらされ、当たり前のように直樹に排泄孔を洗われた。そうして朝まで抱き潰されて、腰が抜けて動けない体を世話してもらった。
 最悪だ。最悪だけど……幸せだった。直樹から体を求められるたび、愛されてるような錯覚に駆られた。豪邸という言葉がぴったりな屋敷の中を、直樹は歩いていく。
「一緒に過ごせるように、部屋の模様替えはした。気に入らない部分は言ってくれ」
 下ろされた部屋は、広い主寝室だった。大きなベッドが目を引く。
「服はこっちに用意してる」
 そう言いながらチェストの引き出しを開けて、下着やパジャマを見せられ、目を丸くしていると、さらにキャビネットの扉を開いてカジュアルからフォーマルまで、何着もの服を見せられた。
「ファッションアドバイザーに俺の写真を見せて選んでもらったんですか」
「サイズはお前の実家に聞いたが、俺の趣味で選んだ。気に入らないなら捨てたらいい」
 直樹の言葉に驚いて、今度はじっくり服を検分した。捨てるなんてありえない、どの服も新によく似合う暖かみのある色合いで、シンプルだけど上品なデザインのものばかりだった。
 嬉しい。どうしよう、本当に嬉しい。
「これ、全部揃えるのにかなりのお金がかかったでしょう。このブランドのスーツ、一着でも七十万円以上するの知ってます。シャツもネクタイもスラックスも、どれも本当にいいものばかり揃えてくださってる。お願いします、お金を払わせてください」
 新の懇願に、直樹は顔をしかめた。
「……プレゼントを贈った相手に、お金を払うと言われたのは初めてだ。俺は配偶者に服を買うこともできないほど、困窮してない」
 彼が経済的に大成功していることは知っている。その経営手腕も尊敬している。
「あなたがお金に困ってないのはわかってます。でも離婚しても俺の手元に残しておきたいんです。代金を支払わせてください」
「離婚?」
 不意に空気が冷たくなった。長身の直樹が新の顔を覗き込む。ベータの新には怒りのフェロモンは感じられないけれど、気圧されて壁際に追い詰められた。
「どういう意味だ。新婚旅行から帰国してすぐ、離婚したくなったか」
「違います。そうじゃなくて」
 なんて説明したらいいんだろう。
「何が違う」
 食い下がられて、ずっと一人で飲み込んでいたことを口にした。
「俺は母のためならなんでもする父を、そして律だけを見つめる拓海を、ずっと見てきました。だから知ってます、アルファには自分の番しか目に入らない。あなたはきっと、あなた自身の番に出会うでしょう。そうしたらこの結婚は終わりです」
 新は悲しみを押し隠して、できる限り優しく微笑んだ。直樹が何か言おうとして口を開いたが、何も言わずに唇を引き結んだ。
「あなたたちアルファはそういう生き方しかできない。今は苦しくても、あなたならきっと、生涯を共にする番を見つけられます」
 そこまで言って新はハッとした。
「あ! でも、俺と結婚している間は不倫はしないでください。父は必ず嗅ぎつけます。そして最悪の方法であなたを破滅させようとする。好きな人ができたら必ず教えてください、できるだけ早く離婚しますから」
「……俺と離婚したあと、お前はどうする。本当に好きな相手と結婚するのか」
 新は直樹を見つめた。本当に好きな相手とは、いま結婚している。だから、離婚成立後に自分が本当に好きな人と結婚するのは無理だ。
「俺の場合、それは不可能だから」
 涙をこらえるために目を閉じる。こみあげる苦しい感情をすべて飲み込むと、目を開いて口角を上げ笑みを作った。
「離婚が成立したら、あなたは中野家と縁が切れる。だから俺は、あなたの代わりに中野家を率いることになるアルファと結婚します」
「なんだそれは!」
 胸ぐらを掴まれ怒鳴られたけれど、怖くはなかった。どうしてだろう、直樹が絶望に打ちのめされているように見える。新は慰めたくて両手を伸ばすと、自分よりもずっと強い男を抱き寄せた。相手は一瞬驚いた顔をして、それから無言で新の肩口に顔を埋めた。
「大丈夫、俺は覚悟ができてます。あなたは中野家で手腕を振るえないのが残念なんでしょうけれど、番を見つけたら、その人以外は何もかもどうでもよくなります。もう少しだけ、あなたがあなたの運命を見つけるまでだけ、側にいさせてください」
「……中野家を背負えるほどのアルファとなると、かなり独占欲が強いぞ。結婚歴のあるお前を選ぶことはない」
「なので、おそらく父はアルファ女性を探していると思います。俺には女性経験がありませんから」
 直樹は体を起こして、新を睨みつけた。
「探している?」
 低い唸り声は、激怒を含んでいる。
「俺がいるのに、どうして探す必要がある!」
「女性経営者は少ないですから、早めに探さないと。特にあなたほどの経営者の後釜を探すのは至難の業で」
「女と結婚? 女相手に勃つのか?」
 直樹の右手が服の上から新の股間を包み、やわやわと揉んだ。驚きに突き飛ばそうとしたけれど、その抵抗を封じるように左腕で抱き寄せられる。軽い刺激なのに、快楽を教えられた新婚旅行から一週間近く禁欲している新の体は、たやすく熱くなった。反応したそこを、直樹の指が誘うようにゆっくりと撫で上げる。新は震え声で願った。
「やめて、直樹」
「絶対に駄目だ、許さない。他の女と結婚するというなら、女には勃たない体にする」
 強い眼差しに、新は魔法にかかったように動けなかった。
 ジャケットのボタンが外される。上着を床に落とされて、心許なさに新が震えると、長い指は今度はゆっくりとネクタイをほどいた。しゅるっとシルクの擦れる音がして、新の首元が緩む。虹色の貝ボタンが上から順番に外されていき、袖口も外されて、シャツが床に落ちた。
「お前は俺のものだ。他の誰とも結婚してはいけない」
 ついばむようにキスを繰り返しながら、直樹が手元を見ずにカチャカチャと新のベルトを外す。ベルトを引き抜かれ、床に落とされる頃には、新は立っているのがやっとになっていた。
「新の匂いがする」
 逃げられないよう、新の顔の両側に手をついて狭い空間に閉じ込めた直樹が、屈んですんすんと新の脇の下の匂いを嗅ぐ。新は必死に押しのけようとした。
「ずっと仕事していて汗臭いからやめてください、お願い」
「じゃあここは?」
 直樹が誘うような声で尋ねながら、新のトラウザーズのジッパーをじりじりと下ろしていく。下着越しに夫の指に性器を撫でられて、新は息を喘がせた。
「触らないでください、汚い」
「……新は職場で排尿するとき、トイレの小便器を使っているのか?」
「どういう意味ですか」
 直樹の質問の意味がわからなくて聞き返した。普通は使うと思う。そうでなければ、どうやっておしっこをするんだろう。直樹は不思議な笑みをひらめかせた。
「わからない?」
「わかりません」
「……なるほど」
 なるほどと言われてもわからない。ジッパーを完全に下ろされて、ぱさっとトラウザーズが床に落ちる。新は両手で下着に包まれた股間を隠した。
「自分で脱ぐか」
 頷いたけれども、恥ずかしさでいっぱいの新はしばらく動けなかった。何度か深呼吸して、股間を隠すのをやめ、ゆっくりと上半身を隠すアンダーウェアを脱ぐ。
「やっぱり痩せている」
 浮き出た肋骨を撫でながら痛ましそうに言われて、慌てて首を横に振った。
「違います、これは残業のせいです」
「お前がやつれるのを見るたび、イライラする。被害者は俺なのに、まるでこっちが加害者みたいだ」
「……ごめんなさい」
 怒られても仕方がないと思う。この人は悪くないのに。
 新は無言でボクサーパンツも脱いで、全裸になった。目の前の男性にとっては気持ち悪いだろうベータの男の体を、視姦されるのは恥ずかしくてたまらなかった。
「お前の体は、どこからどう見てもベータの男の身体だな」
「申し訳ありません」
「謝るな、それが嫌だとも悪いとも言ってない」
 再び全裸の新の両脇に手をついて、逃げられないようにしてから、さっきまでよりはるかにじっくりとうなじの匂いを嗅いだ。逃げてはいけない気がして、新は目を閉じて恥ずかしさに耐えた。
「……うん。やっぱり不倫はしていない」
「俺はそんなことしません」
「運命の番だって逃げたんだ。うなじを噛めない、子どもも作れない、ベータの男の言うことなんか信じられない」
「ええ……そうですね」
 彼から人を信じる気持ちを奪ったのは自分で、だからこそ彼の苦しみがつらい。不意に顔を上向かせられ、驚くひまもなく激しいキスに襲われて、新は直樹にしがみついた。
「ん、んん」
 下肢に押し当てられたもののせいで、直樹が欲情しているのがはっきりとわかる。新も引きずられて体が熱くなった。このままセックスするんだろうか。シャワーを浴びたい気持ちと、このまま抱かれたい気持ちでぐらぐらする。木曜日に準備して後孔を洗ったあと一口も食べてないから、汗臭ささえ我慢してもらえるならこのままでもできるけど。

 始まったときと同様いきなりキスが終わり、苦しげな表情で直樹が離れた。
「やめだ。疲れてるのに悪かった、風呂に入るといい。俺は別室で寝てくる」
 この人を一人で行かせちゃ駄目だ。理由はわからないのに、何故かそのことがはっきりとわかって、新は直樹の手を掴んだ。
「お願いです、俺の体を洗ってください」
 直樹は振り返らずに言った。
「今週はずっと残業していて、疲れてるだろう」
「大丈夫です、性欲の捌け口として俺を使ってください。ぱっと見は兄に似てるとよく言われました。真っ暗にしてもらえば、兄の身代わりとして使えると思います」
 直樹が振り返る。しばらく彼は何も言わずに新を見ていた。やがて彼は深い溜め息をついた。
「身代わりは無理だ。お前は律に似ていない」
 ぐっさりと彼の言葉が新の心臓を突き刺す。
 兄に似ていると言われて抱かれたときも辛かったけれど、似てないと拒否されるのも耐えられなかった。わかってたことなのに。どんなに好きになっても、アルファの直樹はベータである新の気持ちは受け入れないと父から諦めるよう言われていたのに、やっぱりつらい。
「そうですよね。すみません」
 心の痛みを押し隠して無理やり作り笑いを浮かべると、直樹のほうが苦痛をこらえる顔をした。
「違う、そうじゃない。律よりお前のほうがずっと……」
 彼がその先を口にすることはなかった。右手で口を押さえる直樹は、言葉が出ていかないよう堰き止めてるみたいだった。やがて彼は右手を下ろした。
「お前が言ったんだ、俺は途中でやめたりはしない。だから……つらくなったら途中で寝落ちしていい」
「はい」
 兄に似てないのに、抱いてもらえるんだ。嬉しくて笑みがこぼれた。新の笑顔に直樹は良心の呵責に耐えられないかのように目を逸らした。

◇◇◇

 大きな手にゆっくりと髪を撫でられている。新は半分眠りに落ちたまま、慈しまれている感覚を味わった。
 新の全身を丁寧に洗うのも、入浴後にふわふわのバスタオルで水気を取るのも、髪を乾かすのも、すべて直樹がやった。そんなことしなくていいですという新の言葉は無視された。
 ベッドに連れこまれたときも優しくて、充分すぎるほど丁寧にほぐされてから抱かれたから、何日かぶりにアナルセックスをしたのに気持ちよさしかなかった。でも全身舐めしゃぶるのはやめてほしいと思う。乳首が感じやすいだけでも恥ずかしいのに、足の指とか脇の下とかうなじとか、思いがけないところで声を上げてしまって、恥じらいに涙目になってしまった。
 兄の律が拓海と駆け落ちした今、中野家には政略結婚の駒は自分しかいないのに、直樹に捨てられたあとほんとに他のアルファと結婚できるんだろうか。直樹に貫かれるのも、体の奥深くに精液を出されるのも、この人に性器をしごかれて同時にのぼりつめるのも、何もかもが嬉しくて全身がこの人を欲しがってしまうのに、他の人とセックスなんてできる気がしない。
 とろりとした深い眠りの波にさらわれて意識が落ちていく直前、直樹の声が聞こえた。

「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまないか……」

 覚えてる。結婚式の祝辞だ。たしか聖書の一節だったと思う。
「俺には無理だ。自分の配偶者が他のアルファと結婚するのを我慢なんてできるか。祝福するのも、相手に嫉妬せずに見守るのもできない。なにが『拓海』だ、お前の兄と駆け落ちするような男なんか忘れてしまえばいいんだ」
 なんで拓海の名前が出るんだろう。彼は、オメガの兄を金目当ての強姦魔から守る仲間みたいなもので、そんな目で見たことはお互いに一度もないのに。
「俺は自分が思っていたより、はるかに意志が弱いらしい。こいつの幸せを思うなら手放してやらないといけないのに……」
 自嘲的な笑い声に、抱きしめて慰めたいと思う。思うだけで、疲れきった体は動かなかった。
「どこにも行かせたくない。誰にも見せたくない。この屋敷に閉じ込めてしまいたい」
 仰向けにさせられ、両脚を大きく開かせられて、身じろぎしようとしたけれど、指一本動かせなかった。さっきまで雄を受け入れていたそこはまだやわらかくほぐれていて、硬くて熱いものを美味しそうに頬張った。
「あらた、あらた、あらた……」
 何度も名前を繰り返されながら、腹の奥を怒張したペニスに独占される。肛道が直樹のかたちと大きさを覚えるまで執念深く突き上げられたあと、直樹の動きが止まった。体の奥深くで大量に射精されてるのがなんとなく感じられる。
 ああ、また俺の体でイってくれたんだ。ほとんど意識のない新は、嬉しさと誇らしさでうっすらと微笑んだ。

「新は俺のものだ。誰にも渡さない」

 狂気を含んだ呟きを子守唄がわりに聞きながら、新は今度こそ深い眠りの淵に沈んでいった。







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