【完結】運命の番に逃げられたアルファと、身代わりベータの結婚

貴宮 あすか

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第8話 新婚旅行にて(後編)

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 大聖堂は、高い鐘楼が印象的なゴシック様式の建造物だった。
 薄暗い側廊を進んだ新は、つきあたりの広い内陣に出て、「うわ」と嘆声をもらした。光あふれる内陣は色鮮やかなステンドグラスに彩られていて、とても美しかった。ここまで歩いてきた疲れを忘れて、真っ白な大理石の祭壇や、聖母子像に見惚れる。
「綺麗なものだな」
 直樹の言葉に、新は笑顔を向けた。
「ええ、本当に」
「……俺は歴史とか美術はよくわからんが、これはたしかに一見の価値がある」
 直樹の言葉に引っ掛かりを覚えて、新は彼を見上げた。彼の顔は、陰っていた。
「直樹?」
「いや。なんでもない。次は宮殿か?」
「ええ」
 もう少しゆっくりしたいとは言えなかった。疲れを隠して歩いた新は、薄暗い大聖堂から明るい陽光のもとに出た瞬間よろめいた。その体を直樹が支える。
「大丈夫か」
「大丈夫、です」
 新は蒼白な顔に無理やり笑みを浮かべた。
「すみません、そこの広場のベンチで休んだら、一人でホテルに戻ります。観光を楽しんできてください」
「俺といるのはそんなにイヤか」
「え」
「なんでもない。飲み物を買ってくるから、休んでいなさい」
 大聖堂前の広場にあるベンチに新を座らせてから、足早に立ち去る後ろ姿をしばらく見送り、新は俯いた。
 どうして上手くやれないんだろう。迷惑をかけたくないのに、あの人に新婚旅行を楽しんでほしいのに、自分といるだけで嫌な思いをさせてしまう。左手の薬指に嵌まった結婚指輪が、急に重さを増したように感じられた。くるくる回して外し、ポケットに大切にしまいこむ。

『こんにちは。一人かい?』

 不意に声を掛けられて、新は顔を上げた。
 この人、アルファだ。
 ベータの新にはフェロモンはわからないけれど、外見だけでわかった。大柄な体格、髪と瞳は茶色で外国人らしい濃い顔立ちをしている。
『連れがいます』
『アルファの男だろう、フェロモンの匂いがする。でも君はベータの男だよね』
 ええと新は頷いた。相手は大仰に、新を頭の先から足の爪先まで見つめた。
『男娼にしては良い服を着てる。ご主人様のバカンスについてきた愛人ってとこかな』
 愛人? 失礼な言動に苛立ちが募る。
『違います』
『フェロモンをつけられてから、結構時間が経ってる。あまり相手をしてもらえないのかい。他に相手を探してるなら、私なんてどうだろう』
 新は冷静に相手を観察した。身につけている服や靴は、ハイブランドのものだ。何より彼が話すキングズイングリッシュからはっきりわかった。おそらくこの人物はイギリスの上流階級、おそらく貴族だろう。
『あなたの身分では、子を生せない性同士で関係を持つことはないと思ってました』
『そうだな。私の周りはアルファとオメガがほとんどだから男同士の恋愛には寛容だが、ベータの男を相手にするものはいない。だがまあ火遊びぐらいは、大目に見てもらえる。君はベータ男性にしては随分と美しい』
 ベータ男性にしては! それを本気で褒め言葉だと思っていることにさらに不愉快になった。新は相手を睨みつけて、はっきりと言った。
『俺は、自分が尊敬できる相手としか関係を持つ気はありません』
『尊敬できる相手って、そこの、労働者階級の男か?』
 新は振り返った。右手にテイクアウトのドリンクを持った直樹が後ろに立っていて、不愉快そうに「誰だ、そいつは」と尋ねる。
 ウォッシュドデニムは直樹に良く似合っていたけれど、上流階級の一員として生きてきた新には、目の前の男がジーンズを履いた直樹を労働者階級と馬鹿にする価値観も理解できた。
『そうです』
『ふうん。こんな男、どうせ好きなスポーツはと聞いたら、サッカーだと答えるんだろう』
 あからさまな嘲弄に反論したのは、直樹だった。
『サッカーが好きで何が悪い』
『なるほど。だからアルファの男なのに、ベータの男しか愛人にできないのか』
 目の眩むような怒りに、新は衝動的に立ち上がった。震える声を絞り出す。
『黙れ、直樹に謝罪しろ。彼は本来、俺なんかと結婚するような人じゃない』
『結婚!』
 相手はプハッと声を上げて嘲笑した。
『アルファなのにベータの、それも男と結婚って! ああなるほど、君はそのアルファを金で買ったのか』
 全身が震えた。新が一歩踏みだす前に、肩に直樹の手が置かれた。
『新。こんな馬鹿を相手にする必要はない』
 ゆっくりとした口調にも関わらず、イギリス貴族が鼻白んだ顔をした。新は自分の夫を振り返った。

(……凄い)

 幼い頃から、父親である忠彦や、兄の側仕えである拓海を見てきたからわかった。直樹は本気で怒っていた。極上のアルファが放つ怒りのフェロモンを浴びて、相手がどんどん青褪めて後ろに下がり、つまづきかけてようやく我に返ったのだろう、早足で逃げ去っていく。
 ふう、と溜め息をついて、直樹は新に「具合はどうだ」と尋ねた。
「目眩はもう大丈夫です」
「そっちじゃない。俺が怒りを抑えられなくなると、近くにいる人間は、ベータでも体調が悪くなる」
 思い当たる節はあった。
「そうでしょうね。あなたほど優れたアルファだと、放つフェロモンも強い。でも俺は大丈夫です。父や拓海で慣れてる」
「拓海?」
 不快げに眉を寄せられて、胸の内がヒヤッとした。けれど新は正直に話した。
「例の、兄の側仕えです。俺たち兄弟は昔から営利目的の誘拐犯に狙われていて、特に兄は長男でオメガなので何度も誘拐されかけました。だから学校にもついていけるよう、同じ年齢の少年を護衛として迎え入れたんです」
「そうか。なるほど、だからお前は俺のフェロモンを間近で受けても平気なんだな」
 初めて見るかのようにまじまじと見られる。新は感情を隠すのに慣れていてよかったと思った。好きな人にそんなふうに見られたら、頬が熱くなってしまう。
 直樹と並んでベンチに座り、渡された飲み物を口にする。
「ホワイトコーヒーだ」
 ミルクたっぷりの甘めのコーヒーは優しい味わいで、頬が緩んだ。しばらく黙ってコーヒーを飲む。飲み終わるのが惜しかった。ずっとこうしていたい。
 不意に直樹が口を開いた。
「あの男が言っていたことは本当だ。日本はイギリスほどは階級差別がないが、俺は労働者階級の生まれだ」
 知ってますとは言えなかった。兄との婚約の時点で、直樹の身辺には調査が入っている。新は空のコップに視線を落とした。
「父も母もベータで、二人とも働いていたけれど貧しかった。住んでいたのは低所得者向けの団地で、学校は全部公立だ。そして俺が感情的になると、近くにいる奴はみんな気分が悪くなるから、友達なんて一人もできなかった」
 彼の少年時代は容易に想像できた。周りに一人もアルファやオメガがいなかったなら、検査を受けるまでアルファだとわからなかっただろう。ベータの中に孤立した、たった一人のアルファ。その想像は胸の痛むものだった。
「どんなに勉強を頑張ろうが、スポーツで優秀な成績をおさめようが、『アルファならできて当然だ』と言われた。俺は奨学金を受けて、早くから家を出た。在学中に事業を興して成功し、やがてお前の家からの結婚の申し出を受けるまでになった」
 直樹が苦学生だったのも知ってる。彼が受けた奨学金の一部は、財団法人の体裁をとって中野家が運営しているものだ。
「大学に入るまで、俺の周りにはアルファもオメガもいなかったから、男同士や女同士で恋愛してるやつなんて見たことなかったし、男と結婚なんて考えたことなかった。でも、律に引き合わされて考えが変わった。彼となら結婚してもいいと思った。――まさか式直前で、逃げられるなんて思わなかったが」
 罪悪感で息が詰まった。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も心のなかで繰り返す。兄の駆け落ちを手助けして、この人から運命の番を奪った罪は、きっと一生消えない。
 ふうーっと深い溜め息をついて、直樹は続けた。
「お前はベータの男だ、アルファの男は恋愛対象外だろう。慰謝料を惜しんだ両親に命じられて、俺と結婚したのか」
 新は激しく首を横に振った。
「違います。父は慰謝料で片をつけようとした。俺が止めたんです。それでは誠意のある対応にはならない、あなたが周囲から嘲笑されるのを止められないって。俺の周りのアルファやオメガは、同性愛に寛容です。俺も何度かアルファ男性に告白されたり、さっきみたいにナンパされたり、学生時代には襲われかけたことも」
「おい、アルファに襲われて無事だったのか」
 すごい剣幕で尋ねられて、新は目をぱちぱちさせた。ああそうか、父さんが言っていた。優れたアルファであればあるほど、独占欲が強いって。
「もちろん大丈夫です、拓海がいましたから」
 普通の相手なら十人、いや二十人がかりで襲ってこようが、拓海の敵じゃない。
「拓海? ……ああ、例の側仕えか」
 不機嫌な低い声に首をすくめつつ、新は続けた。
「ベータの俺を襲うなんて、兄と間違ったか、兄の身代わりにするつもりだったんだと思います」
 そんなわけがあるか、と聞こえたような気がしたが、ちらりと視線を向けると直樹は唇を引き結んでいた。きっと気のせいだろう。
「だから、あなたにとって、男を抱くのがそんなに気持ち悪いことなんだって思わなかったんです」
「お前とのセックスは気持ち悪くなかった」
 直樹が新の顔を覗きこむ。間近から見つめられて、新は視線を逸らせなくなった。
「お前はどうなんだ。俺と同じベッドで寝るのも、シャワーを浴びてる姿を見るのも我慢ならないんだろう? やっぱりアルファの男は対象外なんじゃないのか」

 違う。

 どう言えば伝わるのかわからなかった。新はできるだけ正直に答えようとした。
「うちの両親はアルファ男性とオメガ男性です」
「知っている」
「両親どちらも男ですが、深く愛し合っている。その姿を生まれたときから見てるから、男性同士の恋愛に忌避感はありません。俺にとってアルファ男性は恋愛対象です」
「なるほど?」
 真面目くさって頷かれると、どうしたらいいかわからない。
「俺がそうでも、あなたは違う。恋愛対象外の相手に性的な視線を向けられるのが、どんなに気持ち悪いかはわかります。だからなるべく、あなたをそういう目で見ないようにしたい。でも、一度そういうことをした相手を、意識しないようにするのは難しいんです。ごめんなさい、こんなこと聞かされるだけで気持ち悪いですよね」 
「だから気持ち悪くないと言っている。……なるほど、お前は俺を見て性的に興奮するんだな」
 あまりにもあからさまな言い方に、新は頬を真っ赤に染めて立ち上がった。
「コーヒーご馳走さまでした、俺、ホテルに戻ります」
 コップを持ってない左手を、ぐっと掴まれた。
「話は終わってない。……おい、結婚指輪はどうした」
 あ。
 新はゆっくりと自分の配偶者を振り返った。
 そうだ、直樹は自分なんかと結婚していることを隠したかったはずなのに。あの鼻持ちならない外国人に腹が立って、自分はこの人と結婚してると宣言してしまった。
「ポケットに入れてます。ごめんなさい、俺なんかと結婚してることを隠したいの、わかっていたのに。あの男にカッとなって言ってしまった」
「隠す必要はないだろう、実際結婚してるんだ」
「でもアルファのあなたが、ベータの俺と結婚してるなんて、中野家のことを知らないものからは侮られます」
「面白い。俺を馬鹿にできるならしてみればいい」
 整った顔に浮かんだ凄みのある笑みに、新は一瞬見惚れた。おずおずと言葉を続ける。
「あなたもさっきの男のように、旅先でアヴァンチュールを楽しみたいのでは?」
「必要ない。性処理の相手はお前にしてもらう」
 新はまじまじと自分の配偶者を見つめた。彼の性処理を俺がする? それって……つまり……。
「あの、俺、そういう経験がないからあなたを悦ばせる自信がありません」
「いいから指輪を出しなさい」
 皇帝に命じられたかのような圧力に、新は「はい」と従った。コップをベンチに置き、ポケットから結婚指輪を取り出して、直樹に渡す。彼は立ち上がると、貴重なものでもあるかのように新の左手を取り、その薬指にゆっくりと結婚指輪を嵌めた。

 リーンゴーン。
 リーンゴーン。
 リーンゴーン。

 大聖堂の鐘楼から、正午を告げる荘厳な鐘の音が響きわたった。まるで世界に祝福されてるみたいだと思えた。
 そんなわけないのに。
 自分はこの人にとって、兄の身代わりでしかないし、性処理の相手でしかないのに。
 理性ではわかっていても、新だけを映し出す彼の眼差しに熱い何かを感じて、体が震える。

 指輪を嵌めたあとも、直樹は新の手を離さなかった。
「俺は無教養だ。この街は美しいとは思うが、歴史も美術もわからない。どうしてサッカーが好きだと馬鹿にされるのかもわからない」
「サッカーは始めるのにお金がかからないからです。場所代もいらない、ゴールがなくったって原っぱでもできる。反対に乗馬ができるというと、それだけでステイタスになる」
「ああ、なるほど。新は乗馬も上手いんだろうな」
「一応、騎乗者資格のA級を持ってます」
「それがどれほどのものか、全然わからない」
 うっすらと笑う男の目に情欲を読み取って、息が止まりそうになる。長い指が、羽のように新の頬を撫でた。
「昼食を食べて、それからホテルに戻ろう。新がどれほど馬に乗るのが上手いのか、見せてもらうのが楽しみだ」
 それが何を意味しているかは、さすがに世間知らずの新にもわかった。騎乗位で抱きたいという、あからさまな誘いに尻込みする。
「あの、俺、そういうの無理です。それにあなたの相手をするなら食事はできません、だってベータの男ですよ。た、食べたら排泄するんです、汚い!」
「初夜の翌朝にも言っただろう。食べられないというなら、俺が無理やりにでも食べさせる。汚いなら俺が洗ってやる。ところで新は、ペニスを舐めてもらうのと乳首を吸ってもらうの、どっちが好きなんだ」
 答えられなかった。どんな顔をすればいいかもわからないでいると、直樹は低く忍び笑いをした。
「わかった。両方してやる」
「!」
 この場から逃げ出したいのに、足が動かない。涙目で自分の夫を睨むと、直樹はすうっと目を細めた。
「なるほど、あのアルファが寄ってきたわけだ。俺の名も中野家の名も通じない異国では、誰も近寄れないぐらいフェロモン漬けにしないといけなかったんだな」
 フェロモン漬け?
「何をするつもりですか」
「俺の上で腰を振るお前の中に、何度も射精して精液を塗り込むんだ」
 想像しただけで倒れそうになった。無理だ、そんなの絶対無理。騎乗位で何度も抱かれるなんて、耐えられない。男の体を見られて、この人に気持ち悪いと思われたくない。
「お願いです、セックスするならせめて部屋を真っ暗にして、後ろからにしてください。お願い」
 ぽろっと涙がこぼれた。彼は苦しげに眉を寄せると、新を抱き締めた。
「わかった、わかったから泣くな」
 そこから先の言葉はなかった。涙が舌で舐め取られ、子どもをなだめるような軽いキスが唇に降りそそぐ。新はうっとりと優しいばかりのキスを受け取った。キスが終わっても、新は直樹にもたれかかったまま動けなかった。
「しようがないな」
 新をベンチに座らせた直樹が、几帳面に空のコップを屑入れに捨てに行く。その後ろ姿を切なく見送った。

(そういうところが好き)

 ゴミをそのへんにポイ捨てしたりしない、名ばかりの配偶者のために飲み物を買ってきてくれる、そんなちょっとした出来事の積み重ねに恋心が募っていく。
 形式的に結婚して、一晩だけ体を重ねられたら充分だと思っていた。それなのに、一緒に過ごせば過ごすほど直樹を好きになるなんて、どうしたらいいんだろう。彼から別れを告げられたとき、自分は笑顔で頷くことができるだろうか。
 戻ってきた直樹は当たり前のように片膝を地面につくと、新の体を掬い上げるように、両腕で抱き上げた。驚いた新が直樹にしがみつく。
「危ないです!」
「危なくない。ついこの間も言ったが、お前はベータの成人男性のくせに軽すぎるぞ」
 ふふ、と笑いがこぼれた。直樹からもらえるものは、お説教さえ嬉しかった。
 好きだ。
 この気持ちは彼にとって迷惑でしかないから、最後まで隠しとおすつもりだけれど、それでもこの恋を、自分だけは認めてやりたいと思う。
 新は表情を隠すように夫の肩口に顔を埋め、そのたくましい背中に腕を回した。




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