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第7話 新婚旅行にて(前編)

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(来てしまった)

「こちらのお部屋でございます」
 案内してくれたホテルマンがドアを開く。

(この人とここに来ていいのは、俺じゃないのに)
(わかってるのに)
(――来てしまった)

 夫となった木南直樹が、傲然とスイートルームに入る。その後に続いてスイートルームに入った新は、部屋を素通りし、引き寄せられるようにベランダに出た。
「ああ」
 まばゆい陽光に目を細める。

 絵画から抜け出したような街並みだった。白壁と鮮やかなオレンジ色の洋瓦の屋根が連なる歴史的な市街地が、紺碧の海に映える。あまりにも美しすぎる景色に、言葉もなく圧倒された。
 新の隣にやってきた夫も外を見て息を呑んだ。そのまま二人は黙ったまま、眼の前の風景に見惚れた。
「美しいな」
「はい」
 二人ともしばらく動かなかった。新はちらりと隣に立つ男を見上げ、すぐに目を伏せた。

 『経済界の怪物』と言われた父、中野忠彦さえ舌を巻くほどの優れた経営手腕を見込まれて、オメガの兄と婚約した直樹が、ベータの新と結婚したのは、兄が側仕えの拓海と駆け落ちしたからだ。
 醜聞を避けるためというのも、経営者として中野家の事業に興味があるというのももちろんあるだろう。けれど一番大きい理由は別にあると新にはわかっていた。アルファは自分の運命の番に執着する。兄と拓海の逃避行に手を貸した自分を合法的に強姦しようとして、この結婚を受けたのだろう。

(でもこの人は優しかった)

 挙式後の初夜、初めてのセックスに怯えている新を、思いがけない優しさで抱いてくれた。翌朝、男とセックスなんて気持ち悪いと吐き捨てられたけれど、それは仕方がない。どんなオメガ女性も選り取り見取りのこの人が、ベータの男を抱くなんて、本来ならあり得ないことだ。
 性処理の相手として一緒に新婚旅行に行ってもらうと言われ、さらわれるようにして連れてこられたけれど、おそらくもう二度と体を重ねることはないだろう。

(せめて、友人になれたらよかったのに)
 
 彼に好きになってもらうのは無理でも、友人として側にいられたら、少しは好意を抱いてもらえただろうか。いや、好意って、何を高望みしてるんだ。自分は直樹の運命の番が他のアルファと駆け落ちするのを、手伝ったのだ。この人にとっては殺したいほど憎い相手に違いない。
 新の物思いを破ったのは、直樹の問いかけだった。

「この都市には、たしか海岸近くに要塞があったはずだが」
「あそこじゃないでしょうか」
 海岸近くに建つ、松林に囲まれた白亜の建造物を指差す。ほうと直樹は頷いた。
「旧市街地からは離れたところにあるんだな。いや、当然か。海からの敵襲を防ぐために建設されたんだったか」
「ええ。この都市は11世紀頃、海を隔てた都市国家と敵対関係にあったそうです。きっと海賊の襲来も防いできたのでしょうね、市街地を囲む高い城壁も見事なものだ」
 新は言葉を切った。まじまじと自分を見つめる配偶者を見上げる。
「あの。なにか」
「いや……」
 どうしたんだろう。自分はそんなにおかしいことを言っただろうか。歴史は専門じゃないけれど、この都市が海上交通の要衝なのは、この地を題材にした本を何冊か読んだから知っている。直樹は何か言いかけて口をつぐみ、少し考えて今後の予定を口にした。
「まずは旧市街地にある宮殿や大聖堂を観光するとして、時間があれば要塞まで足を伸ばしてみないか」
「行きたいです」
 勢いこんで言うと、直樹は驚いた表情を見せた。新はハッとした。しまった、直樹に新婚旅行には他の人と行くように勧めておいて、本当はとても楽しみにしていたことを気づかれたに違いない。やっぱりお前とは出歩きたくないと言われてしまうだろうか。もしそう言われたら……。想像だけで気持ちがしおれて俯いてしまう。
 不意にぽんと大きな手のひらを頭に乗せられて、新はおずおずと直樹を見上げた。相手は面白そうに新を見下ろしていた。その眼差しに、羞恥心が一気に湧き上がった。
 浮かれてしまったのも、それをこの人に見られてしまったのも、恥ずかしくて仕方なかった。新は普段、感情を隠して生きている。ここまで無防備に自分をさらけだしたのは、久しぶりだった。きっと子どもみたいだと思われたに違いない。
「俺は地理にも歴史にも興味がないが、新は詳しそうだ。色々と教えてくれ」
「はい」
 頷くと、大きな手のひらが新の髪を撫でる。その感触に、14歳のとき園遊会の人混みに酔った自分を、直樹が介抱してくれた思い出がよみがえった。皆は冷血な男だと言うけれど、この人の本質はこんなにも優しい。彼と新婚旅行に来られてよかった。もう少しだけでいい、この人と一緒に過ごせるなら……。

 踵を返して、直樹が先に部屋に入る。その広い背中を、新は切なく見送った。

◇◇◇

 直樹を追って部屋に戻った新は、広くて豪華な部屋を見回した。スーツ姿のまま、ビロードのクッションが置かれた座り心地のよさそうな大きいソファに座り、そのまま座面にこてんと寝転がる。普段なら絶対やらない子どもじみた振る舞いに、苦笑が込み上げて、それはやがて物悲しさへと変化した。
 職場ではこんな真似はできない。それ以外のパブリックな場所では、新は『中野家の次男』として、誰にも誹謗中傷の種を与えないよう、注意深く生きてきた。家族以外の人間がいる場所で、こんなふうに警戒心を脱ぎ捨てたのは久しぶりのことだった。もう少しこうしていたい。そう思ったけれど、スーツのジャケットに視線を落として溜め息をついた。こんな格好をしていたら、スーツが皺になってしまう。
 未練たっぷりに体を起こして立ち上がり、カジュアルな服に着替えるために、他の部屋に通じるドアを開けた新は息を呑んだ。
 そこは寝室だった。
 大きなキングサイズのベッドの上に、白いシーツで作られた二羽の白鳥が飾られ、シーツの上には濃いピンクの花びらがハートを描いている。その飾り付けがどんな意味を持つかわかりすぎて、新は赤くなって目を逸らした。
 直樹とは、結婚式後にセックスしたけれど、あんなの彼にとっては、ただの復讐でしかない。もう二度と関係を持つことはないとわかってるのに、あからさまに性の匂いのするベッドを見せられて、心が揺さぶられた。
 気を取り直してクローゼットを探そうと、また別のドアを開ける。そちらはバスルームだった。併設されたガラス張りのシャワールームで直樹が湯を浴びていた。その後ろ姿に、新は視線が釘付けになった。
 真っ直ぐ伸びた背筋、引き締まった尻、腰から伸びる長い脚、何もかもが男らしい性的魅力にあふれている。
 視線に気づいたのか、シャワーを浴びていた結婚相手が振り返る。
「失礼しました」
 慌てて新はドアを締めた。寝室を飛び出して、ようやく見つけたクローゼットを開け、スラックスとリネンシャツというカジュアルな服装に着替えた。
 ソファに座り、右手で口を押さえた。顔が熱い。初夜のときはそれどころじゃなかったから、後ろ姿とはいえ彼の裸の全身を見たのはさっきのが初めてだった。
(あんな体してるんだ)
 考えるまいとしても、初めてのときのことを思い返してしまう。あのたくましい腕に、シーツの上に押さえつけられた。それからあの膝に閉じた脚を割られた。身動きできない自分に、彼の顔が近づいてきて――。

(バース性問わず、男はお前が初めてだ。当たり前だろう、女のオメガがいくらでも寄ってくるのに、わざわざ男としたいなんて思うか。気持ち悪い)

 気持ち悪い。
 直樹の言葉がよみがえって、鼻の奥がつんと痛くなった。当然だ、好きじゃない相手から性的な目で見られるなんて、不快に決まってる。そんな目で見ないようにしたいけれど、自信はなかった。身近に父や拓海がいて免疫がついているから、アルファ男性から誘惑されても上手く躱してきたけれど、直樹はあまりにも魅力的すぎる。側に来るだけで鼓動が早くなるのに、同じベッドで寝るなんて無理だ。
 新はソファに仰向けに寝転んで、真っ白な天井を見つめた。
 ベッドは直樹に使ってもらって、自分はここで寝よう。新婚旅行中、一緒に外出する時しか顔を合わさないようにしたら、これ以上嫌われなくてすむだろうか。
 考えれば考えるほど苦しくて、新は右腕で顔を隠した。
 父が言っていたとおり、損害賠償請求を受けて、金で解決したほうがよかったのかもしれない。でも直樹が寝取られ男として嘲笑されるのは耐えられなかった。自分と結婚すれば、すくなくともそんな中傷は消える。

 ……いや、違う。
 兄の身代わりでもいいから、あの人に抱かれたかった。

 腕で顔を隠したまま、深い溜め息をつく。
(馬鹿だ。恋に狂って判断を間違えて、結局、直樹に不快な思いをさせてしまった)
「疲れたのか」
 落とされた言葉に、新は勢いよく上体を起こした。近づいてきた直樹は、ネイビーのシャツにウォッシュドデニムという、リゾート向きの服装に着替えている。ざっと後ろに流した濡れた髪に男性的な色香が滲んでいて、硬そうな黒髪に指を通したくなった。
「昼寝したいならベッドで休むといい」
「いえ。ベッドはあなたが使ってください。俺はここで寝ます」
「どういう意味だ」
 低い声にアルファの恫喝の響きを感じ取って、本能的に体がすくむ。それでも新は言葉を続けた。
「俺がいたら、気持ち悪いでしょう。ここで寝るのも、風呂を共用するのも嫌でしたら、別に部屋を取りますから安心してください」
「気持ち悪かったら、旅行に連れてこない。旧市街地の観光案内をしてくれるんじゃないのか」
「一緒に行って、いいんですか」
 信じられない気持ちで、新は尋ねた。
「行きたくないのか」
「行きたい。行きたいです」
 勢いこんで言うと、直樹はクッと息を詰め、我慢できずに声を上げて笑った。きょとんと見上げる新の額を、人差し指で軽く押す。
「俺と出歩くのが嫌なのかと思った」
「まさか、そんなわけ」
「なら決定だ。ただし、疲れてるなら遠慮なくそう言うように」
 命令口調なのに声音が優しい。新は無言で手を伸ばした。その手を掴まれて立ち上がらされる。
「長旅の後だ、無理はするな。焦らなくても街は逃げない」
「はい」
 街は逃げないけれど、時間は逃げる。休むなんてもったいなかった。この人といろんなスポットを観光して、少しでも長くデート気分を味わいたい。
 ずっと手を繋いでいたかったけれど、嫌われたくなくて、新はそっと手を離した。



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