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第3話 記憶の泡

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 あまりにも多くのことがありすぎた1日だった。結婚式そのものも疲れたけれど、その後の直樹との初夜は、何もかも未経験の新には負担が大きすぎた。
 意識がゆっくりと沈んでいく。無意識の海にいくつもの過去の情景が泡のように浮かんでいるのが見えた。

(律。お前のフェロモンを分析した結果、最も適合率の高いアルファは木南直樹だった)

 覚えてる。これは律の婚約者選定のときの情景だ。
 沈痛な表情で告げる父の顔も、それを聞いて血の気が引いていく兄の顔も、兄のすぐ近くに控えている拓海たくみが怖いぐらい無表情なのも、よく覚えている。
 自分は息ができなかった。「どうして」とも思ったし「やっぱり」とも思った。密かに直樹の情報を集めていたから、どれほど経営者としての素質に優れているかは知っていた。彼なら中野家家長の配偶者になれるだろう。
 財界では珍しいことに、中野家ではオメガが当主だ。家長となるオメガは、中野家を背負えるだけの経済的手腕のアルファと結婚する。対外的には『経済界の怪物』と呼ばれる中野忠彦が家長だと思われているが、中野家の家長はオメガ男性で、新と兄の律の母である中野しゅうだ。
 中野柊は、二人の子どもを産んだとは思えない、くっきりした目鼻立ちの五十代の男だ。長い脚を組んで家長の椅子に座っていた彼が、すっと右手を上げた。忠彦は無言でその斜め後ろに控えた。蒼白な律が一歩前に出て、家長の言葉を待つ。
「律。お前の役目はわかっているな」
 柊に低い声で尋ねられて、律は一瞬苦痛に顔を歪め、小さな声で「はい」と返事した。
 直樹の名前が出たときから、それよりずっと前から、こうなる予感はしていた。それなのに苦しくて目の前が真っ暗になる。ゆっくりと呼吸を繰り返し、両親と兄に目の焦点を合わせた。気づくと、家族全員と拓海が新を見つめていた。
 オメガの兄が震える声で、「ごめん。新」と囁いた。
 兄は悪くない。そうわかっているのに、新は返事ができなかった。

 無意識の海を漂う新の前に、また異なる景色の泡が浮かんでくる。

(やはり俺には、この結婚は受けられない。拓海とこの家を出るよ)

 これは兄から、「拓海と駆け落ちする」と告げられた夜の記憶だ。
 いつもおっとりしている兄が、別人のように顔を強張らせていた。その後ろに立つ拓海は言い訳一つしなかった。
 どうして今頃になって!と兄の肩を掴んで揺さぶりたかった。木南直樹とは何度も顔合わせして、式場や招待客の打ち合わせも済ませ、もうすぐ来賓に招待状を送る手筈になっている。無理なら無理で、もっと早く結婚話を拒否していたら、あの人を傷つけずに済んだのに。そう叫びたくて、でも拒否できなかった兄の気持ちもわかってしまって、新は自分より華奢な兄の体を強く抱き締めた。
 兄が恋をしている相手が拓海なのも、拓海も兄を深く愛していることも、けれど拓海に経営者としての才能がないから結ばれる未来はないと覚悟して、互いに何も言わないでいることも、ずっと二人の近くにいた新にはわかっていた。
 アルファ性が強すぎて、ベータの両親と上手くいかなかった拓海が、中野家に引き取られることになった経緯はよく知らない。「この子の名前は拓海だ。今日からお前たちの護衛として一緒に住んでもらうことになった」と父から紹介された時、拓海も律も互いに目を見張った。そして無言で軽く会釈した。思えば二人は、あの頃から魅かれあっていたのかもしれない。
 抱き締めていた兄から離れた新は、拓海に尋ねた。
「拓海はいいのか、駆け落ちの相手が兄さんで。この人、すごく不器用だよ」
 冗談ぽくアルファの側仕えに尋ねる。彼はまったく表情を変えずに言った。
「お前には迷惑をかける。すまない、新」
「いいよ。拓海には何度も助けてもらった」
 何故か笑いが漏れた。新は拓海も強く抱き締めると、手元にある金を全て二人に渡した。
「どんなニュースを聞いても、連絡してくるな。絶対に幸せになれ」
 新の言葉に律が涙を流して頷く。二人は警備の隙をつき、夜闇にまぎれて家を出た。新はその後ろ姿をいつまでも見送った。

 また別の記憶の泡が、新の前に浮かんできた。

(なるほど。つまり俺は寝取られ男というわけだな)

 直樹の苦痛に満ちた声と自嘲の笑みが、新の心をえぐった。これは過去の記憶だとわかっていても、彼を苦しめるぐらいなら、自分が消えてしまいたい。木南直樹が経営する企業の社長室での会見だった。婚約者に捨てられた恨みを憎しみに変えて、彼がこちらを睨みつける。
「それで? 婚約破棄の慰謝料が惜しいから、そこのベータ男を身代わりに差し出すのか。うちは廃品回収じゃないんだぞ」
 金を惜しんで息子を差し出すんだろうと言われて、謝罪に来た父のこめかみに青筋が立つ。いけない。新は慌てて口を挟んだ。
「違います、慰謝料惜しさではありません。父さん、お願いだから木南社長と二人で話をさせてほしい」
「新!」
「いいから」
 何か言いかけた忠彦に、直樹が声をかけた。
「これから結婚しようと言うんだ、父親抜きで言いたいことがあるなら聞いておきたい。お前も誰かと駆け落ちの予定があるのか? それとも隠し子がいるとか、性病持ちだとか」
 あからさまな挑発にぐっと言葉を飲み込んだ父を、新は無理やり部屋から追い出した。ドアを閉めて、木南直樹に向き直る。少しやつれた彼を見て胸がいっぱいになった。相手が自分のことなんて忘れていても、二人きりで話ができるのが嬉しかった。深呼吸して話す。
「お怒りはごもっともです。俺と結婚するかどうかは、木南社長に選択権がある。その前提の上で、俺と結婚するメリットをお聞きください。まず、あなたに対する『婚約していた運命の番に、逃げられたアルファ』という不名誉な噂話を払拭することができる」
「噂じゃない、事実だ」
 新はその言葉を無視した。
「それに俺と結婚している間は、中野グループの経営に携わることができる。父がどのように中野グループを繁栄させてきたのか、そのやり方を間近で観察して学ぶことができます」
 直樹の目の色が変わった。
「続けろ」
 新は一つ一つ、この結婚における直樹のメリットを数え上げた。数え上げるたび相手が真剣に聞き入り、的確な質問を返す。できる限り誠実に返答すると、少しずつ相手の自分を見る目が変わってくるのが感じられた。
「あなたが性病の感染を恐れるのは当然です。ブライダルチェックを受けて、結果をできるだけ早くお渡しします。その代わり、互いに婚姻の無効を申し立てることのないよう、必ず一度は俺と性交渉を持つことになる」
「俺が突っ込む側でいいんだろうな。ベータの男とセックスなんてできる気がしないが」
 じろじろ見られても、新は動じることなく相手の視線を受け止めた。兄の律とフェロモン適合率を鑑定した時点で、木南直樹の身辺は調査済みだ。彼のセックスの相手が異性に限られることは知っていた。
 向かいのソファから立ち上がったアルファが、肉食獣のように優雅に歩いてくる。ソファに座ったままの新の顎を掴んで上向かせると、不躾な眼差しで品定めした。冷え切った眼で見られているのに、間近で好きな人と顔を合わせることができて、切ない恋情が湧き上がる。
「まあ不可能じゃない。ベータにしては整った顔をしている。……律に似てるな」
 兄に似てる。
 心臓を一刺しされた気がした。そんなことは言われるまでもなく知っていた。兄狙いのアルファたちから、何度も同じことを言われてきたから。所詮自分はただのベータで、オメガで次期家長を継ぐ兄の代用品だ。
「最初に申しましたが、慰謝料を受け取るか、俺と結婚するかの選択権はあなたにあります。ご検討ください」
 ぎりぎりと心が痛むのを押し隠して、新は表情も口調も変えずに会見を終えた。

 いくつもの記憶の泡が浮かんでくる。
 あれはもっと昔、まだ兄が拓海を「拓海くん」、自分が「拓海さん」と呼んでいた頃、兄が片思いの相手の拓海に食べてもらおうと、ヨーグルトムースを手作りしたときの姿だ。
 懐かしさに新の口元が緩んだ。
 兄の拓海へのつたない好意の伝え方も、拓海がその好意に気づかないふりをしようとするのも、どちらも自分より年上なのに可愛くて切なくて、新は兄の手伝いをしながら、二人を見守ることしかできなかった。

 次に見えたのは、三人が中高一貫校の男子校に通っていたときに起きた事件の記憶だった。拓海と引き離されたオメガの兄が、何人ものアルファに襲われかけたとき、新は律を隠れさせて、自分が囮になった。走り回ってアルファたちを引き付けたのはよかったけれど、数で優る彼らに服を脱がされ、危うく強姦されそうになった。無事だったのは、追いついた拓海が全員を半殺しにしたからだ。あの時の必死な表情の拓海はおかしかった。自分はただのベータだ、弟だとわかったら解放されるから大丈夫と言ったときの「ハァ⁉」という口調も、呆れた眼差しも忘れられない。あれ以来彼は兄に対してだけでなく自分に対しても、やたら心配性になった。そして自分たちはお互いに呼び捨てで呼ぶようになって……。

 たくさんの記憶の泡が無意識の海の底から浮かび上がってくる。嬉しかった記憶、悲しかった記憶、数多くの記憶の奔流に振り回されて、意識が過去へと落ちていく。
 新は、ひときわ輝く記憶の泡に引き寄せられていった。


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