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三幕
17 時渡りの姫巫女
しおりを挟む姫巫女がやって来るという日、ヴォルフは迎えのため村の代表の一人として村の入り口近くで待機していた。手の空いた村人達も一目姫巫女を見ようと集まっている。
天上の存在のような時渡りの姫巫女が来るというのだ、誰もが興味津々と言った様子である。
そこへ予定通り馬車が来た。
まだ道が所々狭いところがあるために、馬車自体は小さな物であったが、過剰にも見える警備からすると確かに姫巫女がそこに乗っているのだろうと判断できる。
グレンタールの出迎えの参列の中、ゆっくりと馬車は進む。
小さいが決して粗末ではない馬車を、ヴォルフは奇妙な感慨と共に見つめる。
これに舞で謳われた伝説の姫巫女が乗っているのだと思うと、不思議な気がした。ならば剣士はどこだと思って辺りの馬上の兵士などを見るが、今ひとつぴんと来ない。
馬車はそのまま集会所として建てられた建物に向けて進み、今回の神殿との交渉の代表者であるヴォルフの前を通り過ぎようとした。その時だった。
「止まりなさい!」
突然りんとした声が馬車の中から響き、ゆっくりと進んでいた馬車がぴたりと止まった。
この声は。
ヴォルフは先ほどまで持っていた関心とは全く違う感情を持って、止まった馬車に目を向けた。止まった馬車からなにやらやりとりが聞こえるが、その中の一つの声に集中して耳を傾ける。
それはよく知っている声にひどく似ていた。けれど、少し違う。あの愛しい娘は、もっと柔らかい声で話す。そして、もっと軽やかに、愛らしく。
ましてや、あんな場所から聞こえてくるはずがない。神殿の馬車から、など。
ヴォルフの思考は混乱と期待にめまぐるしく働く。
耳に届く声は、彼の心をかきたてるように二年以上前の記憶を呼び起こしていた。心に刻まれた唯一人の声をよみがえらせるのだ。
けれどヴォルフの知る彼女は神殿に好んで関わるような娘ではなかった。誰からも愛されて、けれどごくごく平凡に、慎ましやかに生きていくことが似合う、そんな娘だった。
それ故に、そんなはずはないと、違う声だと理性は訴える。
けれどまるで本能が求めるように、心が、体がその声の主を求めていた。ヴォルフの耳は研ぎ澄まされて、その声を一つ残らず聞き取ろうとし、目はその姿を見たいとはやる気持ちを表すように馬車を凝視している。心はその中から声の主が愛しい者の姿をして現れるのではないかと渇望する。
中の騒ぎを聞きつけた神官が馬車の前で慌てたように叫ぶ。
「姫、いけませぬ!!」
「姫巫女様!!」
馬車の中でも悲鳴じみた声がする。けれどそれに、りんとした声が一喝してその声を押しとどめた。
「誰に命令しておるか! 私の動きを邪魔するなど誰が許した! 離しなさい!」
悲鳴と共に、馬車の扉が開いた。
まず見えたのがさらりと揺れる金糸の髪だった。
鼓膜まで揺れるほど激しく打っていたヴォルフの心臓が、一際強く胸を打つ。
それは確信だった。
同時に込み上げてくるのは歓喜と興奮。
「ヴォルフ様!!」
愛しい声がした。それは間違いなくずっと求め続けていた、とても愛しい声であった。
ヴォルフの目に飛び込んできたのは、姫巫女の衣装を纏い紫紺のヴェールを纏った、麗しい妙齢の女性。
その姿を認めた瞬間、それは声も出ないほどの衝撃となってヴォルフを襲う。
今にも泣きそうな顔をした美しい姫巫女が、今にも転んでしまうのではないかと思うほどの勢いで彼に向けて駆け出した。
「ヴォルフ様……!!」
ヴォルフの世界の全てが消えた。彼女以外の全てが見えなくなった。
求め続けていた愛しい存在が、自分にめがけて駆け寄ってくる。
彼女が、真実、彼の名を呼ぶ。
夢ではないのだ。どれほどこの時を切望していただろう。
「リィナ!」
ヴォルフはただ彼女を求めた。
きらめく翡翠の瞳も、ゆれる金色の髪も、あまりにも幻想的で美しく、夢のような存在に思えた。けれど彼女のその姿は確かな質感を伴ってヴォルフの目を鮮やかに彩る。
ずっと待ち続けていた彼女がそこにいた。あまりにも愛し過ぎて、幻でも見ているのではないかと現実を疑った。
けれど幻と言うには、あまりにも美しく生命力に満ちた存在だった。
最後に別れた時より美しく成長した彼女だったが、名前を呼ばれると嬉しそうに笑った満面の笑顔は変わっていない。
「会いたかった……!!」
涙に濡れた笑顔が腕の中へと飛び込んでくる。
「……リィナ!!!」
小さな体を受け止めて、その存在をただ確かめた。
確かに彼女だった。ヴォルフが待ち続けていた存在だった。
小さな体を抱きしめて、腕の中から消えない事を確かめる。背に回る彼女の腕の感触が、確かに彼を求めていると感じさせる。
なぜ、リィナが。なぜ、神殿の姫巫女となって。
疑問が浮かぶが、しかし、それさえももはやどうでも良い事だった。
「リィナ!! リィナ……!!」
その存在が本当に確かな物なのかを体全体で確かめた。
現れた姫巫女の突然の暴挙に、その場にいた誰もが何が起こったのかも分からず、呆然として動けなくなっていた。
ただ、彼らの目の前で逢瀬を果たした恋人達が、その再会を確かめ合っている。
「君は、こんなに美しかっただろうか……?」
囁きながら少し身を離し、ヴォルフはコツンと額を付き合わせる。リィナが腕の中でクスリと笑った。
「ちょっとは大人っぽくなったでしょう? ヴォルフと離れてから、三年近くも経ってしまいましたから」
「それは奇遇だな。俺も、君が戻ってくるのを三年ほど待った。上手に帰ってこれた物だ」
互いに少し年を経たその顔を確かめるように見つめ、触れ合う。
頬に触れた指先の感触がくすぐったかったのか、リィナが肩をすくめて笑う。
「もう、子供扱いは、されずにすみますか……?」
「俺は、君に結婚を申し込んだときには、もう子供扱いはしていなかったつもりだけどな」
首をかしげたヴォルフに、リィナは少しだけ眉間に皺を寄せる。
「でもときどき「おちびちゃん」って呼ばれていました」
それから、と呟いて、黙って胸元を押さえていたたまれなさそうに目を逸らすと唇をとがらせた。
「そうやってむくれるのがかわいかったんだ。許してくれ」
と言ってから、ちらりと押さえられた胸元に目をやる。
「ついでに、その辺りは、ちょうどそのくらいが俺の好みだ、……という事にしておこうか?」
からかう口調に、リィナが「もう!」っと小さく叫んでから、何とも納得の行かない微妙な表情で胸元とヴォルフを見比べる。
その様子を見て声を上げて笑った後、愛おしそうに眼を細めるヴォルフに、ややあってリィナがつられるように微笑みを返した。
「これからは、ずっと、ずっと一緒です」
そう言ってヴォルフに身を寄せたリィナを、彼は心配そうに見つめる。
「……神殿の方は、大丈夫なのか?」
リィナが神殿の姫巫女としてやってきている事実をヴォルフは忘れていなかった。この状況がどういう事なのかを把握しようとしている警護の者達の存在も。何よりヴォルフも状況を今ひとつ理解できていないのだ。
リィナが神殿の姫巫女となっているのなら、いつ引き離されてもおかしくない。一度はそれが原因で引き離されてしまったのだから。ヴォルフが不安を覚えるのも無理もなかった。
けれどリィナは大丈夫ですと肯いてから、背伸びをして屈んだ状態のヴォルフにこそっと耳打ちをする。
「神殿が私に逆らえないぐらい、偉そうな態度を身につけてきましたから。三百年先を見てきた姫巫女っていう立場は絶大なんですよ! だから私が時渡りの姫巫女の名前のご威光で、私はここにいなくちゃいけないって宣託したから一発です!」
クスクスと笑いながらささやくリィナに、ヴォルフも思わず笑いを漏らす。
「すごいな。俺の姫巫女はいつの間にそんな技を身につけたんだ?」
偉そうな態度一つで神殿が従う事はない。そんな小さな組織ではない事は明らかだ。それだけの立場になるためにリィナがした努力や苦労をヴォルフは思う。
けれど、ヴォルフがグレンタールを開くに辺りどれだけ苦労したかなど言うつもりがないように、リィナもおそらく言う事はないだろう。
労る代わりにヴォルフは「逞しくなった」と楽しげに笑った。するとリィナも威張るように胸を張る。
「ヴォルフに会うためなら、何だってします。……それでも、万が一の時は、共に三百年を渡ってきた剣士としてヴォルフのことも、使わせて下さいね。私よりヴォルフの方が元の時代のことに関しては詳しいのですから。使える物はしっかり使いましょう」
リィナの物言いに、彼は小さく吹き出した。そしていかにもまじめくさった顔をして、恭しく彼の姫巫女に礼を取る。
「もちろんだ。俺は、姫巫女守るために存在する剣士だからな。君のそばにいるための労力は、惜しまないさ。なあ、俺の姫巫女?」
久しぶりに聞く「俺の姫巫女」というからかいの言葉に、リィナが泣きそうな笑顔を浮かべた。うれしさと、切なさが混ざったような、複雑な笑顔だった。
「ほんとに、姫巫女になっちゃいました。ヴォルフは、これからも私の剣士でいてくれますか?」
そういって向けられたのは懇願でも確認でもなく、許しを請う瞳だった。それはヴォルフはこれからも自分と居るのだと信頼しているからこその言葉だった。そして同時に、リィナが姫巫女として生きていくつもりでいるという事でもあった。グレンタールで二人で生きていくというのなら、もう、リィナが姫巫女の地位から降りることは不可能だろう。
彼女のまなざしをうけて、望むところだ、とヴォルフは思う。それが彼女の選んだ道ならば、その覚悟があるのなら、それで良い。
「君の剣士役を他の誰かに譲る気はないからな。俺が必要な時はいつでも頼れ。俺が君を守る。覚えているか? 村を出る時に約束しただろう? 君への誓いは変わることはない」
躊躇いのない穏やかな声だった。
けれどリィナは苦しげに呟く。
「私達が、二度と、三百年先の時代に戻る事が出来なくても?」
その言葉を言うのがどれだけ辛かったのだろう。
許してくれますか、と切なげに見つめてくる彼女に、ヴォルフはは愛おしげに眼を細めた。
「君さえ、そばにいてくれるのなら、どこでもいい」
偽りのない本心だった。元の時代への郷愁さえ、リィナへの渇望に比べればささやかな物だった。彼女を失っていたこの三年近い年月、彼は元の時代に戻りたいなどと思った事はない。ただ、彼女が戻ってくるのを待つばかりだった。リィナがいないのなら、どこの時代にいようと同じだったからだ。彼女の居る世界こそが、ヴォルフの生きていく場所だ。
リィナさえいればどこででも、生きていける。
「ヴォルフ」
涙をこらえながら身を寄せてくるリィナを、ヴォルフは柔らかく抱きしめた。
離れていた時間を埋める必要がないほどに、互いの気持ちが手に取るように分かり、信じられた。寂しさも苦しさも全てが埋まったように、共にいられることが当たり前のように感じられる。再会すら、特別なことではないかのように。
必要なことは、二人の時間が再び重なったことだけだった。これから二人で生きていける未来がある、それだけが今大切な全てだった。
「ところで俺に敬称を付けるのは、意味があるのか?」
わざとだろう? と、ヴォルフが首をかしげる。
「私が偉い人なので、更に偉い人って思ってもらうためです。神殿がグレンタールの言葉を蔑ろにしないための予防線です」
その言葉に虚を突かれて、ヴォルフは楽しげに口端をゆがめた。
「策士だな」
「時渡りした先で、鍛えられました」
今より百年以上も前ですよ、とか、本物の時渡りの姫巫女に鍛えられましたとか、そんなに時を渡っていたのか、とか、よく戻ってこれたな、とか。
二人だけにしか聞こえない小さな声のやりとりは続く。
顔を寄せ合ってこそこそと小さな声で話しながら、離れていたときなど無かったかのように、二人は自然に寄り添い合っていた。
その間、誰も動く事も出来ずに長い間その様子を呆然と見ていた。
姫巫女の厳しい表情しか見たことの無かった神殿の者達は、柔らかな笑顔で当たり前のように男に信頼をあずけている様子の彼女の姿に呆然としていた。
この姫巫女は気高さと威厳を纏い、突如現れたのちは、この若さで瞬く間に神殿に君臨したほどの女傑だ。可憐な容姿に似つかわしくないその威厳に、待ち望んだ時渡りの姫巫女の出現にもかかわらず、神官達は舌を巻いた。そしてわずか半年足らずで神殿内を掌握し、その立場を確立したのだ。その彼女の名は未だに誰も知る事すら許されていなかった。
それが小さな集落の青年に敬称を付け、名を呼ぶ事を赦し、気安い態度を許しているだけでも衝撃的な事である。しかも相手は、小綺麗にしているとはいえ異国民が大半を占める出来たばかりの貧しい村の青年である。自分たちが見下していた者を、最も上に君臨している姫巫女が丁重に扱い心を許している。姿通りに愛らしげに笑みをこぼしている。
とはいえ、そう思ってみると身なりは質素な物だが、青年の立ち振る舞いは決して粗野な物ではなく、上位の騎士といわれてもおかしくないほど洗練されて堂々とした物で、姫巫女の隣に立つ姿に不自然さを感じない。それどころか似合いといってもいい二人の姿に、神官達はつい声をかけることを躊躇ってしまっていた。それでなくても普段は話しかける事を躊躇ってしまうような、厳しく恐ろしい姫巫女である。楽しそうな姫巫女に声をかけて、望んで叱責されに行こうとする者はいなかった。
一方、二人のことを知る村の者達は、何が起こっているのか分からないながらも二人の再会を心から喜びあっている。ある者は目配せをしあい、ある者は手を取り合って、ある者は涙をぬぐいながら。ある者は子供達が邪魔しないように口も体も押さえつけ、二人の逢瀬を見つめている。
リィナの存在を直接知らなかった者達はヴォルフの待ち続けていた妻というのがどうやら姫巫女だったらしいという事に唖然としつつも、愛らしくも美しい姫巫女の姿に、通りでヴォルフが他の女性になびかないはずだと肯きあっていた。
しばらく前にヴォルフに振られたばかりの少女の姿もそこにあった。
あんなの、敵うはずないじゃない。
彼女は唇を噛み締めて二人を見つめていた。
あんな綺麗な人に、敵うわけがない。
心の中で彼女は呟く。
でも負けたのは、姿形じゃない、姫巫女なんて言う高貴な出自でもない。
負けたのは、一番負けたくなかったところだった。
ヴォルフにあんな優しい顔をさせる人に、敵うわけがない。
遠く離れて見ているからこそ、分かることがあった。どんなに笑っていても、ヴォルフはあんな顔をしたことがない。少女は唇を噛み締めたまま込み上げてくる涙をこらえる。
悔しいほどに並んでいる姿が自然で、悔しいぐらい似合っていて。
でも、悔しいけれど、なぜだか、よかったねって思った。あんな幸せそうなヴォルフを見た事がなかったからだ。どこか目を離せない彼の魅力は、何かが欠けているような危うさだったのだと、今なら分かる。欠けていたのは、あの人だったのだ。
誰の目にも似合いの二人が再会を喜ぶ姿に、誰もが一言も発することが出来ないまま、絵画のような一対の二人を見つめていた。
その後リィナは神殿の者達にそして村の者達の前でヴォルフこそ自分の伴侶であると、高らかに宣言して見せた。
間もなくして姫巫女を歓迎する宴が始まった。
奏でられる笛や太鼓の音色に耳を傾けていた姫巫女が、曲目が変わったとたん驚いたように後ろを振り返った。その視線の先には彼女の剣士が控えている。
にやりと笑った剣士に姫巫女は一瞬ぽかんとしてその顔を見たが、すぐにその表情を笑顔に変えた。
この音色はこの村を興した時に剣士が伝えた物だった。そして姫巫女はその音を知っていた。
これは、二人のための音。
懐かしさが姫巫女の胸に去来する。
全てはこの舞から始まったのだ。そしてそれは、二人の人生そのものを紡ぐ物語となるのか。
「ヴォルフ様!」
突然に立ち上がった姫巫女は近くに控える事を許された剣士に向けて、歩み寄り、弾んだ声でその名を呼んだ。
「踊りましょう!」
満面の笑顔をたたえて差し伸べられた手に、剣士が笑って立ち上がり、その手を取る為に踏み出す。
姫巫女の手に飾られた鈴がシャンと軽やかな音を立てた。
「伝えていきましょう、私達の、舞いを……!」
「ああ」
姫巫女の言葉に、剣士がどこか懐かしむように微笑んで応える。
差し出された姫巫女の手を、彼女の剣士がしっかりと握った。
つながれた手を、二人が深い感慨をたたえた瞳で見つめている。もう、離されることはないのだと確かめるかのように。
彼女の手の鈴が、再び音色に合わせてシャンっと澄んだ音色を響かせた。そんな姫巫女を剣士が愛おしそうに見つめている。
二人は音色に合わせて物語を紡ぐ。
遠く、三百年先へと繋がれて行く物語を。
もう二度と会う事のない時の彼方の人たちへ、彼らに繋がるよう祈りを込めて。
舞いは伝える。姫巫女と剣士の物語を。そして二人が込めた思いを。
たくさんの笑顔と手拍子に乗せられるように、二人が軽やかに、時に切なさをのせて、時に愛おしさを乗せて舞う。
時の流れに隔たれて遠く離れていた恋人達が、舞いながら再会を喜ぶ。
それを見ていた誰もが、姫巫女と剣士と、そして美しい舞とに酔いしれた。
剣士と姫巫女によって開かれたグレンタールの歴史が、今、動き出した。
時が過ぎ、その物語は、少しずつ形を変えてゆきながら伝えられ――……
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