時渡りの姫巫女

真麻一花

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二幕

11 変化6

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 けれど、そんなリィナの感情とは裏腹に、表だけを取り繕った日常は変わらずそこにあった。

「いつも私が糸を卸してもらっているダレイオスさん、ようやくこっちに戻って来たらしいんです」
「ああ、そういえば、出たのは三ヶ月ぐらい前じゃなかったか? 長かったな」

 今日あったことをいつものように話すリィナに、ヴォルフが相づちを打つ。以前話したことも覚えてくれていたようだ。

「やっぱり、エレイネ川での戦でなかなか運河まで入れなかったって」

 だろうな、とヴォルフが頷いた。情勢については、リィナも少しはヴォルフから話を聞いている。
 今、大河を利用した水運は命がけとなっていた。戦自体はひとまず停戦となっていたが、船を襲う賊が多発し、コルネアの水軍が護衛をしていても狙われて沈没することがあるのだという。しかし物流が滞れば当然それはそれで死活問題になる商人達は、何とか戦の合間を縫って貿易をしている状態であった。

「今、奥さんも子ども達もエドヴァルドに足止めされている状態だし、無事で戻ってこれて良かったねって話してたんですけど、戻るときに安全を優先して船を小回りがきくよう小さくしたせいであまり量を卸せないらしくって。仕入れてきた品物が次からの卸値は倍以上になるらしいんです」

 それを購入するリィナにも厳しいが、それ以上に厳しいのが彼らだろう。不安を口にすれば、ヴォルフが「大丈夫だ」と優しい声で返してくる。

「俺が知る限り、過去にコルネアの水運が壊滅的な被害を受けたのは、グレンタールが出来る直前だけだ。今がそれ以外の時代ならそのうちに落ち着く。もしもっとも厳しい三百年前なら一度大きな被害は受ける事になるがすぐに陸路での交易が盛んになる。厳しい時期に入っているが、どちらにせよ必ず落ち着くさ」

 リィナを安心させるための言葉は、リィナの胸に優しく響く。
 今なら、と期待して顔を上げた。目を合わせてもらえるのではないかと。そして笑いかけてもらえるのではないかと。
 一瞬だけ、ヴォルフと目が合った。優しい心配するようなヴォルフの青灰色の瞳。薄い色とは裏腹に優しいあたたかな色をしているそれは、目が合ったと思った瞬間、ゆっくりと逸らされた。
 浮きたっていた心が、みるみる色を失いしおれて行く。

 いつも、こうだ。
 いつも通りと勘違いしそうなほどに、時間は自然に過ぎて行くのに。
 時折感じるヴォルフとの距離さえ自ら上手く取っていればリィナもとっさに動揺したり苦しくなったりせずにすむから、外から見れば本当に変わりないように見えるだろうと思う。
 けれど、こうしてたまらなく現状を突きつけられるのだ。
 心情としては、いつ割れるやもしれぬ、薄い氷の上を歩いているような物だった。慎重に、壊れないように……何気ない会話に緊張をしてばかりいる。こわくてたまらない。
 だからヴォルフと離れている間は寂しい反面、ほっとする。彼がいないと不安は募るが、取り繕う精神的負担は少ない。
 何とか表面上取り繕っている二人の距離は、リィナの気持ちに反して、少しずつ離れていっているように思えた。




 ヴォルフが夜に家を抜け出すようになって二月ほど過ぎただろうか。
 リィナはぼんやりする頭で窓の外を見た。開け放った窓の向こうに、高く昇る月を見る。

 眠れない。

 最近、ヴォルフが連日で家を抜け出しているのに気付いていた。
 家の中がしんとして物音一つ立たないのは、寝静まっているからではない。リィナ一人きりだからだ。
 暗闇に一人取り残されたような静けさを感じる。
 今夜もまた月明かりだけが灯された薄暗い部屋の中で、シーツを抱きしめていた。何かを掴んでいないと、自分の中の欠けた何かを強く感じさせられ、そこに寂しさが入り込んでくるような感覚に陥るのだ。
 シーツをぎゅっと胸に押しつけるように抱きしめ、眠いのに眠れない苦しさに耐える。
 彼が家を出た日は、ずっとそうだった。彼が帰ってきてから眠りにつく。朝は何とか起きるけれど、昼間に居眠りをすることも多くなった。
 リィナの顔を見ようとしない彼は、彼女の寝不足にさえ気付いていない。もちろん、リィナ自身も普段通りに装っていたせいもあるが、以前のヴォルフなら気付いていてもおかしくなかった。
 でも、彼は気付かない。


 先日は品物を卸に行った際、店主の息子のラウスから、最近ヴォルフが来ないが忙しいのかと尋ねられた。
 その時驚いたのはリィナだった。ヴォルフが店の辺りに顔を出してないということも知らなかったのだから。

「来てないの?」

 肯いたラウスに、ズキリと胸が痛む。以前は過保護すぎるほどにリィナを心配して頻繁に彼女の行動範囲に顔を出していたというのに。
 けれどリィナは動揺する気持ちを堪えて、怒ったように口をとがらせる。

「やっぱり、いそがしいのかな。ヴォルフはあんまりそういう話をしてくれないから。いつも平気な顔して」
「相変わらずヴォルフさんは過保護だな。どうせ君を心配させることは言わないんだろ?」

 楽しそうに笑うラウスに、違うと叫びたくなるのをこらえる。知らないくせに、と。ヴォルフが今私を避けていることを知らないくせに、と。
 そんな感情を押し殺してリィナは笑って、それからいかにも納得が行かないフリをして溜息をつく。

「もう少し、信用してくれても良いと思うの」

 ラウスがそうだねと笑った。そして、少し考え込んで、彼が続ける。

「今、ちょっと、エドヴァルドで嫌な噂が流れているから、ヴォルフさんが忙しいのはそのせいかも。ヴォルフさんがいつも言ってるけど、今は本当に一人で町の方には行かない方が良い。リィナは黙っていれば異国の人とは分からないけど、分かればおかしな事を言う人も今は増えているから」
「なにかあったの?」
「……僕は、君たちを相手に仕入れをしているから知ってるけど、町の方では外来の品の値が上がっているのを、その、外来の商人達が吹っ掛けているからだって」
「それはないわ!」

 リィナは驚いて叫んだ。
 この前、ようやくこっちへ戻って来た近所の商人がいかに大変だったか聞いたばかりである。命をかけて品物を運んでいるというのに、そんなふうに言われていると思うと、リィナはたまらない気持ちになった。

「うん、分かっている。エレイネ川の治安の悪さで物流が滞っているから、どうしても高くせざるをえないって。ただ、町の人たちの中には、今の尋常じゃない高騰ぶりに勝手な憶測ばかりで物を言う人もいるんだ」

 リィナは、貿易のために危険と知りながらも、何とか商品を運んできている近所のおじさんやその家族達の顔を思い出す。

「みんな、がんばってるのに」
「うん。でも、そう思い込んでいる人がいて、外来人に怒りを覚えている人たちも居るんだ。中には異国民を追い出せとかいう本末転倒な過激なことを言う人だって居る。だから、本当に気をつけて」

 ラウスの気遣いを嬉しく思いながらリィナは肯く。

「うん、ありがとう」
「あ、でも、そんな人ばかりじゃないからね。君たちが苦労しているのを知っている人たちも、ちゃんとたくさんいるから」
「ラウスのようにね」

 リィナが笑うと、ラウスも胸を張って肯いた。

「もちろん」




 そんな会話をしたのはつい先日の事。
 ラウスとのやりとりを、リィナは身を抱えるように体を小さくして反芻する。
 鬱々とした気分の中、暗闇で思い出したそれらは、全てがリィナを更なる暗い気持ちへと突き落として行く。

 ヴォルフはそんな事を教えてくれなかった。

 ラウスはヴォルフが過保護で心配性だから、と笑っていたが。

 それは、本当に、心配して?

 リィナはそれを疑問に感じていた。心配ならちゃんと言ってくれる人だと思っていた。確かに、前から一人で異人街を出るなとは厳しく言われてはいたが、それでも。
 リィナは頭を振る。気になることが次々とわいて出て来る。
 それよりも……町がそんな状態になっているのに、ヴォルフは、あんなに心配していたのが嘘のように、夜に外へと繰り出している。
 それは、本当に、リィナなどどうでもいいという事ではないだろうか……?
 ぞっと、胃が冷えていくような感覚がした。

 何でもない会話は以前のようにしているが、避けられているという感覚だけは、顕著になっていっている。

 もう、だめなのかな。

 ぽろりと涙がこぼれる。
 ヴォルフ様は、私を大切にしてくれている。それだけは、疑わない。疑っちゃいけない。でも、それがヴォルフ様を苦しめるのなら、きっと、いつまでもその優しさに甘えてちゃダメなんだ。
 だんだんとヴォルフの存在が、遠く離れていこうとしている現実を、いいかげんに受け入れないといけないのかもしれないと思った。
 ヴォルフと離れると思っただけで、胸がきりきりと痛んだ。
 でも、そばにいるのにこちらを見てくれないヴォルフのそばにいるのも、また辛い。リィナには、ヴォルフをこの時代に連れてきたという負い目がある。それを責められているように感じた。
 何もしてあげられないのなら、せめて自分から解放してあげた方がいいのかもしれないと思えた。離れたくないというわがままに、ヴォルフをいつまでも付き合わせてはいけない。彼の優しさに甘え続けてはいけない。
 リィナはゆっくりとベッドから起き上がる。そしてしばらく考え込んだあと覚悟を決めて、部屋を出た。

 暗闇の中に、一つ明かりを灯す。

 今夜こそ、帰ってきたヴォルフと話をしよう。もう、こんな苦しい時間、終わりにしよう。私の為にずっと迷惑ばかりかけてきたヴォルフを、――解放してあげよう。


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