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二幕
9 変化4
しおりを挟むけれど、現状が維持されることを祈るリィナの思いとは裏腹に、ある日、リィナはそれを打ち破る現実に気付いてしまった。ヴォルフが、夜に家を抜け出していたのだ。
先日抜け出したのに気付いた時は、何か用事があるのだろう、という程度にしか思わなかった。あの時はまだ、避けられていることに気付いていなかった為だ。けれど、今となっては状況が違う。彼がリィナを避けていると分かっているのだから。その彼がリィナに何も言うことなく家を抜け出す意味は。考えるだけで身震いがした。
用事があったにしても、なんの理由も言わないというのは、これまでのヴォルフでは考えられないことだった。最初の無言の外出から数えて、今夜で五度目。それはリィナに伝えるつもりはなく、そしてこれからも続くのではないかと想像させるに十分だった。
どこへ? という疑問は、時間が経つごとに、だんだんと不安へと塗り替えられていく。言葉にして問いかけることの出来ない不安は、胸の中に閉じ込めるほどにその闇を増して心を浸食して行くものだ。リィナの心もまた、それから外れることはなかった。
避けられていることを自覚した今、彼の行動の意味を考えてリィナはぞっとする。このまま外出が続けば、そのまま帰ってこなくなる日が来るのではないか、もしかして捨てられたのではないか、と。もしかしたら今日がその日では? ヴォルフは、もう戻ってこないのではないか、と。
ヴォルフがそんな事をするはずがないと頭では分かっているのに、一人で抱え込んだままになっている不安は増すばかりで、ぬぐうことが出来ない。
ヴォルフはそんな事はしない。
自身に言い聞かせながら、身が凍るような長い長い夜を過ごした。眠たいのに思考は冴え冴えとしている。そのくせして考える内容はどこまでも鈍い。そんな時間をどれだけ過ごしたのか、明け方も近いのではと思われる頃になって、ようやくヴォルフが帰ってきた。
見捨てられたわけではないと、力が抜けた。何のためにかは分からないが、きっと用事があったのだろうと思った。そう思いたかった。
ヴォルフが帰ってきたために、再び期待したくなった。
今夜で終わりだと。
けれど、そう望み通りにはなるはずもなく。
やはりヴォルフはそれからも夜中に家を空けることがたびたびあった。連日抜け出す日もあれば、外出を控える日もあった。
どこへ行っているのかは、未だに分からない。
けれど確かに、ヴォルフは家を抜け出している。
「最近忙しいですか?」
リィナが尋ねてきたのは二人で朝食を取っているときだった。
心配するかのような様子で問いかけられた内容を、ヴォルフはわずかな動揺と共に受け止めた。けれどそれをおくびにも出すようなことはしない。
「いや、どうしてだ?」
「朝起きるのが、少し遅くなっています。ちゃんと休んでいますか?」
のぞき込んでくる彼女の瞳を見ることが出来ず、わずかに視線を逸らし、「大丈夫だ」とヴォルフは笑った。
「確かに、少し騒ぎが増えてきているが、大して問題はないな」
夜抜け出しているのをもしや気付かれたのではと思ったが、それ以上リィナがつっこんで聞いてくることはなく、ヴォルフはそのまま逃げるように席を立った。
「それより、今日は少しやる事があるから、早めに出る」
彼女の口元に視線を向け、笑顔を浮かべてその場を誤魔化す。後ろめたさが付きまとい、どうしても彼女の目を見ることが出来ない。
「最近、あまり良くないもめ事も多いから、一人で異人街を出ないようにな」
「そうなんですか? じゃあ、ヴォルフも気をつけていって下さいね」
彼女の唇が笑みを浮かべるのを見て、内心ほっとしながら肯く。
家を出てから、ヴォルフは緊張していた自分の気付いた。
リィナを思う気持ちとは裏腹に、今、彼女のそばにいるのは辛かった。そばにいて欲しいと思っているのに、目を合わせることさえ苦痛だった。
ヴォルフはまだ彼女に話す覚悟がついていなかった。
ヴォルフが出ていった後、リィナは込み上げてきた涙を必死でこらえていた。
話を振ったのに彼は何も教えてくれなかった。
もしかしたらなんでもない理由で、あっさりと話してくれるかもしれないという期待は裏切られたのだ。それは夜のことについて教える気はないと言うことだ。
いつもヴォルフは夜勤の度に夜一人にするのが心配だと言っていた。
なのに、このところ何度一人の夜を過ごしたか分からない。
もう、心配も、してくれないんだ。きっと、もう、私の事なんてどうでも良くなったんだ。
リィナは、ヴォルフが出ていった家の中で一人であることを痛感しながら、そう思った。
ヴォルフ様は、もう、私の事はどうでも良いんだ。
その事を悲しく思う一方で、自嘲する彼女もいた。それが、当たり前なのに、と。
リィナはヴォルフ様を時渡りに巻き込んだ張本人であった。それゆえ今までがおかしかったのだという思いの方が強い。リィナを恨んでもおかしくないヴォルフが、今まで何よりも優先してリィナを守ってくれていたのだ。
でも。
リィナは胸を抱えるようにして丸くなった。
くるしい。こわい。……かなしい。
抑えていた感情が、一人になると溢れてくる。
負の感情に飲まれながら、けれどリィナは首を振る。
違う、と自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
悪いところだけ見ていたら、大切な人の思いを踏み躙ってしまう。
私は、何があっても、私を大切にしてくれているヴォルフ様の気持ちを見失ったらダメだ。私が悪いって泣いたら、ヴォルフ様はまた我慢を繰り返す。例え私を疎ましく思っていても守るべき弱者であるから。そんな思いをさせる真似をしたらいけない。不安を表に出したらダメだ。今のような状態でさえ、私を大切にしようとしてくれている、そんなヴォルフ様の気持ちを忘れちゃダメだ。
リィナは必死でヴォルフの笑顔を思い出す。目は合わなくても、かけてくれる言葉は今でも過ぎるほどに優しい。
大丈夫、ヴォフル様は私を見捨てたりなんかしない。ヴォルフ様は、私を大切にしてくれている……分不相応なぐらい。ヴォルフ様は、ヴォルフ様は……。
口に手を当てて、漏れてくる嗚咽をこらえる。
縋れば縋るほどに、ヴォルフを思えば思うほどに、リィナは浅ましい自分の感情を自覚してしまうのだった。
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