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真麻一花

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囚心

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 くぅん。

 慰めるように、子犬が雅貴の指をクンクンと嗅ぎ、ぺろりとなめる。
 雅貴は大分大きくなった子犬を抱き上げると、実咲と一緒に連れ帰ってきた日のことを思いだした。

「……実咲」

 子犬を抱きしめたまま呟いた。
 部屋を見渡すと、小物一つに、部屋の隅々に、そこにいた実咲の姿を思い出す。
 彼女を、部屋に入れるんじゃなかった。
 雅貴は目を閉じた。
 この部屋に、実咲以外の女性を入れたことは一度もない。人と過ごしたことさえ少ない。
 だからこそ、余計鮮明に実咲とこの家で過ごした時間がよみがえる。

 この家は、実咲の記憶が多すぎて辛い。

 彼女がこの場所に帰ってくるとは限らない。もう、今までのように、楽観的にそれを信じることすら出来なかった。
 なんとしてでも取り返そうと思っていた。けれど、それではダメなのだ、と思えた。「取り返す」などと、自分の物のように考えていたことが既におかしかったのかもしれない。彼女が戻ってくるように画策する……それ自体が、とてつもなく傲慢に思えた。そういう気持ちでいる限り、実咲をまた傷つけるのではないかと思えた。

 もう、実咲を自分の勝手な思いで傷つけたくはない。

 何もかもが苦しくて仕方なかった。耐えきれず雅貴は頭を抱える。
 この家はようやく手に入れた、雅貴の安息の場所だった。まさか、唯一の安息の場所(ここ)でまで居場所がないと感じる事になるなんて、思いもよらなかった。
 こんな事になるのなら、彼女をこの部屋に入れるんじゃなかった。
 実咲のいないこの家は、居心地が悪い。
 実咲のいない生活が、辛い。
 深い溜め息が部屋に響いた。

 ぼんやりとリビングで考え込む雅貴の手を、犬がぺろりとなめた。
 雅貴の表情が和らぐ。
 いつも、この犬たちの存在が、雅貴を守ってくれていたのかも知れない。考えるのをやめると、すり寄ってくるその躰を撫でながら、雅貴は犬に触れ、その存在に癒される。
 初めて拾ってきた犬は去年死んだ。今側にいるのは、三度目に拾った犬だった。
 亡くなった母の言葉を思い出す。



 初めて犬を飼うと決めたあの日、母が犬を抱き上げて言ったのだ。
「雅貴くん、僕を飼ってくれるのなら十個のお約束をして下さい」
 変な声色でゆっくりと話し始めた母を、あの日雅貴は、何をこの人はやっているんだと思いながら見つめた。

「ひとつ。
 ぼくの一生は短いです。雅貴くんが大人になる頃には死んでしまうかもしれません。
 でもぼくは雅貴くんと少しでも長く、ずっと一緒にいたいです。
 ぼくを飼ってくれるのなら、それを忘れないで下さい。

 ふたつ。
 ぼくは、雅貴くんが言ったことを、すぐに理解できません。分かるまでちょっと待って下さい。

 みっつ。
 ぼくを信用して下さい。それだけで、ぼくは、幸せです。

 よっつ。
 僕を長い間叱ったり、罰として乱暴なことはしないで下さい。
 雅貴くんには学校も、楽しいこともあるし、友達だっています。
 でも、ぼくには、雅貴くんしかいません。

 いつつ。
 時にはぼくとお話をして下さい。言ってる意味は分からないけど、お話ししてくれる声で、ぼくは全部、分かります。

 むっつ。
 雅貴くんが、どんなふうにぼくの相手をしたか、ぼくは、それを全部覚えていることを、忘れないで下さい。

 ななつ。
 ぼくを叩きたくなった時は、思い出して下さい。ぼくには、雅貴くんの手を噛んで大変な怪我をさせることだって出来る歯があるけど、雅貴くんを噛んで怪我させたりしないって決めてることを。

 やっつ。
 ぼくが言うことを聞かなかったり、頑固だったり、怠けてるって思った時は、叱る前に、ぼくがそうなる原因がないかを考えて下さい。もしかしたら、ご飯食べてないかもしれないし、お日様が暑くて苦しくなっているかもしれないし、ぼくがお年寄りになって弱ってるかもしれないから。

 ここのつ。
 ぼくが、お年寄りになっても、どうか世話をして下さい。雅貴くんだって、同じように年を取るんだからね。

 とお。
 ぼくの最後の時まで、一緒にいて下さい。「見ていられない」とか、「ここにいたくない」とか、言わないで下さい。あなたが隣にいてくれたら、ぼくは安心するんです。
 絶対に、忘れないで下さい。ぼくは、雅貴くんのことが、世界で一番大好きです」
(*下に注釈アリ)

 犬の十戒というのだと、後で母が教えてくれた。最初に犬を飼う時、三度目に拾ったこの犬もまた引き取ることになった時、三匹目も飼うことになった時、そのたびに、母がそう言って犬を抱っこして、腹話術みたいなまねをして、雅貴に言った。
 小学生だった雅貴は、少し感動して、少ししらけて、でも、大切にすると心に刻んだ。
 もちろん、その後、何度も適当なことをしたし、面倒を見ない時期もあった。だから結局犬たちは母に懐いていた。

 けれど、あの母が教えてくれたことが、母が死んでから身にしみた。そして覚えていたから、まるで母の代わりのように、犬たちが雅貴の心を守ってきた。
 家を出てからの乱れた生活を思い出して、とてもじゃないが、犬たちの存在がなかったら、まともな職に就けていたとは思えなかった。

 母親が死んだのは、小学五年の時。癌だった。
 父親は、仕事の忙しい人で、雅貴の日常に、父親はおらず、家での生活は、主に母親と雅貴と、おまけに犬たち、というような物だった。
 それでも特別何か問題があるわけでもなくいたのだが、母が癌になったとき、事態は一変した。発見されたときは、もう末期で、手の施しようがなくなっていた。
 母は、状態の良いときにしか雅貴と会ってくれなかった。何か力になりたくても蚊帳の外に置かれた気分だった。
 それが母の愛情だという事は、頭では分かっていた。

「笑顔だけを覚えておいて欲しい。お母さんの我が儘を、どうか聞いて欲しい」

 と、母からも言われた。けれど、自分は入れてもらえない部屋に、ろくに顔もあわさない父親は入ってゆく。
 それまで雅貴は格別父親に不満はなかった。
 けれど、それを期に、雅貴は母の力になれない鬱憤をぶつけるように、父親に不満をぶつけるようになった。
 日が経つごとに様相が変わってくる母の姿への不安も混ざっていたのかもしれない。

 そして、そんな雅貴を扱いかねた父親は、看病の疲れや苦しさ悲しさといった物を反発する雅貴にぶつけたのだった。
 今になれば父親も苦しかったのだろうと思う。けれど、当時の雅貴にはそれに思い至る余地も、余裕もなかった。大人である両親でさえ、自分の事で手がいっぱいだったのだ。母親の死期を知らされたばかりの小学生の雅貴に、あまり関わりのなかった父親を思いやるほどの余裕などあるはずがなかったのだ。

 母親の前では互いに取り繕っていた二人だが、決定的な溝が生まれていた。唯一取り持つことの出来るはずの母親は、二人の仲違いを知らぬまま、雅貴には笑顔だけを残し、亡くなった。

 やりきれなさを反発することでしか父親に向けられなかった雅貴と、反発する雅貴を理解しようとすることを諦めた父親。互いに相容ることをあきらめた父子だけが、空虚な家に残されていた。

 雅貴はその空虚さを埋めるように、犬をかわいがるようになった。家族は犬だけと、本気で思っていた。それでも、母親と暮らしたその家は、間違いなく雅貴の居場所だった。父親はあまりいなかったが、帰る場所であり、犬たちがいて、あって当たり前の安心できる居場所だった。

 そして、五年後、父親はずいぶんと若い女性と再婚した。雅貴は高校生になっていた。
 さほど興味もなかったし、好きにしたらいいと思った。
 なのに、その挙げ句に起こったのは、義母からの思いもよらないレイプ未遂。
 そうして雅貴の居場所は、なくなった。

 父親が、自分の方を信じるなどと、ためらいなく信じられるほど、子供ではなく、そして関係が希薄になりすぎていた。






犬の十戒
<参考場所>
●犬の十戒(参考にさせていただいた日本語訳のページがなくなって不明)
●ウィキペディアの「犬の十戒」のページ

母親が子供に言う、という形ですので、上記のページを参考に、私の意訳込みの、だいぶかみ砕いた言い回しにしました。

関係ないですが、猫の十戒はおもしろいです。
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