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囚心
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しおりを挟む実咲の会社とは研究室からの注文と、事務から受けるオフィス用品の注文がほとんどだ。
実咲のいる研究室は消耗品であるシャーレの回転によりけり、一、二週間に一度納品に行く程度。
雅貴は、事務室に向かいながら、ちらりと研究室に向かう通路を見つめる。用もないのに押しかけたり、他の研究員のいるところで声をかけたりというのも、何度も考えた。雅貴自身は、そんな事は全く気にならない。
しかし実咲は、自分と付き合っていることを知られるのを極端に嫌っていた。
雅貴のファンが多いから居心地悪くなるようなことは絶対にやめてと、とことんまで念を押された。もし今、人前で実咲になれなれしく声をかけよう物なら、修復不可能になりかねない。ただでさえ何度も打つ手を間違えているのに、これ以上失敗をするわけにもいかないのだ。
研究室に向かいたい気持ちを抑えて、雅貴は事務室のドアを開けた。
そこで、あれ? と一人の事務員に目がとまる。
そういえば、佐藤さんは実咲の友達だったな……。
雅貴は彼女に目をやりながら、ただ一人、この会社で雅貴と実咲が付き合っている人間がいたことを思い出した。
「佐藤さん? ちょっと良いかな」
雅貴はにっこりと笑って、彼女に声をかけた。
何なんだ、あの女……。
雅貴は、仕事を終えて家に帰ってから、ソファーに横たわった。
犬たちがわらわらとよってきて雅貴を歓迎する。
「ああ、ホント、お前らは優しいよな……」
犬たちを撫でながらため息をつく。
実咲が親友と言っていた涼子に声をかけて、ちょっと電話番号を教えてもらおうと思っていただけなのに、強烈なしっぺ返しをいただいて帰る羽目になった。しかも、何の収穫もない。
あれで、本当に実咲の友達かよ……。
雅貴はげんなりとしながら思い返す。実咲は割と物をはっきり言うとはいえ、基本的に穏やかで優しい女だ。
ところが電話番号を聞いた雅貴に、涼子はにっこりと華やかに笑うと、人気のないところに連れて行かれ、ものすごい棘のある言葉でぐさりとやられた。
「井上くんさぁ、私がそんな事教えると思ってるんだ」
クスクスと楽しそうに笑ったその目が、ものすごい怒気をはらんで睨み付けてきた。
「信頼できない人に、教えるわけないでしょ」
全く笑っていない目つきで、けれど、口元と声は楽しげに彼女は言った。
「それは、佐藤さんが決めることではないんじゃない?」
雅貴が不快感を覚えながら、言い返すと、彼女はにっこりと笑って肯いた。
「その通りね。実咲があなたに会いたくないんだから、私は絶対に教えないわよって言った方が良い? 勘違いも甚だしいわよ、井上くん。私さえも説き伏せられないような人が、実咲の信頼を取り戻せると思うの? 実咲の恋心につけ込んでも、また実咲を傷つけて終わるがオチよ。だいたい、本人の許可もないのに教えたりなんかしたら、プライバシー保護法で訴えられちゃうじゃない? 他の人に聞こうなんて気は起こさないでね? そんな事したら、実咲、会社自体をやめかねないから。井上くん、そこまで実咲を追い詰めたって、……分かってないでしょ?」
雅貴が探るように涼子の目を見ると、彼女はひるむことなく、嘲るように視線を返してきた。
「分かってたら、こんなに軽々しく私に電話番号を聞けるはずがないしね。もう少し、自分のしたことがどういう事なのか、よく考えてから出直して頂戴」
言いたいことだけ言うと、涼子はひらひらと手を振り、さっさと雅貴を残して事務室に帰っていった。雅貴は彼女の怒気に押され、口を挟むことさえ出来なかった。
思い出しただけで腹が立つ。ちょっと電話番号を聞いただけなのに。なぜあそこまで言われなければいけないのか。彼女には全く関係のない問題なのに。
そう思い返して、雅貴は盛大にため息をつく。
だが、変な詮索をされることなく実咲との連絡を取る手段は、思いつく限り彼女しかいなさそうだった。
他に共通の知り合いで、自分と実咲が付き合っていたことを知る実咲と親しい友人はいない。
雅貴は、苦々しい気持ちでため息をつく。
急がば回るしかなさそうだ。まずは涼子を説き伏せることからになりそうだった。
それから、雅貴と涼子の攻防が始まった。
思った以上に涼子は手強かった。雅貴が何も手を出せないことをいい事に牽制と暴言とで、精神的にたたきのめされている気分だった。彼女が、絶対に実咲に手を出させないという決意をしていることは明らかだった。少なくとも、今の雅貴のままでは。
そう、彼女は「絶対に」教えないとはいわないのだ。「今の井上くんには」教えないと言うのだ。
雅貴は、涼子への対応に困り果てていた。
実咲にしたことが褒められたことでないのは分かっているし、実咲を傷つけたことをこれ以上ないほど後悔していたし、もう二度とする気もなかった。ちゃんと謝って、実咲を説得して、やりなおしたいと思っていた。
しかし何度反省していることを説明しても、本気だと訴えても、涼子は「そんなんじゃ、同じ事繰り返すわよ」と繰り返す。なぜかと尋ねても「ちゃんと考えて。自分の考えが正しい、私がいちゃもんつけてると思ってるからわかんないのよ」と言うばかりで、答えようとはしなかった。
何度目のトライだっただろうか。苛立ちを隠しながらの雅貴の懇願に、とうとう涼子から違う言葉が返ってきた。
「今度、駅前のファーストフードの店内で九時頃待っててもらえる? 見つけやすいように、窓際に座っておいてね」
そんな時間にどういうつもりかと思ったが、雅貴は言われたとおりに指定された店内の窓際で涼子を待った。けれど、時間を過ぎてもなかなか彼女は現れない。
いいかげんに帰ろうかと思ったところで、歩道を歩く集団の中に涼子を見つけた。
男女入り交じって楽しそうに話しながら歩いている。
合コンの後かよ。
ため息をつくと、涼子と目があった。彼女は、にんまり笑うと、雅貴に手を振る。
それが、隣の女性から隠れて手を振っているようで、ふと、後ろ姿になっている女性に目を向ける。
実咲だった。
あの女……!!
雅貴は、涼子を睨むと立ち上がった。とたんに、笑っていた涼子の顔が豹変した。憎しみでもこもっているかのような目で雅貴をにらみつけ、来るなと牽制する。
雅貴は我に返り、拳をぐっと握りしめもう一度椅子に座った。今、あそこに行ってしまえば、実咲の反応がどう返ってくるのか分からない。今、あそこに行くのは、おそらく自分にとって不利だ。
椅子に座って睨み付ける雅貴を満足そうに見つめて、凉子はにっこりと笑うと手を振り去っていった。
雅貴は今にも噴き出しそうな怒りを抑えながら、それを見つめる。
どういうつもりなんだ。
怒りに駆られながら見つめる視線の先に、実咲の後ろ姿がある。笑いながら隣の男と話をしていた。
腹立たしかった。他の男と話す実咲への怒りなのか、実咲と話す男への怒りなのか、わざわざそれを見せつけてきた涼子への怒りなのか、雅貴は自分でも判別付かなかった。
ただ、今はこらえるしかない怒りが胸に渦巻いているのを、必死で抑えていた。
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