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囚心
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しおりを挟むまた持て余し始めた苛立ちに、ふと、雅貴は想像する。
それは、ほんのいたずら心だった。
少しずつ実咲に対して大きくなっている苛立ち。雅貴の中での実咲の存在は大きくなっていて、彼女が悪いわけではないのは十分に分かっていた。彼女のことがかわいくて、愛しくてたまらないとすら感じているのに、それでも募る苛立ちがあった。
一度離れかけた彼女が、側にいることを実感したくて、毎日電話をかけていた。彼女の声はいつでも心地良く、彼女が自分の彼女であることに、ただ安堵していた。
なのに、その思いに反して募っていく、理解できない苛立ち。
彼女と一緒にいるときに時折感じるどうしようもない焦燥感。それは雅貴の中でしこりとなり、腹の底をずんと重くする。そして、一人になると、腹の底からどうしようもない苛立ちがわき上がってきた。
会うたびに、じわりじわりと重くなっていく腹の底にあるしこり。会うたびに大きくなって、波紋を広げ、苛立ちを増していく。
そんなときに不意に思うのだ。
「彼女を傷つけてみたい」
と。
どうしようもなく、感情のままに彼女の心を踏みにじってみたいという欲求が胸の中を渦巻いた。
けれど想像はしても、実際にはそんな事をするつもりはなかった。一緒にいればそんな気持ちよりも、大切にしたい想いが勝る。彼女が笑顔でいられる状態を作りたいと感じる。
それでも間違いなく雅貴の中で広がっていく、苛立ちという名の波紋。
少しだけ。
雅貴は想像した。
そうだ、少しだけ、小さないたずらをしてみよう。
少しだけ、彼女が傷つくいたずらを。
その思いが止められなくなった。
自分のせいで傷つく彼女を見たかった。どうしようもなく彼女を傷つけたくなった。
その考えは、想像だけでたまらなく楽しく雅貴の心をくすぐる。
傷ついた彼女を見てみたい。そして、傷ついた彼女に、なんて声をかけようか。
何をすれば、彼女は傷つくだろう。
手放したくない想いと、傷つけたい想いとが、雅貴の中では何の軋轢を生じることなく同時に存在していた。彼の中では矛盾することなく、当然のように。
雅貴はかつてセフレとして関係を持ったことのある女性を呼び出した。
実咲と付き合いを仕切り直して以降は、全く顔を合わせることもなかった女性だが、今の彼女をちょっとからかいたいんだ、という雅貴の言葉に彼女は楽しそうにうなずいた。
行動範囲が似ていた為に、別れてからも時折顔を合わす機会があり、今でも言葉を交わすぐらいには親しい仲だった。しかし、体の関係はあっても、それ以上の関係ではない。
もうすぐ待ち合わせの時間だった。
実咲は、どんな反応をするだろう。
想像して、雅貴は口元がゆるむ。
それは、たわいもないいたずら心でしかなかった。
怒るだろうか。悲しむだろうか。それともなんでもないふりをするだろうか。
そういえば、と、賭のことを思い出す。
雅貴が浮気をすれば「何でも言う事を一つ聞く」そういう賭だった。キス程度で浮気になるかどうかが微妙だとは思ったが、セックスまでする気にはならなかった。
今は、実咲以外を抱きたいとは思えない。実咲だけで良い。
だから、ちょっとだけ傷つけて、彼女が望むのなら本当にこれっきりにしよう、彼女を思い浮かべながら、雅貴は想像する。
思いついた悪戯は考えるほどに楽しかった。
とはいえ「悪戯でした」では彼女も納得はしないだろう。そう思って何をすれば許してもらえるかも考えておく。消去するのが面倒で端末に残っている女性達のメモリーも全部消せば納得でもしてくれるだろうか。
そうこう考えているうちに彼女が来た。
それを確認して、実咲が自分たちに気付く頃合いを見て、女性とキスをした。キスをしながら、ちらりと彼女を見る。
実咲が驚いた様子で固まっているのが見えた。
もう一押ししておいた方が良いだろうか。
雅貴は、もう一度見せつけるようにキスをする。
彼女のこわばった顔から、表情が消えたのが見えた。
しまった、やり過ぎた。
たかがキスと思っていたが、実咲にとってはそうでもなかったのだろうか。
雅貴はとっさに女性から身を離すが、既に実咲は背を向けてその場を去ろうとしていた。
慌てて女性に別れを告げると、実咲を追いかけた。あの様子では、かなり彼女を怒らせたらしい。女性の文句を言う声が聞こえたが、それにかまっている暇はなかった。
「実咲!」
駆けより彼女を呼び止める。
けれど、どんなに謝っても、彼女の態度は軟化することはなかった。それどころか、賭の話を持ち出すとより怒りを増した様子で、静かに雅貴を切り捨てた。
「二度と私の前に顔を見せないで」
背中を向けたまま、彼女が冷たく言い捨てる。
血の気が引くような言葉に、雅貴は息をのんだ。腹の底にあるしこりが、いつものようにずしんと重くなる。けれど広がる波紋はいつもの苛立ちではなく、どうしようもない焦りだった。
「悪かった、ホントに悪かったから! そんなに怒らないでくれ」
必死になって言いつのると、彼女が冷めた目で雅貴を振り返る。
振り返った彼女にほっとしたが、それはつかの間の安堵となった。
雅貴が必死で彼女の気持ちを和らげようと思っても、彼女の表情は硬くなるばかりで、それどころか時折あざけるように雅貴を見つめている。
実咲からそんな視線をうけたのは初めてだった。
違う、俺の望んだことは、こんな事じゃない。
雅貴の胸の中がざわめく。息苦しかった。
「俺のこと、好きじゃないの?」
雅貴はその事実にすがった。
だから怒っているんだろう? そう、彼女の気持ちを探った。
やり直そうという雅貴の言葉に、嫌悪感すら浮かべて彼女は嘲笑する。
「あんた、何したか分かってないわけ? 人傷つけて、それが簡単に許されるとでも思ってんの?」
言われてみればその通りだと思った。けれど、違うのだと雅貴は訴えたい衝動に駆られる。
確かに彼女を傷つけたいと思っていた。けれど、ほんのいたずらに過ぎなかったのだ。そこまで彼女が怒るとは思ってもいなかった。こんなに怒るほどに傷つけるとは思っていなかった。賭を持ち出してわびればすむと思っていた。
ほんの少しだけ傷つけて、彼女を抱きしめたかっただけだった。
けれど、言い訳をする雅貴を、彼女は怒りもあらわに切り捨てた。
「所詮あんたはゲームみたいに遊んでいるだけでしょ?」
彼女の言葉は嘲りを伴って、斬りつけるように雅貴を襲う。怒りの中に彼女の苦しみが見え隠れする。それはそのまま彼女の言葉の重さとなって雅貴に突き刺さった。
けれど実咲は更に雅貴を斬りつける言葉をたたきつけてくる。
「本気でもないあんたをみて、何を喜べって?」
彼女の言葉に、雅貴は動揺していた。そんな風に思わせていたとは思ってもいなかった。返す言葉がない。自分がやって来たことは、つまりそういうことだとようやく知る。
けれど、それだけじゃない。
雅貴は実咲との思いのすれ違いに動揺しながら、どう言えば分かってもらえるだろうと考える。
雅貴の中に彼女を思う気持ちは確かにあったのだ。やり方は良くなかったかもしれない。けれど、彼女だけと付き合うつもりだったのは本気だった。それは分かってもらいたくて雅貴は言葉を詰まらせながらその気持ちを訴えた。
けれど、雅貴の必死の言い訳を聞いたとたん、彼女の顔がゆがんだ。
その表情の変化がどういう意味なのかは、雅貴には分からなかった。ただ、その言葉で、決定的に彼女が雅貴の存在を切り捨てたのが分かった。
何がいけなかったのか雅貴には分からない。実咲が望むのなら、彼女とだけ付き合うつもりだと、本気だと訴えたというのに。
彼女は何も言わなかった。ゆがんだ彼女の顔は、嘲笑しているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
だがすぐにその表情さえも消え、彼女は雅貴に背を向けた。
「バイバイ」
去り際に聞こえてきた素っ気ない彼女の声。
雅貴は呆然と彼女の背中を見送った。
なにが、いけなかったのだろう。
彼女の背中を見ながらぼんやりと彼は考える。
ちょっとしたいたずらのつもりだった。
けれど、それは最悪の判断だったのだと、この時になってようやく気付いた。
途中まで、あんなにうまくいっていたのに……。
……俺は、どこで間違えたんだろう……。
遠ざかっていく彼女の背中が、どこまでも冷淡に、雅貴を拒絶していた。
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