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本編
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しおりを挟むしばらくは涼子の存在が実咲の支えとなっていた。
さりげなく気を使って、考えない時間を作ってくれる。
そんな時間の経過は、ゆっくりと実咲の気持ちを落ちつかせてくれた。雅貴のことを考えないでいられるようになっていた。
しかしいくら落ちついたとはいえ、全く胸が痛まないと言えば嘘になる。雅貴を好きだと思う気持ちが消える日なんて想像もつかないほどに、まだ雅貴のことを好きだと感じている。だから出来るだけ雅貴に関することには思い出したくもないし、触れたくもなかった。
それを思うと、少し甘かったかなぁ、と、実咲はデータ入力をしながら、溜息をつく。
実咲の背中の向こうで、同僚達の笑い声と、雅貴の話し声が響いていた。雅貴が納品にやってきているのだ。耳に入ってくるそれらを出来るだけ聞かないように遮断する。
これまでに何度か、さりげなく話しかけてこようとしているのには気付いていたが、雅貴と話したい同僚達のおかげで、簡単に避けることが出来た。
雅貴は会社ではあまり関わりたくないという実咲との約束を守っているらしく、無理に話しかけてくるような真似はしなかった。
その点に関しては感謝してあげてもいいかもしれない。
もし雅貴が気にせずに話しかけてくるようなら、場合によっては、仕事を辞めてしまおうか、などと、少なからず考えてもいたのだから。
恋愛ごときでと思いもしたが、恋愛は馬鹿馬鹿しいぐらい人の心を追い詰める。理性がきかなくなるから怖かった。
話しかけようとしてきていることに気付いた時は強い不安感もあったが、すぐにそれが杞憂であると気付いた。あくまで自然に話しかけるチャンスを待っているようだった。ならば、避ければそれですむ。
雅貴が無理矢理に話しかけてくることはないだろうと確信した時、ほっとしたと同時に、不可解な胸の痛みを覚えたことについては、考えないようにした。
とりあえず今はこれで良い。会社を辞めるだなんて、出来ればそんな無謀なことはしたくもないし、話しかけられることがなくて良かったのだ。
もっとも、会社を辞めるだなんてちょっと想像するだけで本気で考えたわけではないが、それでも、もしこのまま雅貴と関わっていたら、自分の人生を棒に振る事になるのは想像に難くない。今、雅貴と関わらないためなら、必要があれば、本気で仕事さえも辞めてしまいそうな自分が恐かった。
実咲は雅貴と顔を合わす機会があっても、さりげなく拒絶と無視を繰り返す。
話しかけてこようとしていると感じるのが私のただのうぬぼれで、雅貴の方は特に何も考えていないのであれば、ずいぶんと未練たらしく滑稽に見えるのだろうけれど。
そう思うとおかしかったが、実咲はそんな自分を笑って、怒りの表現の一つということで胸の中に納めた。
実咲は雅貴に目を向けないように、何も感じていないように、いつも通りに仕事をしながら、雅貴が帰るのをじっと待つ。仕事で顔を合わせる相手と恋愛をするのは無謀だったな、と思いながら。
納品を終えた雅貴が帰っていくのを感じて、実咲はこっそりと息を吐いた。そこにいるだけで、緊張してしまっていたのだ。
元々実咲が雅貴の対応をすることがほとんどなかったために、関わらずに無視をするのは別段不自然でも気まずくもなかったが、視界に入るというのは、少し辛い物があった。
その上研究室内でも人気の営業さんの話は、否応なしに実咲の耳へと届いてくる。
最近はうちの会社の事務の子にやたらと声をかけているらしい、とか。
実咲は噂を聞く度にこっそりとため息をついた。
その相手は、どうやら涼子らしいということまでは分かっているが、彼女が実咲には何も言わないから、詳しいことは知らない。
涼子が何も言わないのは私を思ってのことだろう、と実咲は思っている。
もしかしたら、と実咲は想像する。雅貴が電話も住所も変えた実咲の居場所を涼子を通じて調べようとしているのかもしれない、などと。
雅貴は女に執着することのない男だ。だから、まさかとは思うのだが、話しかけてこようとする素振りがあるということは、もしかしたら、まだ実咲に対しての未練があるのかもしれない。
だから凉子に近寄っているのかも……。
そう考えると、拒絶する思いとは裏腹に、そうだったらうれしいと思う気持ちも首をもたげる。けれど、もう、それに囚われるつもりはないのだから、出来るだけ考えないようにしていた。
何より涼子が何も言わないのだから、実咲の想像にすぎない。それでも、どういう理由であれ、彼女が何も言わないのはこれ以上実咲の心が乱されないよう、防波堤になってくれているだろうという事は容易に想像できた。吹っ切ったつもりでいても、雅貴の名前を耳にするだけで、まだ実咲の心はざわめき動揺するような状態であることを涼子は知っているのだから。
だから実咲は涼子が何も言わないことに、時々落胆しつつも、それでも今は、それがありがたい事だと、心の中で涼子に感謝した。
本当は、感謝していないと、雅貴と顔を合わせているというだけで、ずっと自分を気遣ってくれている親友にさえ嫉妬してしまいそうな自分を自覚していた事もあり、ことさら、良い方に考えるようにしていた。
恋心は、怖い。理性よりも目先の感情に支配される。大事なことを見失いそうになる。醜い自分を思い知らされる。恋いなんて、もう、うんざりだ。感情に振り回されてばかりになる。
別れてすっきりした。もう、雅貴とは、何の関わり合いもない。
そう思う気持ちに嘘はない。
けれど、雅貴を思う気持ちは、理性ではどうにもならなかった。
関わらないと誓っても、雅貴がいないことを受け入れても、名前を聞けば、どうしようもなく彼のことばかり考えてしまう瞬間というのがあるのだ。
雅貴が自分のことで涼子に声をかけているのだとしたらと考えただけで、これ以上関わりたくない思いと、どうしようもない期待感がこみ上げてしまう。
一人の女性に固執することのなかった雅貴が、自分にだけはあきらめきれずに追いかけてくれているのではないかと思えて、その期待感は胸を踊らせるのだ。
もう関わらないと決めているのに、そんな事がどうしようもなく嬉しくて、嬉しいと感じてしまう事がどうしようもなく悲しくて、そんな自分があまりにも滑稽で、実咲は笑う。
笑って、笑って、そして息をつき、彼のことを考えないように、今日も心にしまう。会いたい気持ちから目をそらす。
そうして、時折どうしようもなくかき乱される心とは裏腹に、生活は、淡々としていると言ってもいいほど、平穏で落ちついていた。
惑うのは、ほんのわずかな時間。すぐに気持ちを切り替え、実咲は新しい生活に目を向ける。
ほんの少し、心乱されて、けれど、穏やかな生活。
これでいい。
毎日、雅貴に振り回されることのない、悩むこともない生活。取り戻した自分らしさと、受け入れた新しい自分とを、少しワクワクしながら探る生活。
別れてからも楽しいことや、嬉しいこともたくさんあった。ちょっと金欠気味だけれど、今の自分が好きだと思う服やメイクを探したりするのが楽しい。そしてその充実している生活の反面、どこかむなしさが時折心をよぎる、そんな日常がここにあった。
だいぶ吹っ切ったつもりだったけれど、自分を押し殺してでも良いから側にいたかったほど好きだった人だ。すぐさま完全に吹っ切れるはずもなく、忘れるには、もう少し時間がかかるんだな、と、半ばあきらめも込めて実咲は笑う。
できるだけ笑顔でいると、少し落ち込んでいても気持ちが上を向く気がした。
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