禁踏区

nami

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6章 済度

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『触らないで! 私には……兄様が何を仰っているのかわかりません……。私達は、血を分けた兄妹だというのに……!』

『我ら一族は、かつては親族間で婚姻を繰り返していたという。おかしなことではないはずだ』

『そうだとしても…………私は嫌です。兄様を……男性として見ることなどできません……!』


 はっきりとした拒絶の言葉。
 月宮伊吹の表情が凍りついた。


『…………邪魔者どもを排除するだけでは足りぬというのか』


 冷え冷えとした声音で紡がれた呟き。


『それは、どういう意味ですか!? 兄様が八雲様を……? まさか、御父様も……?』


 月宮伊吹は答えない。


『お前の心は、まだにあの男の元にあるというのか?』

『答えてください、兄様!』

『身も心も等しく手に入れなければ意味がないと思っていた。だが仕方ない。既成事実を作ってしまわねばな』

『兄様、何を……。──ッ!?』


 もう一度、月宮伊吹は沙雪さんに唇を重ねる。先程よりも深く──長く──。
 呼吸もままならないほどに──。


 もう止めて!
 これ以上は見たくない!

 けれど、過去視はまだ終わらない。


 沙雪さんは逃れようと抵抗するが、男の力には抵抗などなんの意味もない。


 そして──


 沙雪さんはその場に押し倒され……


『いやッ! いやああぁぁぁぁッ!』


 絹を裂くような悲痛な悲鳴が、私の耳に突き刺さる。
 そこでようやく、過去視は停止した。


 △▼△


「ちょっと、凛。大丈夫?」

 気づけば、全力で走った後のように呼吸は乱れ、私は浅く短い呼吸を繰り返していた。

「一体何が見え……」

「訊かないでッ!」

 思わず声を荒らげてしまった。
 美伽はほんの少し傷ついたような驚いた目を向けてきた。

 途端に申し訳ない気持ちが湧いてくる。
 けれど、説明する気にはなれなかった。


 妹が兄に純潔を奪われた──


 そんな後味の悪いことなど、口にするのも嫌だった。

「あ……ごめん……」

「ううん、いいよ。けど、今の凛の反応で、大体のところを察しちゃったっていうか……。こんなこと、書かれてるしさ……」

 美伽は日付のない記事を撫でるように示した。

 私達は沈黙する。重たい静寂が、辺りの闇の濃さを一段と強めた気がした。
 まだ耳に、沙雪さんの悲鳴が残滓ざんしのようにこだましている錯覚に囚われる。

 すごく嫌な光景だった。
 別に人が殺されるとか、命を絶つとか、命に関わるわけじゃない。
 だけど、ああされることで、沙雪さんの心は殺されてしまったんじゃないだろうか。

 ともに沈黙を保っていたけれど、それを美伽が破ってくれた。

「…………あたしにも兄貴がいるからさ。沙雪さんの気持ちがわかる気がするよ」

 軽く鼻をすすって美伽は続ける。

「まあ、うちじゃ絶対あり得ないことだけどさ、もし……もしもだよ、兄貴があたしのことをそういう風に見てて、迫ってきたとしたら…………その時は、きっと死にたくなると思う……」

「美伽……」

 多分、沙雪さんもそうだったんだと思う。
 子供の頃から慕っていた兄だったからこそ、余計に辛かったかもしれない。

 沙雪さんが命を絶ってしまう後押しになったんじゃないだろうか。

「ごめん、無駄口叩いてる場合じゃないね」

 美伽は日記のページをめくった。
 そこは母に向けた手紙という名の遺書になっていた。



 御母様へ

 八雲様にお逢いする為、贄ヶ淵より黄泉の国に旅立ちます。
 先立つ不孝ふこうをお許し下さい。



「贄ヶ淵……」

 私と美伽の声が重なる。
 そこに、真人さんからラインが入った。


 マサト
 『無事逃げ切ることができたから、そっちに戻るよ』


 マサト
 『それと、悪い知らせがある』


 △▼△


「いよいよ時間がなくなったというわけですか……」

 私も美伽も、真人さんが持ってきた悪い知らせというのを、深刻な表情で受け止めた。


 真人さんは腕のない女性を撒いている最中に、八雲さん──月宮伊吹を見かけたのだという。


「でも、よく逃げ切ることができましたね」

「ああ、幸いなことに向こうはこっちに気づいてなかったから。徘徊しているところを見かけたんだ」

 もし見つかってしまったら……。
 その時こそ、私達は……。


 私達が筐を完成させるのが先か──

 月宮伊吹に遭遇してしまうのが先か──


 先行きに濃霧が立ち込めてしまったかのようだ。

「それにしても……」

 真人さんは沙雪さんの日記──遺書が書かれているページに視線を持っていった。

「贄ヶ淵か。ここに遺体が沈んだままとなると、俺達の力じゃどうにもならないな……。やはり、沙雪さんの形代を使うしか……」

「いえ、諦めるのはまだ早いですよ」

 美伽は遮るようにして言い切った。
 彼女は、贄ヶ淵の下には地下洞窟が広がり、死体はそこに溜まっていくことを教えた。
 これは、警備をしていた人の日記に書かれていたことだ。

「そうなのか。なら、沙雪さんの遺体もそこに埋もれている可能性が高いな」

 いくつもある遺体の中から沙雪さんを探し当てる。
 想像するだけで身の毛がよだつ作業だが、やるしかない。
 私達は贄ヶ淵を目的地に定めた。


 屋外へ出るとそこは、石畳の道が平行に2本並んでいた。
 向こう側の道は月読邸と繋がっているようだ。
 その2つの道は、雨水を排水するために造られたであろう溝と、背の低い竹矢来によって隔てられている。

 その先にある建物に近づくほどに、私の心拍数は高まっていく。
 やがて、建物の姿を確認できる距離まで来てしまった。

 恐れ──という緊張が私を縛り付ける。
 掌は多量の汗によって冷たくなり、口内は唾液がうまく分泌されずからからに干上がっていた。

 五角形を逆さに描き、上部に伸ばして形作られ、面の1つ1つに入母屋いりもや風の屋根が付いている黒く厳めしい社──呪堂だ。
 
 贄ヶ淵に行くには、この呪堂を通らなければならない。
 それが、恐れる原因に他ならない。

 人間を形代に──犠牲にして呪いの儀式が繰り返された場所だ。
 恐怖──怒り──憎しみ──数多の感情が渦巻いていることだろう。
 それらの中に身を投じて、果たして私は正気でいられるのか……。

 扉の前に立つ。扉には、顔は鬼、胴は龍という恐ろしい怪物の彫刻が施されていた。
 こちらは月宮家の扉になるが、どうやら向こう側──月読家側にも扉があるようだ。

「よし、入ろう……」

 真人さんが扉を開ける。
 ひやりとした冷気と饐えたような臭いが同時に流れてきた。

 呪堂の中は、いつか見た夢の中と同じく中央に祭壇が設けられている。

 一歩踏み込むなり、過去視が荒波のように攻めてきた。


 見えるよりもまず先に聴こえた。


 苦痛の悲鳴が、二重……三重……と重なり合い、おぞましい不協和音となって、私の聴覚を蹂躙する。


 続いて地獄絵図の光景が次々と映し出されていく。
 形代と呼ばれた集落の者達は皆、中央の祭壇にはりつけにされたり、吊るされている。


 そして老若男女全ての者達が……


 ある者は、火炙りにされ──


 ある者は、目玉をえぐられ、舌を抜かれ、四肢を切り落とされ──


 ある者は、身体中に杭を穿たれ──


 ある者は、全身の皮膚を剥がされ──


 まるで……まるで……残酷な刑罰のようだ。


 それでも、その残虐行為が行われている祭壇を囲み、呪い師達が祈祷を捧げていることで、どうにか儀式という体裁を保っていた。


「いやあああぁぁぁぁッ!」


 耐えられず、私は呪堂を飛び出すと、排水の溝に嘔吐した。
 今見たものを忘れるようにして吐き続ける。
 胃の中が空になっても、全ての胃液を排出するようにして吐く。

 美伽が労るように背中をさすってくれる。
 しばらくそうしてもらっているうちに、どうにか落ち着いてきた。

「大丈夫……なわけがないよな……。ごめんな、辛い思いをさせて」

 真人さんはバッグからペットボトルの麦茶を出して差し出した。
 ありがたくいただき、麦茶で口をゆすいだ。

「平気……とは言いがたいですけど、こうなることは予想してましたから」

 笑んだつもりだけど、顔の筋肉が強張っているため、笑顔になったかどうかは怪しかった。

 だけど、発狂せずに済んだのは幸いだった。やはり幼い頃に凄惨な光景を見せられていたからだろう。それで耐性ができていたから、狂わずにいられたのかもしれない。
 忌まわしい、ずっと嫌悪していた能力だけど、この時ばかりは感謝せずにはいられなかった。


 再び呪堂の中へと踏み入る。
 もう過去視になることはなかった。

 ……が、一瞬、大勢の集落の者がひしめくのが見え、虚ろで恨めしげな視線をぶつけられた気がした。

 しかし本当に一瞬のことで、ハッとした時には全て消えていた。
 恐れる心が幻覚でも見せたのだろうか……。

 奥に観音開きの扉がある。
 扉の先は、黒っぽい玉砂利が敷き詰められ、四角い敷石が等間隔に並べられている傾斜道に続いている。

 その傾斜を上がって行くと、月読──月宮──両家の門と似たような威圧的な門が、私達を見下ろすように聳えていた。
 そして、門を潜った先に、ようやく贄ヶ淵なる湖が広がっていた。

 広さは学校のグラウンドくらいだろうか。
 湖面は赤っぽく濁っている。まるで、生贄となった者達の血肉が溶け出しているような──そんな不吉な色をしていた。

 贄ヶ淵を囲む陸地は、河原で目にする丸みを帯びた石で埋め尽くされていた。
 けれど、ここは河ではない。河原の石は、上流から流れてきたことで角が取れ丸くなったから、ああいう形状なのだ。だから多分、人工的に敷き詰めたものだろう。
 
 贄ヶ淵の水際からは、桟橋のようなものが湖面の中央にまで続いていた。
 その先端には鳥居を意識して造られたような門が立っている。形代としての役目を終えた集落の者達は、ここから流されたんだろう。

 贄ヶ淵を眺めていると、過去視の合図である耳鳴りが始まった。

 呪堂で虐待された哀れな集落の者達の末路でも見せられるのだろうか……?
 覚悟を決める私だけれど、そうではなかった。


 △▼△


 月宮伊吹だ。
 彼は、贄ヶ淵から程々に離れたところから、湖面を眺めているようだった。
 ただ、私に背を向けるようにして立っているので、その表情は確認できない。


『月宮様……!』


 月宮伊吹の背に向かって言葉を投げ掛けたのは、男性だ。
 呼び掛けられた月宮伊吹は、ゆっくりと振り返った。

 男性ははみすぼらしい着物姿だ。集落の人のようである。
 目を疑うほどに凄惨な有り様だ。男性の全身は赤い液体を全身に浴びたらしく真っ赤である。まるで、大量殺人でも行った後のようだ。

 ──いや、実際行ったのだろう。月宮伊吹の命令で。
 存分に返り血を浴びている相手に、月宮伊吹は眉ひとつ動かさないことが何よりの証明だ。

『おらが生き残りました……! これで……これで自由に……!』

『ああ、そうであったな』

 答え、月宮伊吹は静かに瞳を閉じる。そして、優美に弧を描く唇。

『…………“蠱毒こどく”──という呪いがある』

 唐突に切り出す月宮伊吹。
 なぜ突然そんなことを言い出すのか、と生き残った男性は思ったのだろう。面食らったような訝るような顔で瞠目どうもくする。

百足むかでさそりなどの毒虫を100匹集めて容器に入れ、互いに喰らわせる。そうして、残った1匹が神霊と化し──強い霊力が宿るとされている』

『はぁ。…………あのぅ、それが一体……?』

『気づかぬか? お前は、その“神霊”となったのだ』

『──!? ぐぅっ……!?』

 一瞬のことであった。
 月宮伊吹は隠し持っていた短刀で、男性の腹部を刺した。
 男性は踞るようにして、その場に倒れ込んだ。

 狂喜の笑みを張り付かせ、月宮伊吹は足蹴にして男性を仰向けにした。
 まだ息のある男性の口から、ごぼっと血が溢れる。彼は言い掛けようとするが、その口は震えるように動くばかりで、声を生み出すことはできないようだった。

 月宮伊吹はためらうことなく、短刀で男性の胸を切り開いていく。
 言葉を発することはできなかった男性だが、激痛が凄まじい悲鳴を上げさせた。刃が動かされる度に男性の指先は苦しげに痙攣している。
 ──やがて、男性は事切れてしまった。

 男性の胸には深い亀裂が作られた。
 月宮伊吹はその亀裂に右手を差し入れ、肉の塊を取り出した。場所からして心臓……のようだ。

 しばらく、月宮伊吹は狂気で輝く目でそれを見つめていたが……


 そんな、まさか──!


 信じがたい光景だった。


 大きく口を開いたかと思うと、月宮伊吹は心臓と思われる塊を食べ始めた。


 くちゃり……くちゃっ……

 くちゃっ……くちゃり……

 くちゃり……くちゃっ……


 不気味な咀嚼そしゃく音が、贄ヶ淵に不気味に響く。


 無我夢中で塊を食らい続ける月宮伊吹は、もう人間ではないような気がした。
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