血の記憶

甘宮しずく

文字の大きさ
上 下
42 / 42
もうひとつの悲劇

42

しおりを挟む
 朝目覚めると、スフィーナはダスティンの執務室にいた。
 昼寝用という名目で置かれているベッドは、実はダスティンがいつも使っているものだ。
 ダスティンは決して寝室には近寄らない。
 義母にはにこにこと笑みを見せているが、決定的な距離は空けている。
 貴族の結婚なんてこんなものなのだろうと思うものの、スフィーナは父が何を考えているのかよくわからなかった。

「スフィーナ様、お目覚めになられましたか?」

 そっと声をかけてくれたのは、アンナだ。
 ずっと傍にいてくれたらしい。

「ええ、体もすっかり軽くなったわ。急いで部屋に戻らなければ。ミリーに見つかったらまた何を言われるか」

 義母は積極的にスフィーナに近寄ってくることはないが、ミリーはスフィーナがまた一人で『ズルイ』ことをしていないかとよく様子を見にやってくる。
 執務室のベッドで寝ていたなどと知られたら、またグチグチと言われることだろう。

「大丈夫です。リンが代わりにあの部屋で寝ていますから。髪色も似ていますし、ミリー様は風邪をうつされたくはないと、足元から覗き込むことしかしませんし」

「リンが? それは申し訳ないことをしたわね」

「いえ。スフィーナ様のベッドはふかふかだって喜んでましたし、昨夜ミリー様に粥を取り上げられてしまったことをずっと悔いていましたから。今度は騙し通して見せるってはりきってましたよ」

 リンがぐっと拳を握り締めている姿が想像できて、スフィーナとアンナは目を見合わせて笑った。

「お父様はもうお出かけになったの?」

「ええ。旦那様もずっとこの部屋のソファでお休みになられていました。額のタオルも、何度も替えてくださって。本当に旦那様はスフィーナ様のことを大事に思われてるんだなって実感しました。時折何故こんなひどい目にあっているスフィーナ様を放っておくのかと恨めしく思うこともありますが、何か事情がおありになるんだろうなと思わされました……」

 ダスティンが何を考えているかはわからない。
 けれど何をしようとしているかは、スフィーナには何となくわかる気がしていた。
 だからそれを妨げることのないように気を付けていた。

 そう言えば、夜中に夢うつつの中でダスティンが「もう少しだ」と言っていたような気がして、スフィーナは記憶を巡らせた。
 しかしぼんやりとした記憶で、前後の言葉もよく思い出せなかった。

 ふと、スフィーナは右手の小指に嵌められた指輪を眺めた。
 なんとなく母のサナが守ってくれているような、そんな気がした。

     ・・・◆・・・◇・・・◆・・・

「もう本当にパン粥って役に立ちませんのね! 夜中ずっとお腹が空いて空いて堪らなかったわ。夜食を食べに起きようと思ったのだけれど、眠くて全然体が動かなくて。ずっと夢の中でお腹が空いたと騒いでいたもの。パン粥が体形維持にいいなんて、嘘! すぐにお腹が空いて夜食を食べたくなるもの、逆に太ってしまうわ」

 それでもミリーは太ってはおらず、同年代がうらやむくらいの体形は維持しているのだから、そもそもそのためにパン粥なんて食べなくたってよかったのだ。
 本当にスフィーナのものは何でも欲しくなってしまうだけなのだろう。
 そして奪った後はぞんざいに切り捨て、こうして文句を言う。
 そこまでがお決まりなのだ。

 スフィーナが必要としているものなど簡単に得られる。たがそんなものはミリーには不要だと示して見せることで満足しているのだろう。
 それがスフィーナより優位だと感じられる唯一の手段なのかもしれない。
 それで本当に欲しいものが得られるわけでもないのに。
 非合理的で、ある種憐れだともスフィーナは思う。

「でも、一食抜くよりもお腹には入っているはずなのに、どうしてあそこまで空腹感を覚えたのかしら。耐えがたいほどにお腹が空いていたのよ。だけど起きられないから、まるで地獄の責め苦のようだったわ」

 そう言いながら、パクパクと肉を口に運んだ。

 スフィーナもそれと悟られぬよう笑いを堪えながら、もくもくと朝食を食べた。
 昨夜食べられなかったパン粥を温めてもらったのだが、パンがとろりと口のなかでほぐれて、病み上がりのお腹に優しく沁みた。
 それをまたミリーが見咎めて、むっとしたように眉を顰めた。

「私があれほどオススメしないと言ったのに、それでもお姉さまはそのようなものを食べるんですのね。お姉さまったら意固地だわ。私の言葉なんて、どれも聞いてはいないのね。私が何を言っても気に入らないんだわ」

「そうじゃないわ。とても普通の食事は入りそうにないのよ」

「そう言っていつまでもそんなものを食べているからよ。それとも勝手にそんなものを作った使用人に気を遣ってるの? 私達のために働くのが当たり前なのに。お姉さまがそんなだから、使用人たちはつけあがるのよ。お姉さまは長女なんだから、そんなことではいけないわ」

 我儘放題で人を振り回すだけのミリーに『あるべき長女』など語られたくはなかったが。

「ミリー、私のために食事が冷めてしまってはあなたに申し訳ないわ。どうぞ気にせず朝食を。あ、もうこんな時間ね。遅刻してしまうわ」

 今朝は体も軽いし、学院に行くのにも支障はないだろう。
 食事を終え、立ち上がったところに不機嫌な顔の義母がやってきた。

「お義母さま、おはようございます」

「熱を出したのですってね。あの部屋が気に入らなかった当てつけなんでしょう。やることが浅ましいのよ」

 腕を組み、じろじろと睨めつける義母に、スフィーナは顔を俯けた。
 こういう時は何を言っても怒りを煽るだけだ。否定も肯定もせず、殊勝な態度を見せている他はない。

「ふん……。またその被害者ヅラも見飽きたわ」

 それでもこうして文句は言われるのだけれど。
 これが最短時間で終われる道であるのは間違いない。
 これまでスフィーナがあれこれ試した末にたどり着いた結論だ。

 だが今日の義母はそれだけでは終わらなかった。

「まったく。あの女の娘を仕方なく家においてやってるっていうのに。忌々しいったらないのよ」

 その言葉には、スフィーナは思わずぴくりと眉を上げてしまった。
 顔を俯けていてよかったと心から思う。
 母を悪く言われるのだけは許せない。
 これ以上続きませんようにと祈るように、揃えた手をぐっと握り締める。
 義母はそのわずかな動きを見逃さなかった。

「また反抗的な態度。さすがあの女の娘ね。本当は全て私のものだったのに、憎たらしいったらないわ」

 ミリーと義母は間違いなく親子だ。
 言っていることが全く同じ。
 全ては自分のものであるべきで、何かが誰かのものであることが許せないのだろうか。
 スフィーナはぐっと奥歯を噛みしめ、言葉を押し込んだ。

 その時義母は、ふっとスフィーナの傍にあるものに目を留めた。
 いつも食事をすぐに持ってきなさいと怒鳴る義母のために、給仕が朝食を乗せた盆を運んでいたものの、スフィーナと義母が立ちはだかっており立ち往生していたのだ。
 盆の上には義母に言いつけられている通り、熱い紅茶が一杯と、スープの皿、それからサラダがのっていた。

 俯いているスフィーナにも、義母がよからぬことを考えている気配は感じ取れた。
 だがはっとしたときにはもう遅かった。 

「あら失礼。手が滑ったわ」

 義母はぞんざいに手を振ると、紅茶のカップをスフィーナ目掛けて払った。

「……!!」

 ぱしゃりと掛かった紅茶は服を濡らして張り付き、震えるほどに熱かった。
 運よく割れずに転がった紅茶のカップを見つめながら、スフィーナはぐっと手を握り締め堪えた。
 ここで熱がればみっともないと騒ぐのは目に見えているから。

 だがその時だった。

「あっ、あ――!!」

 突然カップがなくなったことでお盆のバランスが崩れてしまったらしい。
 給仕は慌てて持ち直そうとしたものの、湯気の立ったスープを乗せたお盆は義母へと向かって傾いていった。

「ちょっと、何して――!!」

 危ない、と思ったときにはスープは義母へとその身を投げ出していた。

「きゃああぁぁぁっっ!! あつい、あついわよ! 何してくれてるの、早く拭きなさいよこのノロマ!!」

 義母はあつい、あついと身を躍らせながら、周囲で身をすくませている使用人たちを叱責した。
 とろりとしたコーンスープは義母の体にまとわりつき、腕を振っても落ちない。

「お母様?! ちょっと、あんたたち早く何か冷たい物でも持ってきなさいよ! 早く、早く!」

 ミリーの声にはっとしたように我に返った使用人たちが慌てて動き出したところで、スフィーナはそっと退室した。
 アンナが急ぎ着替えと冷やしたタオルを用意してくれて、スフィーナはやっと一息ついた。

 義母は自業自得ではあるのだが、カップ一杯の紅茶でもあれだけ熱かったのだ。
 火傷になっていないといいのだが。

 そんな心配を口にすると、着替えを手伝ってくれていたアンナはきっぱりと「いい薬です」と言い放った。
 そうね、と同調してしまうのも申し訳なかったが、アンナのあまりの言い切りぶりに、つい少しだけ、吹き出してしまった。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...