血の記憶

甘宮しずく

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もうひとつの悲劇

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 蒼依は玄関を出る前に一度だけ祖父を振り返った。

 蒼一郎は真っ青な顔で立ちつくしている。兄が言ったことが事実なら、罪悪感で死んだっておかしくない状況だ。

 「行かせるわけにはいきません」外に出ると、野島がふたりの行く手をさえぎった。

 「じいさんの持病が本当なら、今すぐ医者を呼んだほうがいいぞ」なんだかんだ言いながら、兄も祖父の発作を心配していたようだ。

 野島はためらっている。ふたりと玄関を交互に見た。

 兄はさらに彼の忠誠心をくすぐった。
 「ご主人さまに何かあったら、元も子もないだろう?」
 軽蔑そのものだったが、効果はてきめんだった。

 野島は道を開け、玄関に突進した。

 「無理やり書かされた離婚届け、って本当?」兄の車に乗ると、さっそく気になっていたことを問いただした。

 「本当だ」
 蒼太の横顔は収まらない怒りに、まだ強張っている。

 「くわしく教えて」

 「本当に聞きたいのか?」
 蒼太は一瞬だけ夜道から目を離し、妹に鋭い一瞥をくれた。

 蒼依はきっぱりうなずいた。そろそろ目を背けるのを止めて、真実を知るべきだ。

 蒼太はしばしの沈黙のあと、語り始めた。
 「親父とおふくろの結婚に、じいさんが反対してたことはわかってるな?」

 「知ってる」

 「理由は、親父が〈望月ホテル〉とはまったく関係のない、ちょっと名が知れただけのホストだったからだ。親父はじいさんに認めてもらおうと職を変えたが、無駄だった。だから、駆け落ちした」兄の声は低く硬い。
 「あのまま絶縁状態が続いていたら、ふたりは幸せだった。だがじいさんは勘当を解き、娘を捜し出した。大方、相続問題と関係があるんだろう。じいさんも年だからな」

 つねに祖父だけを悪者にした言い方に、蒼依は反発を覚えた。
 祖父が何をしようが、家族を捨てたのは父だ。そう反撃したかったが、自分から聞きたいと言い出した手前、じっと堪える。

 その間にも蒼太の声は苦々しさを増し、ハンドルを持つ手が白く強張った。
 「親父が帰ってこなかったあの日、じいさんは親父を呼び出し、こう言った。『燈子との仲を認めてほしかったら、三ヶ月間、誠心誠意<望月ホテル>尽くせ。その間、絶対に娘や孫たちに会ってはならない』
それが条件だった。親父はおふくろのために承知した。おふくろを喜ばせたかったんだろ。親ひとり子ひとりだったからな。俺らの名前には、じいさんの一字が入ってるだろ?いつか許してもらえることを願って、つけたんだろな」

 同感だ。
 だがここまでの話を聞いた限りでは、その日以来、父が帰らなかった理由にならない。祖父との約束を果たせば、帰ってこれたはずだ。

 「ところがいざ入社してみると、職場の人間は冷ややかだった。何の実務経験もない親父に、仕事を教えるどころか蔑まれ邪険な扱いを受けた。あげくの果てに元ホストだったことを皮肉って接待係と称し、昼間は会社の隅で無視され、皆が仕事を終える頃、親父の仕事は始まる」

 「ひどい……」

 「そうさ。まるでいじめだ。そして、ここからがじいさんの本領発揮だ。その接待の席で、酒に強いはずの親父がたった一杯の酒でつぶれた。次に目覚めたとき、見たこともない部屋で見知らぬ女と裸で寝ていた。そこへ劇的に登場したのがじいさんだ。よくできてるだろ?じいさんは口汚く責め立て、二度とうちに戻るな、と脅した。戻ればそのことをおふくろに話す、ってわけだ」

 蒼依は三文芝居ような話に、顔をしかめた。
 それが本当なら、父は母を死に追いやった犯人ではなく哀れな被害者だ。だがあの祖父が、そんなちんけな画策をするだろうか?その証拠は?
 永年育み続けた父への憎しみは不幸が訪れるたび大きくなり、そんな話ひとつで取り消せるレベルではなかった。

 「どうして兄さんがそんなことまで知っているの?」

 「親父に聞いた」

 ますます話の信憑性が薄れてきた。責任逃れのために、父はどんな言い訳でもしただろう。

 「俺も最初は親父を恨んでた」蒼太が話の続きを始める。「顔を見るのも、思い出すのもいやだった。
だけどホストを始めてしばらくした頃、俺によく似た落ちぶれホストの話を聞いたんだ。すぐに親父のことだとわかったよ。それで行方を捜し始めた。正直、懐かしさより好奇心とか軽蔑の気持ちが強くて、惨めな姿を笑ってやろう、ぐらいにしか考えてなかった。ようやく親父にたどりついたとき、親父は死にかけてた」
 そのときの様子を思い出しているのだろう。声が一段と低く暗くなった。
 「薄汚い小さな部屋の万年床で、これが同じ男かと思うほど変わり果てていた」
 蒼太が深いため息をつき、疲れたように首の後ろをさする。しゃべるのがつらそうだ。

 蒼依は話に引きこまれ、兄を食い入るように見つめた。

 「身体は骨と皮で土気色だった。俺を見て、開口一番おふくろが幸せか訊いてきた」兄がつばを呑んで、込みあげるものを飲み込んだ。
 「そして何があったか話してくれたよ。欲も希望も失い、死にかけた人間が嘘をつくと思うか?」

 蒼依は答えられなかった。兄の言うところの真実と、頑固な執念の狭間で揺れている。

 蒼太が荒い息をひとつつき、胸ポケットから写真を一枚、蒼依の膝に投げてよこした。
 「親父はそれを見せられて、離婚を決意したそうだ」

 それは、一度は破られたものを修復したヨレヨレの写真だった。
 今は跡形もないアパートの前で、蒼依と背の高い男性に肩を支えられた母が写っている。母はうつむき、蒼依と男性は話し込んでいるようだ。

 蒼依にはそんな写真を撮られた覚えはなく、明らかに隠し撮りされたものだった。

 「野島はその写真を見せて、おふくろが幸せになるのを親父が邪魔している、と言ったそうだ」

 「違う!」思わず大声をあげた。「そんなの嘘よ!この人は母さんが働いてたお店の店長だもん。この日、母さんが仕事中に倒れて送ってくださったの。母さんはこのときも父さんが帰るのを待っていたんだから!」

 いつか野島を見たことがある、と思ったのは、隠し撮りされたとき、彼を見かけていたのかもしれない。

 「やっぱりな」蒼太がくやしそうにつぶやいた。「親父にしたら、たとえ書類上であれ、おふくろとつながっていることが最後の希望だったんだ。それが断ち切られ、生きる気力を失った。親父にとっても離婚は致命傷だったんだ。死ぬ間際、親父はおふくろを呼んでいたよ」

 蒼依はようやく兄の話を信じた。
 父の苦しみが胸にせまってくる。愛する者を失う苦痛なら、蒼依も知っている。それがどんなにつらいか。どんなに深い虚しさを生み出すか。内側から破壊され、生きながら死んでいくようだ。

 在りし日のいちゃつく両親の姿が、兄のからかいの声とともによみがえってきた。
 あれほどお互いを思いながら引き裂かれたふたりの無念を思い、涙があふれた。何も知らず恨み続けた後悔に、胸が締めつけられる。

 静かな車内に、抑えきれないおえつがもれた。

 固く握りしめた冷たい手に、兄の温かい手がかぶさってきた。

 蒼依も兄の手を強く握り返した。
 「父さんについていてくれて、ありがとう」

 蒼太は妹の手をギュッと握ってから、手をハンドルに戻した。
 「あいつらを信じるな。野島はじいさんの手先だ。いつだってチャンスを虎視眈々と狙っている。今日の真崎さんは、あのときの親父を見ているようだったよ」



 蒼依は兄の手を借りてアパートの階段をのぼった。
気は急くが、体力の衰えた体はままならない。

 彼はそこにいた。捨てられた仔犬みたいに、部屋の前にうずくまっている。

 「晃聖!」夢中で彼を呼んだ。

 彼女が兄の手を離れるのと、晃聖が立ちあがるのと同時だった。

 晃聖ががむしゃらに手を伸ばし、腕の中に抱き込んだ。

 心からの安堵に包まれる。

 「俺はおじゃまみたいだから、帰るよ」蒼太がにやつきながら言った。

 だが、ふたりの耳には届いていなかった。
 「きみが消えるたび、寿命が縮まりそうになる」
 晃聖が首筋につぶやき、抱きしめる圧力が増した。

 「ごめんなさい」愛しさに彼の胸に擦り寄った。
 兄が警告した通り、ひどい臭いだ。でも、気にならない。
 「あなたを信じたかったけど、自信がなかったの。父と兄が出ていったとき、私がそばにいたのに母は死んでしまった。ずっと一緒にいるつもりだったのに、私じゃだめだった。だから、あなたも――」

 「きみがいないと生きていけない」終いまで聞かず、晃聖が言った。
 「知佳が言ったことは嘘だ。俺にはきみしかいない。他の誰かじゃだめなんだ。きみと出会って、すべてが変わった。それまでの馬鹿な俺は吹き飛び、きみしか見えなくなった。」
 そこで晃聖は抱擁を解き、真摯なまなざしで蒼依を見た。
 「心の中がきみでいっぱいだ。愛してる。信じてくれ」

 彼の告白が心に染みた。
 「信じる」
 今のふたりには何より信頼が必要だ。
 「だから私のそばにいて。何があっても、私をひとりにしないで」
 両親と同じ轍を踏まぬよう、心をより合わせ、あらゆる話をしなければならない。

 「望むところだ。結婚してくれたら、もっと確実にできる」
 晃聖はいつもの自信を取り戻しつつあるようだ。

 「本気?私の愛情はかなり激しいんだけど、耐えられる?」

 「任せとけ。俺の愛情もそうとうだから、いい勝負だと思うよ。確かめてみるか?」意味深な発言で、ニヤリを笑う。
 
 「それにしちゃ、汚れすぎじゃない?すごく臭いんだけど」蒼依は顔をそむけ、わざとらしく鼻をつまんでみせた。
 実際、彼を愛していなければ我慢できないレベルだ。だが、それこそが何日も彼女を待ちわびた証拠だった。

 「きみこそなんだかフラフラして、おかしいようだけど?」
 なめ回すように見つめる晃聖の視線は何も見逃さない。

 蒼依は匂いをものともせず、彼にもたれた。
 「このところ愛情不足で、貧血になったみたい」

 「それじゃ、さっそく補給しないとな。その前に、シャワーを一緒にどうだ?」

 肩を抱かれて部屋に入り、ふたり以外のすべてを締め出した。





      完

******************************************************************

 ご挨拶
 〈血の記憶〉を最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 〈血の記憶〉は私の三作目の作品です。(これ以前のものは公開していません)
未熟な出来栄えは、昔の写真を見るような恥ずかしさがありますね。
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