血の記憶

甘宮しずく

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疑惑

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 翌朝、晃聖は長いキスを残して旅立っていった。たった四日間のことなのに、彼のいない日々は途方もなく長く淋しい。兄の訪問もなんの慰めにもならず、晃聖からの電話だけが彼女を生き返らせる。まるで彼の存在の貴重さを、自分の思いの深さを思い知らされるようだった。
 四日会えないだけでこの有様なのに、彼と別れたらどうなるのか想像もつかない。

 これこそ、まさに恐れていた事態。母と同じ道をたどっていた。引き返すにはすでに遅すぎる。思慕が強すぎて、がんじがらめで流されていくようだ。
 結婚は死ぬほど怖いが、別れは死よりも恐ろしい。彼を失いたくない。その思いは日増しに募った。

 明日は晃聖が帰るという日、蒼依の心は決まったも同然だった。胸は恋しさに震え、再会が待ち遠しい。せめて彼の声だけでも聞きたかった。

 蒼依は携帯電話を握り締め、愛しい声を期待したが、応えたのは無味乾燥な通話サービスだった。

 まだ仕事中なのだろうか?それとも運転中?とうに二十時を回り、いつもなら彼の方から電話をくれている時間だ。

 お預けを喰らって、なおさら焦がれた。
 頭の中で晃聖を反芻する。彼女を呼ぶ低い声。彼の匂い。手の感触。優しいキス。料理の腕前は彼女よりずっと上手で、ダンスはさらにうまい。彼と愛し合うのは最高の幸せだ。彼を自分の中に閉じ込め、すべてがひとつになる。

 部屋の呼び鈴が鳴り、妄想は断ち切られた。
甘い想像でふやけた頭は、仕事を早めに終えた晃聖ではないかと期待していた。

 血の気が引いた。
 本当に過去の亡霊がやってきた。そこには恐怖の底に眠っていた女性、晃聖の部屋の前で彼女にナイフを突きつけた知佳がいた。
 きれいな顔に浮かべた薄ら笑いが不気味だ。

 「お久しぶり」信じられないことに、まるで古い友人にでも挨拶するみたいに彼女が言った。

 蒼依は虚を突かれたまま、声も出せなかった。膝は恐怖に震え、卒倒寸前だ。

 なぜ彼女が来たのかわからない。あのときの仕返しに来たの?
 今回は頼みの綱の晃聖はいない。つまり、自分ひとりで闘うしかないということだ。

 蒼依は怖気づく気持ちを手のひらに握りこみ、ありったけの勇気を声にした。
 「何のご用でしょう?」そのかいあって、なんとか落ち着いた声が出せた。

 敵もさる者、目をぎらつかせ、薄っぺらな笑いに毒気が増した。
 「そろそろ晃聖を返してもらおうと思って、話をつけにきたの」

 衝撃に虚勢がくずれた。動揺が群れをなして、表情や態度に出てしまった。

 「最近あいつ、来てないでしょ?」勢いづいた知佳が、得意気に指摘する。

 負けまいと踏ん張った。
 「今、撮影で出張中だから」

 「へー、あなたにはそう言ってるんだ」知佳が楽しそうに目を光らせる。「あいつ今、私の部屋にいるよ」

 そのひと言が蒼依を切り裂いた。
 手足が冷たくなり、目がかすむ。体中に毒が回り、血液までが苦しんでいる。周りが暗くなり倒れそうになったが、ドアノブをつかんで踏ん張った。
 この女の前で無様に気を失うなんて、死んでもいやだ。

 「晃聖の浮気は病気よ」知佳がしゃべっている。「いつも飽きると、私のとこに戻ってくるの。あなたにはかわいそうだけど、このまま知らずにいたらもっと悲惨でしょう?」同情めかして言っているが、悪意しか感じない。

 蒼依はなんとか自制心を取り戻した。このままうなだれ、彼女を喜ばせてなるものか。
 「彼が帰ったら、本人の口から本当のことを聞きます」

 知佳が目をむいた。
 「真実は今、話したじゃないの。あなたのためと思って、わざわざ来てやったのよ」

 空元気だったが、薄ら笑いを剥ぎ取ってやっただけでも上等だ。ついでに、彼女の目的が見えてきた。
 「いいえ。あなたは、私を苦しめるために来たのよ」

 知佳が唇を引き結んで、にらみつけてくる。初対面で見せた、憎しみの形相だ。

 どうやって家を嗅ぎつけたかは謎だが、――兄たちの例もあるし――もしかしたら彼女は、晃聖のストーカーかもしれない。それに彼が、遊びの女相手にプロポーズするとは思えなかった。

 みるみる自信が湧いてきた。蒼依はひるまず彼女を見返した。
 「真実は彼が知っています。どうぞ、お引き取りください」

 知佳は何か言いたそうに深く息を吸い込んだが、一瞬あとには不敵に見返してきた。
 「ふん。あとで泣いたってしらないからね」それが彼女の棄て台詞だった。

 あとにはむさ苦しい静けさが残った。知佳を追い払った興奮が去ると、自信は見る影もなくなった。

 今夜は眠れない。晃聖の声を聞き、彼女の嘘を確かめなきゃ気が済まない。心がざわめく。暗雲がすぐそこまで迫っているような気がして、落ち着かない。
 今すぐ晃聖に会い、愛情が本物であると確信したかった。

 それから一時間、役に立たない携帯電話を相手に、蒼依は最悪のときを過ごした。十分ごと祈るようにかける電話はことごとく当てがはずれ、そのたび不安が大きくなっていく。
 それでも諦めきれず、携帯を鳴らし続けた。

 その合間を縫って、呼び鈴が鳴った。
 真っ先に浮かんだのは、邪悪な笑みを浮かべた知佳だ。だが、晃聖かもしれない。
 蒼依にドアを開けさせるには十分だった。

 またしても祈りは届かなかった。
 儀礼的な挨拶をする野島の陰気な顔を、落胆して見あげる。彼が何か言い出す前から言い訳を考え始めていた。彼が来た理由はひとつ。

 「お迎えにあがりました」野島が丁寧なもの言いで難題を持ち出してきた。

 望月家の問題は兄が解決してくれたんじゃなかったの?今はそれどころじゃない。明日には晃聖が帰ってくるし、今は彼と連絡をとること以上に大事なことはない。

 「無理です。こんな時間だし、明日、仕事が――」

 「会社にはこちらから連絡します」彼女の言い訳は、にべもなく一蹴された。
 祖父同様、彼にとっても蒼依の仕事は一考の価値もないようだ。

 「そうはいきません」ムッとして言い返す。「私にも予定があるんです。今、大事な電話を待っていて――」

 「真崎晃聖ですか?」

 思考が止まった。ずばり言い当てられ、こくりとうなずく。

 無表情の野島が、めずらしく顔をくもらせた。
 「お嬢さま。彼はいけません」

 「何がいけないんですか?」

 「彼は……」言いよどむ。

 言いまわしの不吉さにおののいた。だが、訊かずにいられない。
 「彼がどうしたの?」

 「彼はある女性といます」

 嘘!それは言葉にならなかった。
 頭の中は否定の気持ちでいっぱいだ。野島を締め出し、耳をふさいでしまいたい。
 それなのに身体が凍りつき、彼がしゃべるに任せた。

 「私たちはこの数ヶ月、彼の身辺調査をしてきました」野島は苦々しく説明を続ける。「真崎晃聖はお嬢さまにふさわしい男ではありません。彼は今週ずっと、知佳と呼ばれる女性といます。彼らはこれまでも度々会っていたと思われ――」

 淡々とした声が拒絶の壁を踏み越え、染み入ってくる。
 悪意の塊のような知佳となら戦えた。
 しかし緻密に調査された冷静な裏づけには、とても太刀打ちできない。どっぷりと失意の深淵にはまり、息も絶え絶えだ。

 「彼を待っても無駄です。それより、私と参りましょう。おじいさまはずっと、お嬢さまのお帰りをお待ちですよ」
 蒼依の芽生えたばかりの小さな幸せは、野島の冷徹なひと言で摘み取られた。

 蒼依はぼんやりとうなずいた。野島に言われるまま身支度を済ませ、車に乗り込む。
 絶望に心を破壊され、考える力も失っていた。
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