血の記憶

甘宮しずく

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再会

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 蒼依は一日の仕事を終え、クタクタでアパートにたどり着いた。

 身寄りのない彼女にとって、次の仕事を探すのは至難の技だと思っていたが、綾の働きかけでその問題はあっさり片づいた。今、彼女は<youサービスプロモーション>と取り引きのある会場設営の会社にいた。お茶汲みから電話の受けつけ、人が足りなければ現場の力仕事もこなす。いわば雑用係だ。仕事はきついが、その忙しさにずいぶんと救われていた。
 変えようのない過去をクヨクヨ考える暇はなく、帰れば家事をこなしてベッドに崩れ落ちる。最近ようやく大学の通信教育の学費が貯まり、教育課程を始めたところだった。

 一年前のあの日、生きることを選んだときから、自分の存在理由や本質、意義を真剣に考えるようになった。目標はまだ定められずにいるが、コンプレックスの元になっている学歴を克服することが、次に進むステップになるだろうと考えている。そしていつか、遠い昔に失った夢を取り戻したかった。
 ただ存在するだけでなく生気ある者として生きるために、将来を形作る希望の核はどこにあるのか?歓びをもたらすものは?真崎晃聖……。

 ふいに浮かんだ考えに、蒼依は冷水を浴びせられたように立ちすくんだ。ささやかな計画が一瞬にして遠ざかる。

 彼は私の未来に二度と登場しないし、希望でも喜びでもない。私を救うと言った彼が、新たな苦しみの元凶となった。

 蒼依は必死に晃聖の面影を払った。疲れて堅く強張った首筋をさすり、バッグの中の鍵を手探りする。指先が冷たい鍵の感触を探り当てたとたん肩を叩かれ、蒼依は飛び上がった。

 「蒼依?」

 男性の声に、蒼依は肩をすぼめて振り返った。

 一瞬、彼が誰だかわからなかった。長い間会っていなかったし、二度と会うことはないだろうと思っていたからだ。

 「兄さん?」驚きのあまり声が裏返る。

 八年ぶりに見る蒼太は、最後に見たときよりずっと父に似ていた。一目で女性を虜にするまなざしも、通った鼻筋も、セクシーな口元も、いかにももてそうな顔立ちだ。背も一段と高くなり、肩幅も広い。彼女とそっくりの顔で、成長した妹を見おろしている。
 「やっと、会えた」まぶしい笑顔をたたえ、感嘆した。

 「兄さん!」
 懐かしさと喜びと歯がゆさがごちゃになり、夢中で兄に抱きついた。
 「ずっと待ってたんだよ。あれから大変だったんだから!どうして帰ってきてくれなかったの?」悔しさを込め、兄の胸を叩く。
 本当はこんなものでは済まないが、今は再会できたうれしさに浮かれていた。

 「ごめん」

 「とにかく、入って」蒼依はドアを開けて、兄を招き入れた。

 今度の部屋は以前住んでいた部屋より狭いが、新しかった。壁は白くてきれいだし、天井にしみもない。

 蒼太は会えずにいた妹の暮らしぶりを確かめるかのように、見回している。その昔、自分がつけたチェストの傷を見つけ懐かしそうに撫でた。

 「すっかり大人になって、きれいになったな」蒼太がしみじみ言う。

 「兄さんもね。コーヒーでいい?」

 「ありがとう。俺はきれいじゃなくて、かっこいい、と言ってほしいね」
 ふたりは穏やかに笑った。

 蒼依が座ると、蒼太は堰を切ったように質問を始めた。
 「おふくろと一緒に暮らしてないのか?あれからどうなった?おふくろはどうしてる?」

 たちまち蒼依は暗く沈んだ。
 あれからの生活がどれほど惨めだったことか。生活は貧しく、毎日が学校とバイトの往復だった。
 母は挫ける心を必死に奮い立たせ、慣れない仕事で生活を支えていたが、しだいに衰え力尽きた。仕事先で倒れた母は、店長に送られて帰った日から寝ついた。病気は気から、を地でいったようなものだった。
 あれほど笑いに満ちていた同じ部屋に、ふたり残される寒々しさがどんなものか、夫に去られ息子にまで見限られた母の悲しみがどんなに深かったか、この兄は知らない。

 「母さんは亡くなったの」

 蒼太の顔に衝撃が走った。
 「いつ?」低くかすれた声にも動揺が表れている。

 家出したことへの後悔だろうか?それとも、死に目に会えなかった淋しさ?再会に沸き立った喜びが去ると、見捨てられた恨みがふつふつと湧いてくる。

 「兄さんが出ていった翌年」

 蒼太は指を折って数えた。
 「七年前か」暗くつぶやく。

 「母さんはずっと、兄さんたちが帰ってくるのを待ってた。でも、だんだん衰弱して……」青ざめる兄を、蒼依はなじった。「どうして出ていったの?」

 「俺は……耐えられなかった。意気地がないと言われればそれまでだが、辛そうなおふくろを見ているのも、のしかかってくる責任も、苦しかった。だから、逃げ出した」

 「母さんには、もう私たちしかいなかったのよ!兄さんが家出してからの母さんはもっと悲惨だった。自分だってボロボロのくせに、私を慰めようとするものだから――」在りし日の思い出に喉がつまる。

 「ごめん」慰めるように、蒼太が彼女の頭に手を置いた。

 「謝るなら、母さんに謝ってよ!」どうしようもない憤りに、手を払う。

 「ごめん」今度は頭を下げてきた。

 いくら謝られても、気分は晴れない。行き場のなくなった憤怒が、腹の底でとぐろを巻いているかのようだ。

 「いつだったか、家に帰ってみたんだ」重いため息をはさんで、蒼太が話を続ける。「だけどアパートはなくなっていて、更地だった。どこに行ったかまったくわからなくて、マジで後悔した。それからずっと捜していたんだ」

 「母さんが亡くなってから、引越ししたの。それを機に、藤島は棄てたのよ」
 望月は母の旧姓だ。

 「蒼依ひとりに辛い思いをさせて、ごめんな。謝って許されようとは思ってないけど、それでもごめん。これからは二度とひとりにしないから」

 「ほんと?」

 「絶対だ」

 蒼依はうつむき、怒りをかきわけ浮上してくる喜びをかみ締めた。
 ひとりぼっちがどんなに心細かったことか。どこにいるかわからない兄を、どれほど恋しく思ったことか。憎んだことさえ、愛情の裏返しだとわかっていた。
 これからは兄が傍にいてくれる。恨みを棄て去ることはできないが、罪悪感であれ、憐れみであれ、差し出された手をはねつけられるほど強くはなれなかった。

 「うれしい……」

 「それと、親父のことだけど――」蒼太がおずおずと切り出してきた。

 「あの人の話はしたくない!」きっぱり遮った。
 未熟さゆえの兄の逃走は理解できる。だが、父の裏切りは絶対、許せない。すべての始まりは父だった。
 「あの人のことは思い出すのもいやなの。過去のことで、私たちは十分苦しんだでしょ?これからは前を見ていきましょうよ」

 「でも……」蒼太はためらっている。

 「ねえ、どうやって私を見つけたの?」父以外のことに意識を向けさせたかった。

 蒼太はしばらく妹を見つめていたが、やがてジーンズの尻ポケットからちぎり取った雑誌の一ページを広げて見せた。
 「ほら、ここ」ページの一点を指す。

 蒼依は顔を寄せて、のぞき込んだ。

 それは、いつか街中で撮られた写真だった。蒼依は写真が掲載されるのを拒んだが、同僚は喜んだ。それならば、彼女ひとりを撮り直してもらえるよう頼んだのに、それでは困るのだとカメラマンは言った。
 納得のいかない説明に、ムッとしたのを覚えている。小さく載るだけだからと説得され、しぶしぶ承知した。

 幸か不幸か、それを見つけて兄はやってきた。
 胸に一抹の不安がよぎる。こんな偶然、そう何度もあることじゃない。なだめてみたが、不安を拭い去ることはできなかった。



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