血の記憶

甘宮しずく

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別離

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 「いい子ねぇ」母がささやいている。

 蒼依は愛情あふれる優しい声に、耳をそばだてた。

 「もうすぐパパが来るわよ」

 パパ?父さんが帰ってきたの?

 「パパは早く真耶に会いたいんだって」

 マヤ?
 急に不安になり、居心地のいいその場所を抜け出そうともがいた。暗闇をかきわけ、まぶたを押し開ける。

 そこは光の洪水だった。真っ白な天井と、まばゆい光が目を刺す。一旦は目を閉じたものの、母の姿を求めて今一度、視線を巡らせた。

 傍らに赤ん坊を抱いた女性が見える。

 蒼依は目をしばたいた。

 視線を感じたのか、結城綾が顔をあげた。
 「よかった」

 「どうして?」しわがれた声だ。

 「怪我をしたのよ。覚えてる?倒れて、病院へ運ばれたの」

 夢ではなかった。私がひと組のカップルの邪魔をした。
 蒼依は現実から逃れたくて、目を閉じた。もう一度、安全だった闇の中に戻りたかった。

 「痛む?」

 痛いのは心。彼女を安心させたくて、首を振り目を開けた。

 「怪我は大したことないそうよ。落ち着いたら、帰っていいって。だけど、その前に警察が事情を聞きたいみたい。そういう決まりなんだって」そして、蒼依をジッと見る。
 彼女は待っているのだ。何があったか話すのを。

 しかし蒼依には話す覚悟も、何からどう話せばいいのかもわからない。思い浮かぶのは後悔。そして喪失感。話すより、泣きたかった。

 ところが泣き出したのは、綾の膝の上の赤ちゃんだった。手足をよじり、ぐずり始めている。

 たちまち綾は母親の顔に戻り、あやし始めた。

 蒼依は悲しみを押しやり、赤ん坊に注意を向けた。
 「真耶ちゃん?」

 綾がうなずいた。
 「うるさくしてごめんね」

 蒼依は首を振った。
 「見せてもらっていいですか?」

 綾がニッコリ笑って、身を寄せてきた。

 小さな顔に綿毛のような髪をした赤ん坊は、甘いミルクのような匂いがした。小さなこぶしを懸命に吸っている。ぽっちりした手足が、頬ずりしたくなるほどかわいらしい。

 あまりの愛くるしさに、彼女に触れてみた。柔らかな温もりが、冷えた心に染み渡る。凍りついた心を溶かし、空白になった部分が満たされるようだ。
 自分でも気づかぬうちに涙がこぼれ出た。慌ててぬぐう。これ以上、心配かけたくない。誰にも心の内を知られたくなかった。

 綾が話しかけようとしたが、控えめなノックにさえぎられた。夫の呼ぶ声に、迷った末子どもを連れて出て行った。

 この隙に考えをまとめようと、蒼依は起きあがった。身体の奥に初めて男性を受け入れた証しの鈍い痛みを感じる。

 晃聖を嫌う決定的な証拠――浮気者であることを目にしたにもかかわらず、思いをくじくことはできなかった。
 恐れるがゆえ避け続けてきた感情。見ようとしなかった心の奥に芽生えた思い。あんなに警戒していたのに、それはいつの間にか忍び込み、心に根をおろしていた。

 蒼依は今、初めて自らの心を直視した。
 真崎晃聖を愛している。それはデリケートで切なく、物狂おしいものだった。甘さと苦さを持つ、もろ刃の剣。あの無謀なふるまいも、切なる思いを叶えようとした無意識の衝動だったに違いない。彼のベッドを目にしたときの不快感は、まぎれもなく嫉妬だった。嫉妬する権利もないくせに!

 知佳の顔が浮かび、蒼依はまた苦しくなってきた。
 愚かさのつけを、こんな形で払わされるなんて……!これからどうすればいいのか、まったくわからない。ただ、晃聖に二度と会ってはならないことだけははっきりしていた。



 綾が娘を夫に預けて病室に戻ると、蒼依は座っていた。一見いつもの冷静さを取り戻したように見えるが、顔色が悪く、絶望感が漂っている。

 ふだん感情を見せない彼女の涙を目のあたりにし、綾は少々動揺していた。怪我といい、沈んだ様子といい、何かがあったのは間違いない。
 だけど、決して心を明かさない彼女のことだ。事実を聞き出せる見込みはない。

 綾はどうしたものかと思案しながら、ひとつしかない椅子にかけた。

 ところが、最初に沈黙を破ったのは蒼依の方だった。
 「お話があります」思いつめた様子でこちらを見ている。両手を握り合わせ、話す決意を固めたようだ。
 しゃべり慣れない彼女が、懸命に言葉を紡ごうとする姿が痛々しかった。

 「〈youサービスプロモーション〉を辞めさせてください」言葉と共に頭を垂れた。

 綾は息を呑んで、彼女を見つめた。
 辞めるということは、会社絡みのトラブルだろうか?まさか、お客に襲われたとか?思いは千々に乱れる。

 「理由をお知りになりたいでしょうね?」

 綾は何度もうなずいた。ぜひとも聞かせてほしい。

 「この傷は刺されたんです。その人は、私が恋人を横取りしたと勘違いして――」蒼依は言葉につまり、つばを呑んだ。
 そのまま沈黙するかと思ったが、つっかえつっかえながらも怪我を負った経緯をかいつまんで告白していく。
 「なぜだか彼は、私を救うという崇高な誓いを立てたようで、断ってもしつこくやってくるんです。彼は私の部屋も、仕事場も知っていて……」そこで蒼依はわかってほしいというように、彼女を見た。

 綾には彼女の気持ちが痛いほど理解できた。口にこそ出さないが、蒼依はその男性を愛しているのだろう。でなければ、姿を消すより先に、ストーカー被害を訴えるはずだ。
 求められれば、拒みきれない愛した者の弱み。愛してはいけない人を愛し、コントロールできない感情に振り回される苦悩。しかも、会えば会うほど彼女は危険にさらされる。
 他に彼女を救える道があるだろうか?逃げることは何の解決にもならないとわかっていたが、生命の危機に関わるとなると話は別だ。

 「行く所はあるの?」

 蒼依が自信なさそうにうなだれた。
 「これから考えます」

 「それなら、私に任せてくれない?悪いようにはしないから」
 彼女に身寄りがないのは知っている。これまでも何かと気にしてきたのだ。だから、このまま放っておけなかった。

 「迷惑をおかけしたくないんです。それでなくても、めんどうに巻きこんでしまって……」

 「やりたいから言ってるの。私たちは友だちでしょ?だから、手伝わせて」

 蒼依の頬にほんのり赤みが戻り、目がうるんだ。
 「ありがとうございます」彼女がうつむき、ポツリと涙が落ちた



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