血の記憶

甘宮しずく

文字の大きさ
上 下
20 / 42
別離

20

しおりを挟む
 部屋は静かだった。蒼依は気だるさと心地よい疲労感に包まれ、動く気にもなれない。身体は満たされ、このまま眠ってしまいたいくらいだ。

 だけど、タイムリミットが迫っている。
 本当はすぐさま彼から離れ、永遠の別れを告げるべきだった。それが、未だこの有様だ。

 蒼依は彼の肩に頭を預け、横顔を見つめた。

 晃聖は彼女に腕を回し、目を閉じている。何を考えているのか、あれから一度も口をきいていない。肩先で親指が小さな円を描き続けていた。

 もしかしたら、彼も別れの算段をしているのかもしれない。

 そう思ったら、心を絞り取られるような感じがした。自分でも彼を追い払うために抱かれたくせに、勝手なものだ。
 しかも、そのせいでさらに厄介なことになっている。欲望のさなか優しさを見せつけられ、迷いが生じた。晃聖のそばにいたい。触れていたい。信じたい。早く彼から離れなければ、甘い誘惑に負けそうだ。

 蒼依はノロノロと、彼の腕から抜け出した。

 晃聖の手が、追いすがるように腕に絡みついてきた。

 それでも自分を叱咤して逃れ、下着に手を伸ばす。

 「蒼依?」

 もの問いた気な声に一瞬、手を止めたものの、そそくさと服をかき集める。せめて服で武装しなければ、彼をまともに見ることもできない。ましてや、これで終わりにする話など絶対、無理だ。

 なんとか身支度を整え、彼を振り返ったが、蒼依は間違っていた。裸の上半身を見ただけで落ち着きを失い、口がカラカラになる。その腕に守られたくて、厚い胸に寄り添いたくなる。

 彼はそこにいるだけで、確かな影響力を持っていた。

 蒼依は顔を赤らめ、目をそらした。
 「これで気が済んだでしょう?」決心が鈍らないうちに言葉を絞り出した。

 「何が?」

 「これであなたの欲望は満たされた。もう追いかける必要はなくなったじゃない。会うのはこれで最後にしましょうよ」自分で言っておきながら、心がボロボロになった。

 「なんだと?それじゃ、終わりにするために誘ったのか!?」

 その口調の激しさに、つい視線が彼に吸い寄せられる。

 晃聖は怒りをみなぎらせていた。厳しいまなざしが凄みを帯び、蒼依を見据えている。こめかみの血管が脈打つのが、彼女の目にもはっきりとわかった。

 「そんな話があるか!終わりにするために寝るなんて!」

 晃聖はベッドからおりようとしている。そして私をつかまえるだろう。

 怒った彼も怖いが、私の中のもうひとりの私はもっと怖い。つかまれば、母の血を継ぐ女はたちまち彼に溺れるだろう。今もその女は、彼の元に戻りたいと泣いている。なりふりかまわず、彼の女になりたいと叫んでいる。
 そんな言葉に耳を貸すわけにはいかなかった。

 蒼依は後ずさり、足元に落ちていたバッグを拾った。

 「終わりになんかしないからな。これは始まりだ!」

 晃聖が立ち上がったとたん、蒼依は踵を返した。

 晃聖が大声で呼んでいる。

 蒼依はかまわず外へ出た。ドアの外で一瞬立ち止まり、身だしなみをチェックした。さっきまで裸だったなんて誰にも悟られないよう心を落ち着ける。歩き出そうとしてそのまま固まった。

 すぐ先に若い女性が立っていた。

 隣の住人という感じではなかった。
 真っ白いトップに桜色のミニスカート。頭に桜色のかわいい帽子を載せている。

 女性が蒼依を見据え、ツカツカと近づいてきた。
 「やっぱり!」目を怒らせ吐き捨てる。「最近おかしいと思ったら、女なんか連れ込んで!」

 いきなり喉元に怒りの矛先を突きつけられ、茫然とした。

 「人の男、取ってんじゃないわよ!」

 人の男?真崎晃聖のこと?
 目の前が真っ暗になった。急に自分が最低最悪の尻軽になった気分だ。今更ながら、軽はずみな行動を悔やまずにいられない。
 これ以上、彼と関わる気がないことを、怒り狂ったこの女性にどう説明したものか?慌てふためき、言葉は何も出てこない。辺りには不穏な空気が立ちこめ始めていた。

 女性は我慢ならないとばかりに、眉をつりあげた。
 「無視してんじゃないわよ!あんたなんか――」怒りに震える手がバッグを探り、小さなナイフを取り出した。

 目の前で起こっていることが信じられない。今日が始まったとき、こんな結末は予想もしなかった。わかっていれば、決して彼には近づかなかったものを。彼女の視線を逃れ、石のように縮こまりたい。どこでもいい。ここ以外の場所にいたかった。
 だが、のたうつ恐怖に足がすくみ、向けられたナイフから目が離せなかった。

 「殺してやる!」ナイフを振りかざし、彼女が迫ってきた。

 蒼依が身をかわしたのはとっさのことだった。条件反射、本能、どちらでもいい。生きることを望んだのだ。鋭い切っ先は蒼依の上腕をかすめ、はずれた。

 彼女が悔しげな声を張りあげ、もう一度ナイフを振りあげたとき、背後でドアが開いた。

 「何してる!?」晃聖の驚愕した声が響き渡った。

 女性の視線は一瞬、晃聖に向いたが、再び蒼依に戻ってきたとき、さらに狂暴さが増していた。

 殺される!ギュッと目をつぶった。

 「知佳!」

 「放してよ!この女、殺してやる!」金きり声が耳に突き刺さる。

 「やめろ!」切迫した怒鳴り声が、彼女の声をけちらした。

 ナイフの落ちる音に、蒼依は恐る恐る目を開いた。

 目の前で晃聖が知佳の手をねじあげている。
 彼は外出できる姿ではなかった。ジーンズのジッパーはあげていたものの、ボタンははずれたまま、シャツに至っては全開だ。

 彼女は察したのだ。稲妻みたいにひらめく女の第六感で、彼がさっきまで全裸だったことを……。

 知佳の目はまだ憎悪を込め、蒼依をわしづかみにしていた。彼が押さえつけていなければ、つかみかかられていただろう。

 「大丈夫か?」知佳をつかまえたまま、晃聖が訊いた。

 それが蒼依の呪縛を解いた。度重なる緊張に、神経は限界を超えている。恐怖と惨めさと恥ずかしさで、吐きそうだ。
 蒼依はジリジリと後ずさった。

 「ちょっと!逃げんじゃないわよ!」憎しみが追ってくる。

 「蒼依!」苦しみが追ってくる。

 とうとう蒼依は背を向け、一目散に逃げ出した。
 非常階段を駆け下り、夕闇迫る街へと飛び出していく。恐怖から逃げるために。悲しみから逃げるために。
 しかし、そのどちらも彼女の中にあった。人の声も、街の音も何も聞こえない。ただ荒い呼吸だけが耳に響く。

 やがて疲れ果て、息を切らして歩き始めた。どこを歩いているのか見当もつかない。頭の中は恐怖の映像でいっぱいだ。知佳の叫びが耳にこびりついていた。

 彼女は晃聖の恋人だった。そして、私は恋人を奪った女?母から父を奪っていった女のような?
 そうだ。彼は友だちになろうと言ったのに、私が誘惑し、友だちの垣根を越えさせた。
 彼女は母と同じように、苦しんでいた。同じように刃物を手にし、ひとりは相手に向け、もうひとりは自らに向けた。

 その事実が蒼依をズタズタにした。いっそのこと、彼女の手にかかってしまえばよかった。
 強い衝撃にすべてが混沌として、筋道立てて考えられない。押し寄せる後悔に、蒼依の心は押しつぶされた。

 「あなた、大丈夫?」

 子ども連れの主婦に声をかけられ、蒼依はようやく歩みを止めた。疲れ果て、生気のなくなった顔をあげる。

 「怪我してるわよ」

 そう言われて、初めて自分の姿に目を落とした。白いブラウスの左袖が裂け、赤く染まっている。

 これは母の血?私の血?
 過去と現在がごっちゃになり、混乱する。蒼依はこの衝撃に耐えられなかった。かろうじて保っていた気力は途切れ、暗闇に飲み込まれていく。彼女は意識を失い、膝から崩れ落ちた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

秘密

高遠 加奈
恋愛
彼の秘密

鋼翼の七人 ~第二次異世界大戦空戦録 A.D.1944~

萩原 優
SF
 始めよう。歴史を変えた英雄たちと、世紀の大空戦の物語を。  竜神の寵愛を受けし世界「ライズ」。  魔法文明と科学文明が共存する神秘の地は、地球との異世界貿易をめぐっての条約国、連盟国の二大陣営による世界大戦の渦中にあった。両陣営は、地球から手に入れた兵器を用いて戦線を拡大。世界は総力戦の時代を迎えた。  条約軍の戦闘機パイロット、南部隼人中尉らは新型戦闘機のテスト中、遭遇した異変によって辺境の諸島へ誘われる。帰還を急ぐ彼らを押し留めたのは、連盟軍の大艦隊がこの地に迫っているとの急報だった。  たった数百名の守備兵では島を守ることなどできない。それでも島民たちの命は守らなければならない。  せめて7機の戦闘機が使えれば、この島を救える! そう考えて隼人らは、7人のパイロットを探す為の奔走する。  悩める英雄、はねっかえりな女士官、隼人を慕う後輩、生真面目な忠犬、戦いを止めた老兵、謎のスパイ?  かくして揃った7人のパイロットたちは、圧倒的な敵軍へと戦いを挑む。2000人の島民たちの命と、さびしんぼの聖女の願いを守る為。  これは、ライズ世界の片隅で起きた小さな――しかし歴史をも変える戦いと、『鋼翼の7人』の名で語り継がれる飛行機乗りたちの記録である。 ※全話書き終えて投稿しています。エタりません。 ※挿絵を追加した話は、タイトルに【挿絵】を付けております。 ※「小説家になろう」「カクヨム」でも公開しています。 ※ホームページに解説記事や企画などを公開しています。 https://jyushitai.com/

愛されない花嫁は初夜を一人で過ごす

リオール
恋愛
「俺はお前を妻と思わないし愛する事もない」  夫となったバジルはそう言って部屋を出て行った。妻となったアルビナは、初夜を一人で過ごすこととなる。  後に夫から聞かされた衝撃の事実。  アルビナは夫への復讐に、静かに心を燃やすのだった。 ※シリアスです。 ※ざまあが行き過ぎ・過剰だといったご意見を頂戴しております。年齢制限は設定しておりませんが、お読みになる場合は自己責任でお願い致します。

外れギフト魔石抜き取りの奇跡!〜スライムからの黄金ルート!婚約破棄されましたのでもうお貴族様は嫌です〜

KeyBow
ファンタジー
 この世界では、数千年前に突如現れた魔物が人々の生活に脅威をもたらしている。中世を舞台にした典型的なファンタジー世界で、冒険者たちは剣と魔法を駆使してこれらの魔物と戦い、生計を立てている。  人々は15歳の誕生日に神々から加護を授かり、特別なギフトを受け取る。しかし、主人公ロイは【魔石操作】という、死んだ魔物から魔石を抜き取るという外れギフトを授かる。このギフトのために、彼は婚約者に見放され、父親に家を追放される。  運命に翻弄されながらも、ロイは冒険者ギルドの解体所部門で働き始める。そこで彼は、生きている魔物から魔石を抜き取る能力を発見し、これまでの外れギフトが実は隠された力を秘めていたことを知る。  ロイはこの新たな力を使い、自分の運命を切り開くことができるのか?外れギフトを当りギフトに変え、チートスキルを手に入れた彼の物語が始まる。

異世界ゆるり紀行 ~子育てしながら冒険者します~

水無月 静琉
ファンタジー
神様のミスによって命を落とし、転生した茅野巧。様々なスキルを授かり異世界に送られると、そこは魔物が蠢く危険な森の中だった。タクミはその森で双子と思しき幼い男女の子供を発見し、アレン、エレナと名づけて保護する。格闘術で魔物を楽々倒す二人に驚きながらも、街に辿り着いたタクミは生計を立てるために冒険者ギルドに登録。アレンとエレナの成長を見守りながらの、のんびり冒険者生活がスタート! ***この度アルファポリス様から書籍化しました! 詳しくは近況ボードにて!

【1章完結】経験値貸与はじめました!〜但し利息はトイチです。追放された元PTメンバーにも貸しており取り立てはもちろん容赦しません〜

コレゼン
ファンタジー
冒険者のレオンはダンジョンで突然、所属パーティーからの追放を宣告される。 レオンは経験値貸与というユニークスキルを保持しており、パーティーのメンバーたちにレオンはそれぞれ1000万もの経験値を貸与している。 そういった状況での突然の踏み倒し追放宣言だった。 それにレオンはパーティーメンバーに経験値を多く貸与している為、自身は20レベルしかない。 適正レベル60台のダンジョンで追放されては生きては帰れないという状況だ。 パーティーメンバーたち全員がそれを承知の追放であった。 追放後にパーティーメンバーたちが去った後―― 「…………まさか、ここまでクズだとはな」 レオンは保留して溜めておいた経験値500万を自分に割り当てると、一気に71までレベルが上がる。 この経験値貸与というスキルを使えば、利息で経験値を自動で得られる。 それにこの経験値、貸与だけでなく譲渡することも可能だった。 利息で稼いだ経験値を譲渡することによって金銭を得ることも可能だろう。 また経験値を譲渡することによってゆくゆくは自分だけの選抜した最強の冒険者パーティーを結成することも可能だ。 そしてこの経験値貸与というスキル。 貸したものは経験値や利息も含めて、強制執行というサブスキルで強制的に返済させられる。 これは経験値貸与というスキルを授かった男が、借りた経験値やお金を踏み倒そうとするものたちに強制執行ざまぁをし、冒険者メンバーを選抜して育成しながら最強最富へと成り上がっていく英雄冒険譚。 ※こちら小説家になろうとカクヨムにも投稿しております

巣づくり品評会

しづクロ
BL
学園の王子様、お姫様と呼ばれる2人のΩは、喧嘩が絶えない間柄。 姫がSNSにあげた巣作り画像をきっかけに始まった口論は、 周囲の人間を巻き込んだ『巣作り品評会』に発展し・・・。 ※本編はエロなし。おまけでエロ補完。

我欲するゆえに我あり

黒幸
ファンタジー
現実世界が異世界と混じりあい、融合してから久しい混沌とした時代。 南欧のとある国(スペイ◯ですが!)に名もなき村がありました。 かつて悪魔の闊歩する奇祭で知られた村ですが、今はそれを知る者もいません。 現在は狩猟者を育成する欧州屈指の名門学校があることで有名だったのです。 そんな名門校の卒業生は腕のいい資格者(プレイヤー)になっており、今年もまた世界を騒がしかねない大物が出るという噂が……。 ヒロイン(かもしれない)のオルガを表紙イラストにしました。 ただし、自作でかなりやっつけ仕事なのでお察しください(´・ω・`)

処理中です...