血の記憶

甘宮しずく

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別離

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 楽しい日々は過ぎるのも早いものだ。その週も早々に過ぎ去った。晃聖との付き合いに不安はあったが、それ以上の進展がないので、徐々に警戒心はゆるんでいった。なにより彼といるのは居心地がいい。
 だから、その日の約束も楽しみにしていた。

 晃聖の睡眠時間を考えて、会うのは午後だ。レストランに行く予定なので、白いブラウスにレンガ色の捲きスカートを合わせる。自分への戒めに、母の形見の指輪を右手の薬指にはめた。
 イヤリングもしたいところだが、彼の気を惹こうとしていると勘違いされると困るのでやめにした。

 晃聖は連れて行ってくれたお店は、魚貝料理を得意とする小さなレストランだった。

 「こんな素敵なお店は初めて」初めて口にしたクラムチャウダーに目を丸くして、こっそり打ちあけた。

 「そんな風には見えないよ」熱っぽく彼女を見つめ、彼が褒める。「身のこなしも、テーブルマナーも、高級レストランに行きつけてるみたいだ」

 お世辞だとわかっていたが、頬が緩んだ。
 「私たちはファミレスでテーブルマナーを躾けられたの」
 あのときはうるさく思ったものだが、今では感謝している。

 食事のあと、晃聖の大学時代からの友人がやっている写真展に誘われた。そこで蒼依は金森を紹介された。

 「金森です」
 晃聖よりひと回り大きな金森は、大きな温かい手で彼女の手を包み、「僕の被写体になりませんか?」と誘ってきた。

 誘惑めいたものや、いやらしさはみじんもなかったが、引き受ける理由にはならない。

 返事に困っていると、晃聖が助け舟を出してくれた。
 「彼女は写真が嫌いなんだ」

 金森が意外そうに、眉を上げた。
 「それじゃあ、晃聖に撮ってもらったことないの?」

 「挑戦して断られたから、知ってるんだよ」晃聖が代わりに答える。

 「晃聖の作品を見たことがありますか?」金森がふたりを展示場へと案内しながら訊いてきた。

 「一度もありません」

 「それじゃあ、見せてもらったらいい。彼の腕前はなかなかですよ」

 晃聖は照れくさそうな苦笑いを浮かべている。

 「今回の展示会も一緒にやらないか、って誘ったんだけどね」

 「仕方ないさ。最近撮ってないんだから……」

 「これだ」金森が残念そうにため息をつく。「まったく、ホストにしとくのはもったいないよ」

 ふたりは、金森の説明を聞きながら作品を見て回った。作品はどれも素晴らしかった。
 だが、桜吹雪を見上げる親子のパネルの前で、思い出が怒涛のように押し寄せてきた。彼女を残して、ふたりが次に進んだのにも気づかない。

 蒼依にとってそれは、母と自分の姿だった。
 アパート近くの桜並木を、まるで恋人同士のように腕を組み歩いたあの日、桜が満開で夢のように美しかった。以前よりグッと痩せた母は、華奢な肩をすぼめ、少女のような無邪気さで天を仰いでいた。
 ひたむきに父を愛する純粋さが、彼女を無垢に見せていたのだろう。そのときになっても、母がいつか父が帰ってくると信じていたと蒼依は知っていた。あれほどの思いが、父に届かなかったのがやり切れない。

 翌日、母は死んだ。
 その日、学校を早く終えた蒼依は、あの並木道を息を切らして駆けていった。体調が思わしくなく、ふさぎこみがちだった母を、少しあがった成績表で喜ばせたかった。ちらちらと舞い散る花弁が、雪のように美しい午後だった。昇り降りする度、アパート中に響き渡る鉄製の階段を一段跳びに駆けあがり、立てつけの悪いドアを勢いよく開けた。
 いつもの、「お帰り」の返事はなかった。静まり返った部屋で、最初に目に入ったのは鮮烈な赤だ。そして、おびただしい血を撒き散らし、横たわる母。

 あの瞬間が、まるで昨日のことのように脳裏に浮かびあがる。

 蒼依はうめき声を呑み込んだ。
 その後、数日間の記憶は霧の中の出来事みたいにはっきりしないのに、あの悪夢だけは何ひとつもらさず克明に覚えている。

 蒼依は弱い心を奮い立たせ、顔をそむけた。

 そこには、怪訝そうな金森と、心配顔の晃聖が彼女を見ていた。

 蒼依は笑みこしらえ、パネルの前を離れた。



 沈んだようすの蒼依を隣りに乗せ、次はどうしようか、と晃聖は考えた。
 懸命に平静を装おうとしているが、彼女が展示物を見ていた半ばからふさぎこんでいたことに気づいていた。蒼依がまたいつもの壁を張りめぐらし、家へ送ってくれ、と言いだすのではないかと心配だ。今日のためにせっかく休みまで取ったのに、こんなに早く終わりにするつもりはない。

 晃聖はガブリオレを自宅のマンションへと向けた。

 「どこへ行くの?」まもなくマンションという頃、ようやく彼女がぼんやり訊いた。

 「僕の家」

 「どうして?」心なしか声が硬くなる。

 「写真さ」

 「写真がどうかした?」

 「僕の作品を見せようと思って」

 即座に警戒の色が浮かんだ。
 こんな様子を見るのは久しぶりだった。友人としてつき合うようになって以来、蒼依を不安にさせるようなことはしていないはずだ。

 「それはまた今度ね」きっぱりと彼女が断る。

 「きみの写真があるんだ」かまわず言った。

 「撮らないでって言ったのに!」

 「これがいい出来なんだよ。いつもとぜんぜん違う」彼はたくみに気を引いた。

 「違う、ってどんな風に?」

 「幼く見えるというか……見ればわかるよ」

 蒼依は考え込んでいる。

 もうひと押しだ。
 「わかった。そんなにいやなら、こっちで処分するよ」

 一気に彼女の防御がくずれた。
 「じゃあ、ちょっとだけ」




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