血の記憶

甘宮しずく

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友情

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 蒼依は寝不足のまま朝を迎えた。続く睡眠不足のせいで、目の下には隈ができている。
 あの夢を見た後で眠れるはずがなかった。理由はそれだけではなかったが、極力、考えないようにしていた。
 それなのに片づけられたテーブルやキッチンを見ると、つい晃聖のことを思い出してしまう。しかも冷蔵庫を開けると、見覚えのない食材が並んでいた。
 蒼依は朝食を諦め扉を閉めた。

 どうしようもなくイライラする。彼の残像はちらつくし、隈はしぶとい。手をこまねき古いドレッサーを小刻みに指で叩いた。

 このドレッサーは母の物だった。子どもの頃、兄がナイフで刻んだ傷がついている年季ものだ。
 あの頃は素晴らしかった。母は幸せそうで、家族は仲がよかった。貧しかったが、愛情に包まれていた。父が出ていくまでは……。

 蒼依は不愉快な思い出を締め出そうと、ぎゅっと目を閉じた。そうやって父の面影が消え去るのを待つ。これまで過去を棄て去ろうとすることで平静を保とうとしてきた。
 それはことごとく失敗に終わっている。過去は絶えずつきまとい、ちょっとした刺激ですぐに血を流す。
 傷は今も生々しく、父への憎しみと相まって、生き方に考え方に大きく影響を及ぼしていた。そのせいで、晃聖の前で醜態をさらす羽目になったのだ。
 蒼依は記憶に翻弄され、疲れ切っていた。

 過去を消せたらいいのに。いっそあのときあの高台で、彼が本当に飛んでくれていたらどんなによかったか。
 だが、それはわがままというものだ。実際、彼は大いに人生を楽しんでいて、そんな気などまったくなかった。
 過去を変えられないことはわかりすぎるほどわかっている。問題はこれからだ。
 家族に会いたい。裏切り者の父は問題外だが、兄に帰ってきてほしい。悲しみを分かち合える相手が欲しかった。

 しかし叶わぬ願いだ。ある日プイッと出て行った兄は今もどこにいるかわからないし、兄も私の居場所を知らないはずだ。結局はこのままひとりで耐えるしかない。

 蒼依は虚しい願望に見切りをつけ、立ち上がった。
 外は小雨が降っていた。蒼依は顔をしかめて部屋に戻り、傘を持って出る。

 憂鬱だ。今日の電車は混むだろう。

 蒼依は小走りに階段をかけ下りた。見覚えのある黒い車に気づいたのは下に着いてからだった。

 晃聖が車から降りてきて、彼女を見つめる。

 彼は蒼依に愛想を尽かしたはずだった。もう会うことはないだろうと思っていた。驚き苛立ち、そして、それだけでは割り切れない思いが残った。


 「会社まで送るよ」雨に打たれながら、晃聖は申し出た。
 これまでの彼女の対応を考えたら、断られる可能性が高い。それでもやって来た。来ずにいられなかった。

 「ありがとう」長い間、彼を見つめようやく蒼依が答えた。

 正直、驚いた。半信半疑で助手席側のドアを開けてやる。

 蒼依が生真面目な顔でお礼を言い、シートに腰を下ろした。どうやら本気のようだ。

 どうして気が変わったのだろう?それとも、喜ばせておいて反撃するつもりか?
 車道に出ていきながら、考えをめぐらせる。

 すると、蒼依があっさりと答えをくれた。
 「ゆうべはごめんなさい。迷惑ついでで申し訳ないのだけど、お願いがあって……」沈んだ顔に、さらに暗い影が差す。
 「昨日のことは誰にも話さない、って約束してもらえませんか?」

 赤信号で止まると、しげしげと蒼依を見た。

 血の気のない必死な顔が、こちらを見ている。こんな頼みごとをするのは初めてなのだろう。

 安心させたくて、口元を緩めた。
 「人に言うわけないだろ」

 みるみる緊張が緩むのがわかった。白い頬に血の気が戻り、小さなため息がもれる。
 「ありがとう」

 こっちまでいい気分だ。
 「あれから眠れなかったんだな?」

 蒼依が顔をそむけた。

 「もし僕がホストじゃなかったら、も少し愛想よくしてくれたかな?」

 彼女の視線が戻ってきた。彼の表情を探り、再び前方を見る。
 「信号が変わったわよ」明らかに話題を変えようとしている。

 後続車が苛立し気にクラクションを鳴らし、晃聖は仕方なく車をスタートさせた。
 「ホストが嫌いなんだろ?」

 「あなたを嫌ってるからって、どうしてそうなるわけ?」答えるどころか、訊き返してきた。また、いつもの拒絶の構えだ。

 「きみの暗い過去には、ホストが関係しているんじゃないのか?」

 「こんな話、やめない?」

 晃聖は食い下がった。
 「辛いんだろ?」

 何の反応も返ってこない。また黙り込むつもりか?

 なおも粘った。
 「克服したくないか?」


 蒼依は息を呑んだ。
 確かにホストに過剰反応していることは認める。異常と言えるくらいだ。そのせいで彼の興味を引き、つきまとわれる羽目になったのだ。もし克服できるなら、すがりつきたいくらいだ。

 方法を尋ねようとして、言いよどんだ。図々しい彼のことだ。お得意の手かもしれない。
 「何が言いたいの?」

 「トラウマを克服する方法がある、って言ってるんだ」

 「どんな?」思わず訊いてしまった。

 晃聖はチラリと笑顔を見せた。
 「僕さ」

 やっぱり!目を細めて、彼をにらんだ。

 「嘘じゃないって。僕とつき合って、ホストが全部敵じゃない、って自分の目で確認するんだよ。免疫をつけるんだ。もちろん友達として。それ以上はだめなんだろ?」

 「いやよ。どんな関係も一切――」

 「そうやって逃げ続けてるから、未だに苦しんでるわけだ」

 言葉につまった。

 晃聖はしぶとく説得を続ける。
 「ホストもきみと同じ人間だとわかれば、そんなに怯えてピリピリしなくてすむよ。僕らはいい友だちになれるって」

 「別に怖がってなんか――」

 「いいや、怖がってる。きみは傷つくのが怖くて、ホストを必死で拒絶している。図星だろ?」

 蒼依は黙りこんだ。
 すべてのホストがろくでなしとは限らない。それはわかっている。頭では。
 ところが、心はホストどころか男性全般に対して不信感を感じている。例え友だちであろうと、ホストとつき合うなど寒気がしそうだ。しかも強固な壁を蹴散らし、部屋まであがりこんだ彼と、だ。下手をすると、今以上の苦しみを背負うはめになるかもしれない。

 「そんなことして、何の意味があるの?あなたの罠かもしれないじゃない」

 「女には不自由してないよ」

 「それなら、私と友達になる必要はないでしょ?」

 「ここまで乗りかかっておいて、このまま素通りできると思うか?気になって、仕事も手につかない。だから、これは僕のためでもあるんだ。そっちが解決すれば、こっちもハッピー、ってわけ。何か問題あるか?」

 「それは……」蒼依は口ごもった。何も思い浮かばない。

 「ほらな?何も起きてないのに、最悪ばかり考えてるから前に進めなくなるんだ。そんなに用心深いと、暗い過去があります、って宣伝してるようなもんだろ?」

 図星を指されて、頬が熱い。自分の態度を見透かされていたことが、無性に恥ずかしかった。これまで、うまく周りに馴染んできたつもりだったのだ。

 さらに彼が追い討ちをかけてきた。
 「友達になるのもお断り、っていかにも意味深だよな?」

 しつこく弱味をつつかれ、苛立ちがくすぶり出した。
 「あなたみたいに皮肉ばっかりの人なんか、誰も友だちになりたがらないわよ」

 「じゃあ、そういうのはナシだ。それなら、いいだろ?」

 「いやよ」

 「怖いんだな」晃聖が鼻で笑う。

 蒼依は憎しみをこめて、彼の横顔をにらみつけた。

 「勇気を出して、やってみろ、って。意外となんでもないかもしれないよ。そしたら楽になれる」

 「どうして、そんなにこだわるの?あなたには関係ないでしょ?」

 今度は晃聖が黙る番だった。
 〈youサービスプロモーション〉が入るビルの前に車を停めると、蒼依をじっと見た。いつものふざけた雰囲気ではなかった。
 「きみの叫び声が耳にこびりついている。泣き顔が頭から離れない。きみがその悩みから解放されたら、僕もきみから自由になれる気がする。そういう理由じゃだめかな?」

 ふたりの視線がほんの一瞬絡み合った。

 彼の言うように、免疫をつければ、まともになれるかもしれない。
 「わかった。送ってくれてありがとう」
 蒼依は彼に何か言うひまも与えず、車を降りた。晃聖の勝ち誇った顔を見たくなかった。



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