血の記憶

甘宮しずく

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悪夢

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 「お母さん!」
 そこは壁まで血が飛び散り、真っ赤だった。おびただしい血の真ん中で、母が身体を縮めて死んでいる。唇は白くまつげが涙でぬれていた。

 蒼依は無我夢中で母にしがみついた。身体が血にまみれるのもかまわず、泣きながら力いっぱい。
 「お母さん!」

 「蒼依!!」

 低い声に、蒼依は震える身体を引きはがした。夢と現実の区別がつかず、頭が混乱する。涙でぼやけた視界に、心配に眉をしかめた晃聖が映った。

 蒼依は瞬く間に我に返った。頬に流れる涙もそのままに、掛け布団を胸に引き寄せベッドの端に縮こまる。

 母だと思ってしがみついた相手は、彼だったに違いない。どうしよう?まだ震えがおさまらない。ショックで声が喉の奥につまっている。
 どう取り繕えばいいのかもわからず、招かれざる侵入者から目を離せなかった。

 「蒼依?」

 「来ないで!」

 晃聖が手を伸ばしてきたが、必死の訴えに止まった。隣の部屋からもれてくる明かりを頼りに、こちらの様子を探っているようだ。

 彼は何を考えているのだろう?何を聞き、何を知ったのだろう?
 神経はギリギリまで張りつめ、息をするのも苦しい。蒼依は彼の前から消えてしまいたかった。

 「うなされてたぞ。大丈夫か?」

 うろたえていた感情が一気に凍りついた。
 一番見られたくない姿だった。これまで誰にも知られず、秘密を通してきた。ここ最近は落ち着いてきたところだった。
 それが彼のせいで台無しだ。埋もれかけていた過去をほじくり返し、部屋にあがり込んで秘密を暴き立てた罪は重い。

 「あなたのせいよ!」逃げ場を失い、彼に噛みついた。「あなたが私につきまとって悩ませたせい。その上、図々しく部屋にあがり込んだりして、あなたのせいでめちゃめちゃよ。新しい女が欲しいだけなんでしょ?そして、飽きたらポイッ!いい加減にしてよね。棄てられた人の身にもなってみなさいよ。ホストなんか、いなくなればいいのよ!」

 「僕がいなくても、きみは同じだよ」晃聖が断言した。

 認めたくなかった。
 「あなたがいなくなれば、全部解決するの。だから、帰って!」身を乗り出し、彼の肩をこずいた。

 しかし、晃聖はびくともしない。

 蒼依は焦った。一刻も早く部屋から、意識から彼を締め出そうと躍起になる。全体重をかけ、大きな身体を押しのけた。

 そのかいあって、彼が揺れた。
 が、あっという間に腕を引っ張られ、懐深く抱えられていた。

 蒼依はパニックに陥った。ショックと怒りが大きな塊となって、頭を熱くする。厚い胸を押し返し、もがいた。
 「放してっ!」

 間近に迫る彼は脅威だった。

 「まさか!」不吉な想像に声が震える。

 晃聖がチラッと笑った。
 「そんなこと、するわけないだろ?」なだめるように蒼依の背を叩く。「そこまで飢えてないよ。怯えた子どもを安心させるとき、抱っこするだろ?それと同じだ。きみが落ち着いたら、帰るよ。約束する」ほら力を抜いて、とでも言うように、ゆっくり彼女の背中をさすった。

 『怯えた子どもじゃないし』そう言い返して離れるべきだった。
 だが、蒼依は力を抜いた。彼の言うとおり、強引に迫らなくても相手はいくらでもいるだろう。
 望んでもいないのに、ぬくもりが身にしみる。
 小さい頃、こうして母に抱かれたことを思い出した。おだやかで、すべての危険から守られているような安心感があった。
 母が生きていてくれていたら……。これまで何度願ったことだろう。
 だが実際、母はこの世にはなく、自分を抱く腕は強くたくましい男の腕だ。

 蒼依はのろのろと身を引いた。

 「大丈夫?」

 蒼依はうなずいた。彼に抱かれてリラックスしたことを知られたくない。
 「もう大丈夫だから、帰って」さすがに強くは言えなかった。

 晃聖は蒼依の様子をうかがい、やがて重い腰をあげた。

 「ありがとう」彼がドアを出る寸前、なんとかお礼を絞り出せた。
 その後、いつまでも閉まったドアから目が離せなかった。
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