血の記憶

甘宮しずく

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悪夢

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 「お帰り」
 蒼依がドアを開けると、晃聖はのんきそうに彼女を迎えた。

 「どうしているの?」険しい顔をして、彼女がとげとげしくとがめる。

 蒼依が不機嫌なのは、一目見ただけでわかっていた。いや、居座ると決めたときから予測できた。

 「メモに――」

 「あー、わかってる。だけど、お詫びしときたくてね」彼は赤ワインと料理が載った小さなテーブルを示した。

 蒼依は見向きもしなかった。感謝どころか、いかにも迷惑そうだ。

 「お詫びならけっこうよ。このまま帰ってもらえばそれで十分」

 まったくむかつく女だ。
 「そうはいかない。僕は食い物を粗末にするのも、命を粗末にするのも大嫌いでね。きみが僕の手料理をどうするのか、確認しておきたい」

 それでも蒼依は玄関から動かない。

 晃聖は続けた。
 「言っただろう。命を粗末にする奴は嫌いだ、って。きみみたいな危ない女は、まっぴらごめんだ。一切関わるつもりはない。だから、迷惑かけたぶんはきっちり返しておくよ」

 「関わりたくないなら、なぜ来たの?」
 頭の痛い突っ込みだ。

 「わからないよ。きみに腹が立ってたんだ。説教でもしようと思ったんじゃないか?酔っぱらいってのは、わけわかんないもんだろ?とにかく座ったらどうだ」

 「あなたの気持ちはわかった。無駄にしないって約束するから、帰って。仕事でしょう?」

 「今日は休んだ。きみが食べるのを見届けたら、帰るよ」

 蒼依はムッとしたようで、部屋にあがり仕切りの襖をピッシャと閉めた。

 再び彼女が出てきたとき、晃聖はワインを開けた。

 ところが彼女は席にはつかず、台所に行ってしまった。グラスを出し、ついでに窓辺の植木に水をやっている。

 「そういうの好きなの?」彼女の背中に声をかける。「ガーデニングとかいうやつ?」

 「考えたことないけど、こうやっていると家に帰ってきた、って気がするから。鉢の中にオモチャの家なんか置いたら、小さな庭って感じがしない?車とか――」ふいに黙った。

 晃聖が近づいたからだ。

 彼女はグラスを持って、彼の脇をすり抜けた。
 「さぁ、始めましょうよ」一刻も早く終わらせたい、といった感じだった。

 蒼依は警戒して、ちびちびワインを飲んでいた。彼の作った海老のマヨネーズ炒めや、ジャガバターには手もつけていない。

 晃聖も飲みたい気分ではなかったが、彼女に合わせて少しだけ飲んだ。
 昨日までは、蒼依とテーブルを囲むことなど有り得ないと思っていた。それが、彼女の部屋でふたりきりだ。飲むふりをしながら、彼女に見入った。

 まつげを伏せたあの感じがいい。唇についたワインを舐める舌が色っぽい。グラスを傾けるたび、喉の白さが目にしみる。なだらかな胸のふくらみが――。

 「ところで」

 晃聖はハッとして、視線を顔に戻した。

 「鍵を返して」

 ポケットの中のキーをテーブルに置くと、蒼依が疑いの目を向けてきた。

 「スペアーとか作ってないでしょうね?」

 「しないよ。ちょっと、自意識過剰じゃないか?」ジロジロ見ていたことなどおくびにも出さず、面倒くさそうに返す。

 蒼依は恥入るように頬を染め、下を向いた。

 彼女でもこんな顔をするのだ。なんだか得した気分で、料理を勧めた。
 「手のこんだ料理は無理だけど、酒のつまみぐらいならやるんだ」

 蒼依が遠慮がちに箸を伸ばしてきた。海老をつまんで、口に入れる。
 「おいしい」チラッと彼を見て、ポツリと感想をのべた。

 悪くない雰囲気だ。晃聖は一歩踏みこんで探りを入れた。
 「兄弟はいるの?ひとりっ子?」協調性のない性格から、そう判断する。

 「いいえ」答えが鋭い視線とともに返ってきた。言外に詮索するな、と言っている。

 「家族は遠くに住んでるの?」かまわず訊いた。

 この質問はまずかったのか、蒼依が即座に引きこもるのがわかった。

 「知らない」

 知らない、ってどういうことだ?もっと何か言わないかと待ったが、彼女は無言でワインをぐっと飲んだ。

 「連絡取れない、ってこと?」

 返事はない。蒼依は動揺しているようだ。必死に冷静さを保とうとしているが、グラスを持つ手に力がこもっている。

 晃聖は、彼女のグラスにワインを足した。
 「寂しいだろ?」それは思いやりから出た言葉だった。

 それなのに蒼依は、我慢ならないとばかりに彼をにらんだ。
 こうやって彼女は壁を作るのだ。内に引きこもり、誰にも馴染もうとしない。さらに彼女は、壁を厚く高くする決心をしたようだ。
 蒼依は一気にワインを干し、つっけんどんに訊いた。
 「真崎さんは泊めてもらったら、いつもこんな風にお礼をするの?」

 突然話が変わり、面食らった。
 「そうとは限らないけど……」迷った末、あいまいな返事をする。

 「じゃあ、どんなお礼なんだろ?」蒼依が馬鹿にしたように鼻で笑った。

 さすがの晃聖もむかついた。彼女を思いやったつもりなのに、蒼依は彼の汚点を探し続けている。
 「ご想像通り、いつもは料理なんかしない。たっぷり抱いてやるのが流儀だ。ちなみに、みんな満足してくれてるよ」ニヤニヤ笑って、彼女を見据える。
 「どうやらきみは料理もしなさそうだし、抱いてほしそうでもないから、俺が料理した、ってわけ」

 「それって、自慢してるつもり?早い話、だれとでも寝るってことよね?病気とか怖くないの?そういうのも勇敢って言うのかな?」

 晃聖は言葉につまった。

 「見境なしにやりまくるって、どういう精神状態なんだろ?それとも、それも仕事のうち?」グラスの縁から、軽蔑の眼差しを投げつけてくる。

 晃聖はますます苛立ち、そして開き直った。
 「それが悪いか?彼女たちはこっちが黙っていても寄ってくる。金は入るし、欲望は満たせるし、何も苦労してつらい仕事をする必要ないだろ?」彼は勢いにのって反撃した。「きみもどうだ。その顔なら、俺以上に稼げるよ。もっといい部屋に住んで、いい暮らしができるって」

 蒼依の顔から嘲りが消え、気色ばんだ。

 それを見て、晃聖はせいせいした。彼女の辛辣さが伝染したに違いない。人を怒らせると、自分も痛い目に遭うって思い知ればいいんだ。

 蒼依は自分でワインを注ぎ、あおった。彼を憎々しげに見据え、低くうなる。
 「怒ってるんでしょ?帰れば?」

 そこで、初めて彼女の意図に気づいた。
 彼女は俺を怒らせたかったのだ。わざと怒らせ、追い払いたかったのだ。そうはいかない。
 「まだ食い終わってないだろ?」テーブルの皿を顎で示す。

 蒼依がプイッと横を向いた。もくろみは失敗したばかりか、かえって自分が怒りを抱えこむはめになったようだ。もういらないとばかりにテーブルから後ずさり、膝を抱えて壁にもたれた。すっかり殻に閉じこもり、立てた膝に頭を載せている。

 晃聖は子どもっぽい仕草に、呆れて苦笑した。こういうときの彼女は、何を言っても無駄だ。これまでのいさかいで、蒼依のことがわかりかけてきた。彼女は怒ったときだけ感情をあらわにする。
 晃聖は彼女をほっといて、食事に専念した。

 しばらくすると、身動きする気配がした。抱えていた脚を崩し、頭を垂れている。

 もう少ししたら、機嫌を直すかもしれない。

 だが、いつまで経っても彼女はうつむいたままだ。やがて手が畳に落ち、蒼依が眠っているのに気づいた。

 顔は落ちかかる髪で口元しか見えない。細く長い脚を縮め、チェストと壁の隅に器用にもたれかかっている。まるで、怯えた子どもだ。

 試しに声をかけてみたが、ピクリともしなかった。
 晃聖はそばに寄り、顔をのぞきこんだ。

 まつげが白い頬に影を作り、穏やかな寝息は甘いワインの香りがした。

 こんな姿勢で眠るのは、いかにも窮屈そうだ。晃聖は迷わず彼女を抱き上げた。

 その身体は驚くほど軽い。嫌っている男の腕の中にいるとも知らず、昏々と眠っている。

 ベッドに下ろし、彼女を見つめた。

 無防備な姿だった。それがいかにも傷つきやすそうに見える。

 いつもなら情熱的なキスで目覚めさせるところだが、彼女相手じゃたちまち修羅場になるだろう。
 それより、このまま見ていたい。眉間に薄く残ったたてじわを親指でこすって消し、髪を撫でる。こんな風にリラックスしていると、さらにきれいだ。
 顔のことを言ったら、怒っていた。確か、ドライブのときも同じようなことで機嫌が悪くなった。きれいと言われて腹を立てる女など、聞いたこともない。
 顔だけで男が寄ってくるからか?それで、男性不信なのか?それも尋常じゃない嫌いようだ。彼女に何があった?家族はどこにいる?わからないことだらけだ。
 晃聖はその謎にどうしようもなく惹きつけられた。取りつかれたと言ってもいい。彼女のすべてを知りたい。

 晃聖は彼女を起こさないように、そっと口づけした。蒼依の感触をより深く感じられるように、目を閉じて……。


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