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10-水面にて跳ね空

105.少女、揺さぶられる。

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「これでよし、っと」

 最後の金具を固定してランバールが一息つく。
 スパナをクルッと回転させた彼は腰につけたバッグにそれをねじ込みながらこちらに手を振った。

「あんがとーニチカちゃん。戻っておいで」
「もういいの?」

 ホウキに横乗りしていた少女が、塔の上へと戻ってくる。
 足場の不安定な屋根瓦の上に降り立つとランバールがサッと支えてくれた。

「助かったよー、このキカイできるだけ水平に設置しなきゃいけないらしくてさ。一人でやってたら倍の時間かかるところだった」
「私、ただ見て指示してただけだけど」
「いやいや、それが大助かり。感謝します」

 あの後、二手に別れたニチカはこの街の重役だという男に会うためランバールについてきた。
 だがあいにくと取締役員は席を外していた。肩すかしをくらった気分だったが、装置を取り付ける話だけは通っていたのでこうして手伝いをしていたのだ(ちなみに飛べないウルフィは居ても役に立てないだろうと自己申告し、地上で待機している。……今頃出されたおかしをむさぼり喰っていることだろう)

 作業を始めた時は真上にあった太陽も、今はすっかり水平線に身を投じている。
 見下ろすサリューンの街並みは、やはり予想通りうっとりするほど幻想的だった。薄紫と淡い桜色が混じり合い、溶けて、ゆっくりと明るい夜に呑まれていく。

「っくぁぁー、夜までかかるかと思ったけど日が沈む前に終わらせられたー。あと二、三日は風のマナが落ち着くまで様子見だから、今日の仕事はここまで!」

 パンっと手を払ったランバールは、おどけたように足をぴしっと揃えた。

「って事で、これからどっか飲みに行かない? 手伝ってくれたしおごるよ」

 ぼんやりとガラス細工の街を見下ろしていたニチカは一瞬だけ反応が遅れた。ハッとして意識をこちらに引き戻す。

「……」

 瞬きよりも短い一瞬。
 だけどそのたった数秒のラグで相手には全部伝わってしまったようだった。

 隣に来たランバールはしゃがんで同じように街を見下ろし始める。

「やっぱ、気になる?」
「いっ、いや、シャルロッテさんは古い知り合いみたいだし、気になるのは当然だと思う、の」
「あれ、俺べつにオズ先輩の事とは一言も言ってないんだけど?」

 頬杖をついた状態でニヤぁ~と笑われる。
 ボッと顔が赤くなった少女はへなへなと崩れ落ちるようにしゃがみこんで顔を覆った。

「カマかけられた……」
「あいかーらず素直でカワイイよなぁ~」

 あっはっはと隣で笑われるとますます顔を上げづらい。
 しばらく呻いていた少女はぽつりぽつりと落とすように話し始めた。

「もうそろそろ、気持ちの整理をつけなきゃいけない時期だと思うの」
「へぇ?」

 そっと外した手の下から現れた少女の顔は、痛みをとうに呑み下してしまったかのような、どこか感情が抜け落ちたものだった。

「この街で水の精霊様にチカラを貸してもらって、イニに全部集めたって報告して、それでおしまい。私は元の世界に帰ってまた普通の日常を送って」

 引き寄せられて来た風のマナたちがふわり、と髪を揺らす。
 どこまでも穏やかな、夕暮れの風。遮るものは何も無かった。

「こっちに戻ってこれる保証なんかなくて、下手したら記憶すら無くなるかもしれなく……って」

 訂正しよう。感情は抜け落ちてなどいなかった。
 押し込めていた気持ちがココロの奥底から湧きあがり、感情が目からあふれ出す。

「か、仮に覚えていたとしても、あたしが、冒険したこと……なんてっ、あっちの世界じゃ誰にも証明できやしないんだもん」

 魂に刻み付けてやるとあの人は言った。
 だがそんなもの、会えなくなるならば痛みにしかならないではないか。

「綺麗な夢で終わらせられたら、傷も癒えるかなぁ……っ?」

 もう限界だった。
 うわーんと泣き出したニチカの頭を抱え込み、落ち着かせるように低く囁いた。

「帰らなくていいよ」
「っふ……」

 優しく頭をなでられて、ますます涙がこみ上げる。
 空をさまよっていた手を掴まれて、正面から視線を合わせる形になる。

 ぼやける視界でも、エメラルドのような翡翠色がこちらをひたと見据えている事は感じられた。

「この際だから言うよ? オレは君に帰って欲しくない。この意味わかる?」
「ラン……君……」

 向けられた感情は、手にとってよく見なくともわかるものだった。
 全身で好きだと伝えてくる彼にそれまでのふざけたような雰囲気は微塵もない。

「ずっとこっちの世界にいて欲しい。オレは半精霊だけど容れ物は人間だ。一緒に年を重ねていける。いつか君が死んで流れに還っても、オレはそれをずっと見守り続ける。決して独りにはさせないから」

 瞬きと同時に膜を張っていた水分が、大きな雫になって押し出される。
 ハッキリと見えた視界の先で彼は少しだけ眉尻を下げて微笑んでいた。
 何も飾らない、感情そのままの笑顔だった。

「好きだよ、ニチカちゃん」

***

 彼女がトッと降り立ったのは表水路からは少し離れた通路だった。ホウキを縮小し、被っていた三角帽子を取ったシャルロッテはそれらを無造作に袋に放り込む。
 その横顔は普段の彼女を知るものが見ればぞっとするような無表情で、いつものような快活さや親しみやすさは全くと言って良いほど無かった。

 どこか氷のような視線を通路の奥へ向けた彼女はそちらへ歩き出そうとした。だが後ろから手首をクッと引っ張られ目を見開き振り返る。

「……あら、オズちゃん」

 視線の先にいた男を認めふっと微笑む。
 やはりその笑顔は冷ややかに感じられた。

「どうしたの? ニチカちゃんの傍に居なくていいの?」
「シャル、お前……」

 クスリと笑った女は男の手を絡めとるとそのまま壁へと引き寄せた。自然と迫っているような体勢になる。
 シャルロッテはしなやかな指先を男の首筋に伸ばすとつぅと撫でた。

「ねぇオズワルド、アタシの頼み聞いてくれない?」

 夜の始まる少し前。その眼差しはひどく蠱惑的だった。

***

「あ、あのっ、ラン君?」

 頭が一気に沸騰したニチカは一歩引こうとした。だが捕まれた手がそれを許さない。

「逃がさない」
「っ、」

 笑ってごまかそうとした雰囲気を先回りで塞がれる。
 真っ赤な顔をした少女は、どういう表情を取ればいいか分からず困惑した。

「オレなら君を悲しませない。センパイよりずっとずっと分かりやすい形で愛を伝えられる。絶対に泣かせたりはしないから」

 まっすぐな言葉が胸に飛び込んでくる。
 それと同時によみがえるのはこれまでの事だった。

 ……思えばどれだけあの男に感情を振り回されただろうか。
 乱暴に心を囚われたかと思えば冷たく突き放され、本物と錯覚してしまいそうな甘い口づけを落とすその唇で、馬鹿にしたかのような暴言を吐く。

 相手の本心が見えないやりとりに、少女は少し疲れていたようだ。
 きっとこの目の前の青年とならば、そんな想いはしなくて済むのだろう。

 ゆっくりと視線を合わせたニチカの瞳に一瞬だけすがるような色が差した。それを見逃すほどランバールは鈍くない。

 助けて。助けて。荒れ狂う海から引き上げて、ラクになりたい。

「……」

 卑怯だなんて言わないで下さいね、センパイ。
 素直になれないアナタの落ち度ですよ。

 そう心の中で呟いたランバールはそっと少女を引き寄せた。

 二つの影は重なり、そして――
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