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6-フライアウェイ!

64.少女、やきもきする。

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 慌ててドアの後ろに引っ込み、しばらくしてそろ~っと中を覗いてみる。ベッドの上にもう一人――具体的に言うと裸の女の人が――居ないことを確認した少女は胸を撫で下ろした。

(普通に考えれば、泊めてもらってるお宅に女の人なんか連れ込むわけないか)

 自分の考えに苦笑しながら、今度はズカズカと部屋の中へ侵入してカーテンをシャッと開ける。薄暗かった室内に一気に光が差し込み、空気中の埃がキラキラと輝きだした。

「オズワルドー朝だよー! 朝ごはん出来てるから早く起きてー!」

 いつものように寝起きの悪い師匠を声で叩き起こす。だが不明瞭にうめいた男は、日差しから逃げるように寝返りを打つだけで一向に起きる気配がない。その無防備な姿がめずらしくニチカはつい覗き込んでみた。少し長めの前髪が目にかかり、スッと通った鼻筋から薄い唇にかけて目が引き寄せられる。

(本当に顔だけは百点満点だよね、これで性格がまともならなぁ……あ、寝ぐせついてる)

 頭の中では軽口を叩きながらも観察を止められない。男らしい喉ぼとけ、直線を描く首筋からくっきりと浮き出た鎖骨、そして視線は自然とその下へ――

(って、何やってるの私! これじゃまるでヘンタイみたいじゃない! ……でも……こんなじっくり見る機会滅多にないし)

 ゴクリと喉を鳴らしながらベッドに手を着きそーっと乗り出してみる。するとある一か所に違和感を覚えた。

(ん?)

 閉じた目を縁取る長いまつ毛が、白く見えるのは朝日のせいだろうか? 前髪を払ってよく見ようと手を伸ばした、その時だった。

「っ!?」

 いきなり伸びてきた腕に捕らえられ、抵抗する間もなく寝床に引き込まれる。

「ちょっ、オズワル」

 そのままぎゅっと抱え込まれ心拍数が一気に上昇する。胸板に頬を押し付ける形になり、男の匂いにふわりと包まれる。

(う、うわ、うわ)

 これは完璧に寝ぼけている。早く起こさなければと思うのに、なぜか身体が動かない。硬直したままの頭を引き寄せられ、男が首すじに顔をうずめてくる。

(わぁああぁぁあ!!!)
「……行くな……もうどこにも」

 少しかすれた低い声が耳に触れ、ビクッとする。だが

「……カ」
「え」

 自分とは違う名前で呼ばれたような気がして、我に返る。

 ――リッカ

「~~~っ!!」

 知らない女の名前に、瞬間湯沸かし器のように頭に血が昇る。少女は拘束されていない方の手を勢いよく振り上げ、そして


 レースの準備で賑わう表の通りにまで、素晴らしい音が響き渡った。

***

「信っじらんない!! フツー間違える!?」
「……」

 怒り続ける少女のとなりで、師匠はもそもそと朝食を口に詰め込んでいた。その頬には見事に手の跡がついている。その向かいで心底楽しそうに笑い転げていたランバールが、にじむ涙を拭いながら言った。

「センパーイ、さすがにそれはまずいっスよ。で、昨夜はどこに行ってたんスか?」
「酒場で何杯か飲んできただけだが……」
「ふーん、それから女の人も引っかけてきたってわけ? へぇ~」

 ニチカがトゲを含ませて言うと、オズワルドは不思議そうな顔で少女に向き直った。

「? 何を怒っている」
「別に!」

 少女は自分の皿を持って立ち上がりキッチンに移動する。流し台に食器を突っ込むと怒りに任せて乱暴に洗い始めた。別にあの男が誰と寝ようが、そしてその誰かと自分を間違えようが、一向に!これっぽっちも!まったくもって関係が無い! そう頭の中で思い込もうとする。

(思い込もうと? バカじゃないの)

 わけのわからぬ感情に振り回されて戸惑いを覚える。なんだかいつもの自分ではないようだ。ふぅっと息を吐いた少女は、手を拭うと居間に戻ってきた。まだ食べ続けている師匠に、もう一人の連れの行方を尋ねる。

「そう言えば、ウルフィはどうしたの?」
「来てないのか?」
「え」

 てっきりオズワルドが迎えに行ったものだとばかりニチカは思っていた。動揺して窓の外へと視線を向ける。

「もしかして何かあったんじゃ」
「大丈夫だろ、何かあれば契約を交わしている俺に何か言ってくるはずだから」

 呑気にふぁぁとアクビをした男は最後の一欠けを口に放り込むと続けた。

「最悪、呼び出すこともできる。心配するな」
「でも……」
「好きにさせてやれ。そんなことより今日のレースは大丈夫なのか?」
「はっ、そうだった。ラン君」

 ウルフィの事は気になったが、自分にも差し迫った課題がある。ニチカはボーっとしているランバールに声をかけた。だが反応がない。聞こえなかったかともう一度呼びかけると、ようやく彼は振り向いてくれた。

「え、ごめん、何?」
「そろそろ集合時間だよね? 案内してくれると嬉しいんだけど」
「あぁ、うん、そうだね」

 やっぱりどこかおかしい。首をかしげたニチカだったが、ホウキを手にすると会場に向かうべく立ち上がった。

***

 風の里で開催されている飛行レースの中でも、最大規模の『シルミア杯』。年に一度、開催される大イベントを一目見るため、風の里へ押し寄せる観光客が年々増加しているらしい。

 そのメイン会場は入ってきた門のすぐそばの大きな広場だった。紙ふぶきが舞い、子供たちが興奮したように風車を手に走り抜けていく。屋台などもたくさん出て楽し気に盛り上がっているというのに、ニチカは青い顔をして立ち尽くしていた。

「どっどど、どうしよう、いまさらだけどすごい緊張してきた」

 彼女がおじけづくのも無理はない。何せレースの参加者と思われる人たちが本部のテント付近にチラホラと居るのだが、どの人を見ても美形揃いなのである。衣装もきらびやかだし、急に場違いのような気がしてきてしまう。隣に居た師匠が安心させるように言ってくれた。

「これだけ大人数なんだ、珍獣が一匹紛れ込んだところで誰も気づかないだろ」
「えーえー! どうせ私はペタコロンですよ!」

 悪意あるフォローにダンッと足元を踏みつける。よっぽど自分で出てみろと言いたくなったがグッと我慢する。この男なら何の違和感もなくあの美形集団の中に溶け込めてしまうだろうから。いつも通りのやりとりに頬を膨らませていると、急に横から伸びて来た手に腕を引っ張られニチカはバランスを崩した。

「ちょいとアンタ! 例の飛び入り参加者だろ!?」
「えっ?」

 声のした方を見れば恰幅の良い婦人が赤ら顔で息を切らしているところだった。どなたですかと尋ねる間もなく、彼女はむっちりした手でニチカの腕を掴み引きずり出した。

「シルミア様から話は聞いてるよ、まだそんな格好をしてたのかい? 早いとこ着替えないとスタートに間に合わないよ!」
「わっ、あの、ちょっと!」
「はいはい、余計な装飾は外す!なんだい、魔導球の持ち込みなんて一発で退場だよ」

 手早くニチカの身包みを剥がしたおばさんは、それを隣にいたランバールに押し付けた。

「ほれラン坊ちゃん、預かっときな。行くよ嬢ちゃん!」
「わ、わああ!」

 情けない悲鳴をあげながら、少女は本部テント脇の衣装スペースに連行されていった。それを見送ったランバールは、オズワルドにニチカの荷物をまとめて手渡しその場を去ろうとする。

「これ、センパイが持っておいた方がいいと思うっス」
「?」
「じゃ、オレちょっと街の役員で別の仕事頼まれてるんで」

 それだけを言い残し、ランバールは人込みの中に消えていった。
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